御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
この寺院(ブログ)では、4回にわたって放送された、NHKEテレ「100分de名著:維摩経」について、復習と感想文、場合によっては補足した事柄もお伝えしております。
以前、全て受講し終わって、復習や感想文もまとめ終わったら、一度どこかで総集編的なまとめページをこしらえる、というような話をした記憶がありまして。
今回は、その事を実際に実現した話で御座います。
言ったからには、やはりきちんとやっておかないと。
NHKEテレにて、2017年6月の題材となった「維摩経」を、私は4回とも視聴して、何度か見返しております。
そして、その復習と感想文を、要点を掻い摘まんだ形でまとめてきました。
場合によっては、維摩経の補足的な事柄や、注意したい事柄についても、感想文と一緒にまとめております。
もっとも、それも私の主観によるものであり、絶対ではありませんから、そこのところはご注意下さればと存じます。
「※個人の感想です」というテロップありきで読んで頂くと、より安全でしょうかね。
今回は、各々の放送回を復習出来るように、この総集編的まとめページから個別に飛べるように致します。
ここを拠点として、維摩経の世界に触れる仏縁として頂けましたら、嬉しゅう御座います。
また、これを機会に、維摩経を読み始めたり、仏教を学ぶ一歩目となる一助となりましたら、嬉しく思います。
Contents
100分de名著:維摩経|テキストで予習した話
「100分de名著:維摩経」は、釈徹宗さんが指南役となって、進行していきました。「歎異抄」の時も感じた事ですが、釈徹宗さんの解説は、例え話もわかりやすくて、非常に有り難し。
実際、2回ほど釈徹宗さんの講演会に参加させて頂いたのですが、そこでも感じた事に御座います。
そういう御縁もありまして、今回も楽しみにしていた、釈徹宗さんの解説による「100分de名著:維摩経」。
私は早速、本屋までテキストを購入しに言って、テキストを使って予習を致しました。
また、以前に読んだ、釈徹宗さんの維摩経解説書「なりきる、すてる、ととのえる」も引っ張り出して、改めて維摩経の解説を学び直したもので御座います。
この手のNHKEテレの番組は、テキストが用意されておりますから、活用されると宜しいかと存じます。
実は私の家族も、「趣味の園芸」を、テキストを用いながら勉強していたり。
「100分de名著:維摩経」のテキストも、それ自体が非常に良書であるというお味わいを頂いておりまして、維摩経を学ぶにおいて、良き解説書です。
その事については、こちらで詳しくお伝えしております。
参照記事:「100分de名著テキスト「維摩経(釈徹宗さん)」読書感想文|本放送・再放送前の予習をしました」
折角ですから、ここでお伝えしております、「なりきる、すてる、ととのえる」も、リンクしておきます。
維摩経を学び始めるなら、ここから始めるのも宜しかろうと存じます。
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100分de名著:維摩経|一回目の放送
「100分de名著:維摩経」の、一回目の放送については、こちらです。参照記事:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」
第一回目の放送では、維摩経の冒頭、ブッダが仏弟子達と一緒にいるシーンから始まります。
仏教書やお経は、大体がブッダが教えを説く場面から始まるという形を取っておりまして、その事を「如是我聞」という文言から始まります。
浄土宗、あるいは真宗・浄土真宗で、毎日「阿弥陀経」を称えている人ならば、最早おなじみではなかろうかと存じます。
維摩経も、確かに始まりはブッダが登場します。
しかし、維摩経では主人公は維摩居士という在家の人で(正体は後ほど明かされますが)、在家の人が主人公という、なかなか珍しい仏教の書に御座います。
この、在家を主人公に据えた仏教書が、日本に仏教が入った時に重要な三つの仏教書の一つとされた事が、日本仏教が在家寄りの仏教という趣がある事にも関係している、と、釈徹宗さんは教えて下さいます。
在家にいながら仏道を歩む、という形体が発展したのは、維摩経も一役買っているというわけですね。
第一回放送では、ブッダと仏弟子達が登場する場面と、維摩居士が病気になったと言う事、そこから垣間見える維摩居士とはどういう人物か、という事が描かれます。
それと共に、仏教の基礎知識的な話もされております。
また、仏教は、仏教それ自体に脱構築の装置が内蔵されているという、「仏教は、脱構築装置内蔵宗教」という話も出て来ます。
これはなかなかにわかりやすく、かつ要点を言い当てた文言であり、非常に重要な話で御座います。
私は、第一回の放送から目が離せない内容であるなあ、と、頂いた次第であります。

100分de名著:維摩経|二回目の放送
続く二回目の放送では、私が好きな場面である、「弟子品」から「菩薩品」と、文殊菩薩が登場する場面まで話が進みます。参照記事:「100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の復習|得意分野を揺さぶる」
弟子品と菩薩品では、維摩居士が出家者、仏弟子や菩薩達に教えを諭すという場面が描かれています。
私は別に、出家者が在家の仏教者に言いくるめられるのが痛快、という意味で、好きなわけではありません。
この場面は、「得意分野を揺さぶる」という事で、謙虚さであったり、己の進化を止めてしまわないための装置としての学びであったり、気づきがある事から、好きな場面でありまして。
人は易きに流れると言いますか、得意な事が出来ると、その得意な事に関しては、鼻に掛けたり自慢したりと、「慢心・慢の煩悩」に、してやられる事が御座います。
私も得意分野であったり、いわゆる「勝ちパターン」が出来上がると、そこにふんぞり返ってしまう事がありましてね。
そういったところを戒めてくれる、娑婆世界でも十二分に通用する、有り難く尊い教えであると、この辺りの話を頂いております。
文殊菩薩が登場して、維摩居士の家へお見舞いに行くシーンでは、ちょっとした笑い話と、維摩居士と文殊菩薩による禅問答的なやり取りも、二回目の放送で解説されています。
笑い所というのは、ブッダから維摩居士へのお見舞いを断った仏弟子や菩薩達が、文殊菩薩が行くと決まるやいなや、手の平を返して付いていく、という場面です。
「いや、おたくら断ってたやん、結局行くんかい!」と、突っ込みたくなるところです。
いませんかね、こういう人。
第二回放送での補足的な事柄
「100分de名著:維摩経」の、2回目の放送を終えた時、私は注意事項であったり、補足的な話をしております。第二回放送では、「弟子品」と「菩薩品」にて、弟子達や菩薩達が、維摩居士に得意分野を揺さぶられる場面が紹介されております。
この場面を上っ面だけしか読まずに、「そうか、アドバイスはこうやってやればいいんだ」と、短絡思考で結論づけて、それを人にぶつけてしまうという輩も出てこないか、という懸念が御座いましてね。
それをやられたら、人によっては意気消沈するだけであったり、場合によっては陰鬱としてしまう事にもなりかねません。
得意分野を揺さぶるような諭し方をしても大丈夫であるかどうか、きちんと相手を見極める事が肝要です。
仏教には、「対機説法・応病与薬」であったり、「卒啄同時」という教えがあります。
(「卒」は、口偏が付きます。機種依存の関係などにより、「卒」にしております。)
それを無視して、相手をきちんと観ずに、相手がきちんと受け取れる状態であるかを検証する事もせずに、得意分野を揺さぶるという事をぶつける事は、大変危険です。
コンサルタントやコーチング云々を自称していたり、先生と呼ばれる人達は、特に注意して欲しいところであります。
それが出来ない、やる気もないのであれば、そんな輩は人を傷つけるだけですから、コンサルタントやコーチング等、指導者としての仕事はやめるべきです。
参照記事:「維摩経に学ぶコンサルタントやコーチ・指導者の在り方と注意事項|落とし穴に嵌まらぬためには」

100分de名著:維摩経|三回目の放送
「100分de名著:維摩経」の、三回目の放送では、「空の実践」「縁起の実践」という話が出て来ます。実は私、「空(くう)」について、未だ着地したり結論づけたり出来ていないから、「空(くう)」については解説を意図的に避けております。
私は、「空について説明して下さい。」と出題されても、上手く応える自信がありません。
確かに、維摩経やEテレのテキストには、「空は無分別です。」とあります。
また、「空」とは、二項対立を悉く解体したり、脱構築の力があったり、執着したり留まらせない力を感じております。
それゆえにと言う事も有るのですが、私は「空」を「これだ!」と結論づけて解説する事が出来ないのです。
それは、私の能力が低くて、理解不足というのもありましょう。
この事は、ここで正直に申し上げておきます。
「空」について、私は未だに結論づけたり、その上での解説は出来ません。
ただ、これは真宗大谷派のお坊さんからも教えて頂いた事でもあるのですが、「空」には破壊力があると言いますか、安易に結論づけて人にぶつけるものではない、という直感・直観がありましてね。
ゆえに、「空」の解説は、自覚的に避けました。
ぼんやりとした理解はその都度ありますけれども、維摩経と共に、「空」への挑戦であったり、「空」について考える事も、一生涯付き合っていくことになりましょうか。
参照記事:「NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第3回放送の復習と感想文|空の実践・縁起の実践」
維摩経の第三回放送では、この他には、在家で生きる仏道についてであったり、舎利弗さんがフルボッコ気味にされるという場面が出て来ます。
改めて読み返してみると、維摩経では舎利弗さんって、フルボッコにやられ気味ですな。
維摩経ではフルボッコ気味な扱いですが、舎利弗さんは、仏弟子筆頭であり、智慧第一と称される程の人ですから、維摩経基準で舎利弗さんを考えるのは、ちょっと待った方が宜しいかもしれません。
ちなみに私、最初にみせて頂いたガンダムという作品群では、「08小隊」という作品でありましてね。
ゆえに、ガンダムは08小隊基準になっているのですが、「それを基準にするのはちょっと・・・」と、とめられました。
100分de名著:維摩経|第四回・最終回放送
「100分de名著:維摩経」も、いよいよ第四回放送、最終回の放送についてです。参照記事:「「100分de名著:維摩経」最終回本放送を視聴しました|二項対立の脱却と「お世話され上手」」
最終回では、菩薩達の二項対立を解体する話が沢山出た後に、維摩経最大の有名ところとなる場面となります。
「維摩の一黙、雷の如し」
この場面の後で、別の仏国土から菩薩達がやって来ます。
その仏国土は「衆香国」というところで、香りでコミュニケーションを取ったり、修行したりする仏国土です。
実はここでも、非常に大切な事が語られています。
これは、私も常々頂いている事でありましてね。
仏法は、何からでも、どのような事柄でも生部事が出来る、頂く事が出来るという、開かれている教えという味わいを、維摩経のこの場面から、頂く事が出来ます。
仏法・仏教は、何も書物であったり、経典からだけ学ぶものではありません。
もちろん、経典であったり、仏教書を読み咀嚼する事も、大切な事です。
ただ、それだけに留まらず、「蒟蒻問答」にあるように、ガラクタから仏法であったり、教えを頂くことだって出来るのです。
私が「我利我利亡者なる詐欺師を反面教師に」と言っておりますが、それもその一つですね。
禅僧である藤田一照さんが「仏法の中に生活している」と仰るのを、私はこの話の事であるのかなあ、という頂き方をしております。
そうしその後の話は、実は維摩居士という人物は、仏国土からやって来たという、大どんでん返し的な正体明かしがブッダからあったり、歓喜のフィナーレとなります。
放送では、維摩経を読み終えた後の、釈徹宗さんが仰る「お世話され上手」の話は、現代社会を生きる私達にとって、とても大切な事であるなあ、と、改めて頂いた事で御座います。
「お世話され上手」については、どんぴしゃりの題名の本を、釈徹宗さんが書かれていますから、詳しくはこちらを読まれると宜しいかと存じます。
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最終回の補足:注意事項であったり罠であったり落とし穴であったり
「100分de名著:維摩経」の最終回を終えて、改めて気をつけたい事について、お伝えしております。参照記事:「100分de名著:維摩経で学んだ事と注意したい落とし穴|人にぶつけるものではない」
これは、私自身への、自戒を込めた話でもあります。
第二回放送や、第三回放送のところでもお伝えしましたように、維摩経の上っ面だけを真似して、人にぶつけるという事を、やらかしてしまう人も出てくるのではないか、という懸念が御座いましてね。
浄土宗の勤行では、法然上人が教えて下さる「智者の振る舞いをせずして」という文言が御座います。
これは、お念仏の教えについての話ではありますが、私は生活信条、娑婆世界を生きる智慧としても頂いております。
今回の維摩経に応用すると、例えば「得意分野を揺さぶる」という事を、さもよく知っているかのように振るう、という事です。
「俺、維摩経で得意分野を揺さぶるという概念を勉強したから、使いまくってやるぜウェイ!」とか、やっちゃうという事ですね。
はっきり言って、迷惑千万、勘違いも甚だしい。
また、維摩経を読んで、「空」について知った気になって、維摩居士気取りの振る舞いをして、「それは空である!」と、「空」を相手にぶつけるとか、なんとも恐ろしい。
「空」をぶつけるのは、忍空の空忍か風忍辺りだけで十分です。
維摩居士気取りの振る舞いは、愚者や地獄餓鬼畜生の類いがやらかしても、薄ら寒いか痛々しいだけです。
「痛いしキモい」と言われるのがオチでっせ。
その他、「維摩の一黙」を、ただ黙ってれば良いという在り方で実践する輩も、出てくるかなあ、という懸念も御座います。
そういった事に陥らないための注意や罠、落とし穴についても、きちんと学んでおきたいものであります。

維摩経をはじめとして、一生涯付き合う事になる仏教の話
今回は、100分de名著:維摩経を、四回の放送全てを視聴して学び終えて、総集編的なまとめページとして、お伝え致しました。維摩経は、一生涯を書けて付き合っていける、一生涯学び続ける事にもなるという予感がしている、仏教の名著であると、私は頂いております。
今回の復習をしている時点・地点から移動した先では、頂き方やお味わいが違ってくることもありましょう。
維摩経に限らず、歎異抄であったり、法然上人の言葉等も、一生涯付き合ったり、一生涯向き合う事になるお味わいであると、頂いております今日この頃。
未来を言うと、また維摩居士に諭されそうですが、この先、どのタイミングで、また維摩経を開くかはわかりかねますが、開いた時に、どのような味わい方や頂き方をするか、それも楽しみであります。
合掌、礼拝