第13回増上寺24時間不断念仏会2018後編:お念仏を行じてプラユキ・ナラテボーさんの教えとも繋がる体験談

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



前回は、増上寺で開催されました第13回24時間不断念仏会2018の前編と題して、タイムテーブル的な話、事務的な内容の話をして参りました。


後編では、お念仏をしている時に気づいた事や感じた事、頂いた気づきなどをお伝え致します。



法然上人は、一枚起請文にて「ただ一向に念仏すべし」と残して下さっているのですが、気づいたり考えたりしながらという状態は、一向に念仏しきれていないなあ、とは思いつつ。

気づいて実践し糧とする事によりて、私の人生にとって妙薬となる事もありましょうし、法然上人も「まあ、是非もないか」と、言って下さいませんかな。



今回の24時間不断念仏会におきまして、お念仏に励んでいる最中、私は幾つかの事に気づいたり、「繋がった!」という体験をしております。

その一つに、プラユキ・ナラテボーさんから教わった話にも繋がる体験が御座いまして。

大乗仏教の、日本で現在まで続いているお念仏の教えと、テーラワーダ仏教の教えが繋がるという体験。

もしかしたら、各々の教義的には「そりゃ違う」と言われるかも知れませんが、私の身に起こった出来事として記します。

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24時間不断念仏会の経行(きんひん)を歩行瞑想的に行ずる

今回の、第13回増上寺24時間不断念仏会2018では、途中でお念仏を音楽的に歌う感じで唱えながら阿弥陀仏の周りを歩き続けるという、「経行(きんひん)」を体験する御縁を賜りました。

歩きながらお念仏して阿弥陀仏と出会うというと、永観堂禅林寺の見返り阿弥陀仏を連想するところであります。

私は今回、見返り阿弥陀仏を垣間見てはおりませんが、有り難き気づきを頂くに至りまして。



経行は、ゆっくりと歩きながらお念仏を称えます。

いや、お念仏を中心と据えると、お念仏をしながら歩く、と言った方が宜しいでしょうか。



とにもかくにも、一同ゆっくりと念仏道場をお念仏しながら歩いておりまして。

その時、私は一歩一歩気づきながら、お念仏している事にも気づきながら歩くことにしたのですが、この時に「歩行瞑想的に」という発想に至りましてね。

今回の経行は、歩行瞑想的に行ずる事としたのです。



一歩一歩、一声一声、丁寧に経行する。



もちろん、未熟な凡夫である私は、別のことを考えはじめます。

「曲がる時は、こういう感じのターンかな。」とか、「喉が痛くなってきた、この後は水をこれだけ飲んで喉を潤して」等々。

人によっては、「あ、ラインにメッセージきてるかな。」等々、考えることもありましょう。

そういう考えが浮かんで来た時、気づいて経行に戻る。

これを繰り返す。



お念仏の行に励みながら、テーラワーダ仏教で教わった事も行じる、という事を、このときに体験したものであります。

そしてこれは、お念仏の教えや行と相反することなく、つつがなく行じる事が出来ました。



お念仏も一歩一歩の歩みも丁寧に。



丁寧に経行をするという事、今回は少しは出来たかなあ、と、振り返る事に御座ります。

御縁賜った共にお念仏する方と大木魚を叩く体験:共にお念仏出来る喜び

今回の24時間不断念仏会でも、私は大木魚を叩かせて頂く御縁を賜りました。



大木魚とは、念仏道場でお念仏をする際に、リズムをリードする大きな木魚の事です。

ご家庭に木魚がある人ならば、その木魚の大きさを思い出して頂くとわかりやすいかと思いますが、その木魚よりも大きな木魚です。



木魚を叩く棒、「ばち」と呼ばれる道具がありますが、これも大きくて重めであり、叩くコツを掴むまでは手が疲れるかと思います。

私、何も知らなかった時には(今もようわかっておりませんが)、力任せに叩いて手が疲れたことがありまして。

強く握りすぎて、まめが出来たこともあります。



そのような大木魚ですが、24時間不断念仏会では、お坊さんやスタッフに「大木魚叩きたい」と申請すれば、叩かせて頂けます。

そして今回、恐らく在家の方と思われるお二人の方と共に、大木魚を叩かせて頂く御縁がありまして。



共に大木魚を叩きながらお念仏申している時、私はふとこのような事を気づき、思うた事に御座ります。

「一回のお念仏でも救われるこの身、私も隣の方も、各々のお念仏にて、共に救われていく身であるのだろうなあ。」



私というと、以前はこんな増上慢、慢の煩悩にて、お念仏を使って他者を評価しておった時が御座います。

「私の方が声が大きく、私のお念仏の方が優れている」等という、何とも傲慢な煩悩燃えさかる私でありました。(いや、今もですが。)



しかし今回、共に木魚を叩きながらお念仏に励む方の姿から、このような事を思うに至りました。



「阿弥陀如来の御前にあるこの凡夫の身、この各々のお念仏にて、各々が各々のままに、共に等しく救われていく。」



お念仏で競争していた私ではありますが、今回、お念仏を競争の道具では無く、ただただ等しく救われていく、その事が立ち上がってきまして。



私と共に大木魚を叩かれた善友なる方は、声色も違う、音量も違う、叩き方も違う。

でも、阿弥陀如来の御前におきましては、各々がお念仏にて等しく救われる身である。



その事に改めて気づかせて頂けた善友・同朋との大木魚を叩くひとときに、感謝申し上げる次第であります。

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蝋燭と線香から無常を教わる

今回の24時間不断念仏回in増上寺にて、気づいた事や学ばせ頂いた事は、他にも御座いまして。



あれは確か、深夜にお念仏をしておった頃でしたかな。

蝋燭と線香をぼんやりと視界に入れながら、木魚を叩いてお念仏している時の事で御座います。

視線は、じーっと蝋燭と線香を眺める方向で、木魚の音と共に自身のお念仏の声も聞いておったのですが。

ふと、こんな事が想起されまして。



「この蝋燭も線香も、現世において形としてはいつか燃え尽きる。」



その瞬間、このような事にも思い至りました。



「ああ、これが無常という事なのか。蝋燭も線香も、そしてこの身も常ではない。」



それと同時に、このような事も浮かんで来まして。



「今、この長さの蝋燭も線香も、ただただこのようであるだけで、1時間前は1時間前の姿でしか無く、燃え尽きたときは燃え尽きた時の事柄でしか無い。」



なんでしょう、こう、無常と言うことを、以前に坐禅したときに「引き受ける」という事を、身口意の三業を通して繋がったという理解をした話をしましたが、無常についても、何かそんな感じの「繋がった」という体験を、その時にしたのです。



蝋燭と線香の、今の状態も、ただただそうであるだけで。

それが視界に入っている私の身も、ただただそうであるだけで、この身で引き受けるだけである。



蝋燭は蝋燭で、線香は線香で、ただ燃えているだけです。

しかし、この時の私は、お念仏を称えながら、無常という仏教が教え説く事柄について、確かに教わったような、そのような感じでありました。



蝋燭と線香から、仏法を頂く、この出来事があっただけでも、第13回増上寺24時間不断念仏会は、有り難き仏縁を賜ったと言えるような、そんな気が致します。

プラユキ・ナラテボーさんの手動瞑想の教え「昨日の手でも明日の手でもない、今ここ」にも繋がる

私は、上述した事を蝋燭と線香から教わった時、次の瞬間には、プラユキ・ナラテボーさんから教わった事も思い出しまして。

なんだか、全然「ただ一向に念仏すべし」になりきれておりませんが、自然と浮き上がってきた事柄、想起された事ゆえに、仕方ありません。



一体、何かどう、プラユキ・ナラテボーさんの教えと繋がったのか。

プラユキ・ナラテボーさんは、手動瞑想の時に、必ずと言っていいほど、次のことを教えて下さいます。



「今、こうして気づいている手は、昨日の手でもなく、明日の手でもない。どこか遠くにある手でもなく、今ここに確かにある手である。」



言われてみれば、改まって言うことではない、と思われるやもしれません。

しかし、そうはいっても、実際にこんな事を考えたりする事って、ありませんかね。

例えば、手を切ったりした後、3日くらいは手を観る度に、「そういえば、あの時に手を切って怪我したんだよな、思い出してきたら腹立たしくなってきた。」等々。

これこそ、この手は今ここにあらず、自身の想念によって怪我をした過去の手にしてしまっている、という見方も出来ましょう。



そうではなく、手動瞑想をしている時の、ぱっぱっぱっぱと気づいているこの手は、今ここの手でしかありません。

そのことを思い出した時、今ここで燃えている蝋燭と線香は、今ここの蝋燭と線香でしかなく、長さも観たままでしかない、そのように、ふと思うたのです。

1時間前の蝋燭と線香の長さは、その時の長さ・姿でしかありません。



また、このような事も思いました。



「今、こうしてここでお念仏しているこの身は、昨日の私でも明日の私でもなく、京都にいる私でもなく、東京の増上寺にいる、今ここの、この身である。」



増上寺でお念仏を申しておりました私は、増上寺の、ただあのようであった身であります。

そして、恐らく秋に開催されると思われる清浄華院でのお念仏は、その場その時のお念仏、ただただそうであるという事です。

そして、そこで御縁賜ってお念仏している身を、ただただ引き受けていく。



何かこう、色々と学び実践してきたことが、すっと繋がったような、そんな気が致したもので御座います。

お念仏で繋がる24時間は、私の身口意も繋がり腑に落ちた有り難き24時間

今回は、前回に引き続き、第13回増上寺24時間不断念仏会2018について、私が気づき学んだことについて、お伝え致しました。



上座部・テーラワーダだからどうのこうのだとか、大乗仏教だからどうのこうのではなく、どちらからも教わった事が、この身を通した繋がったという体験を頂けた、有り難き仏縁となった24時間不断念仏会。

私は、浄土宗の教え、法然上人の教えと出会ってから、別時念仏会は、普段・日常ではお念仏を忘れがちであり、定期的に別時念仏会に行くことで、怠けている身を調えるという意味を見出しております。



今回、お念仏を怠けてしまう自身を省みて、念仏道場でお念仏に励みながら、テーラワーダ仏教・プラユキ・ナラテボーさんから教わった事も繋がるという事柄を体験・体感致しました。

今回の話は、ただただ、この身に起こったことを羅列したわけですが、もしかしたら教義的には間違いだと言われることであるかもしれません。

しかし、今回話したことを体験したことは事実です。

これも一つの、宗教体験というやつでありましょうかね。



今回の24時間不断念仏会で頂いた教えを、大切に日々を生きていく事に御座います。



尚、24時間不断念仏会の様子、私の体験談ではありますが、それにつきましては、前回の記事を読んで頂ければ、おわかり頂けるかと存じます。



参照記事:「第13回増上寺24時間不断念仏会2018前編:お念仏に三唱礼拝に経行に朝勤行に」



前回と今回の話で、24時間不断念仏会に興味を持たれて、共にお念仏に励む時空間を共有出来る御縁となりましたら、嬉しゅう御座います。



ただ一向に念仏すべし。



合掌、十念、礼拝

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