増上寺第12回24時間不断念仏会体験記後編|在家仏教者で念仏者の感想文やら体験談やら

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



前回は、増上寺で行われました、第12回24時間不断念仏会について、お伝え申し上げました。
前回の話は、事実の羅列、私が体験した事と申しますか、私のタイムテーブル的な話をしております。

今回の話の前に、前回の話をお読み頂くと、よりわかりやすいかと存じます。



参照記事:「増上寺第12回24時間不断念仏会体験記前編|ただ一向に念仏すべし」



増上寺の24時間不断念仏では、近所にいながら、仏縁とは遠くて、友人知人から聞いて始めて参加された、という方も幾人かいらっしゃいました。

もしかしたら、増上寺で24時間不断念仏会がある事を、知ってはいたという人もいらっしゃるやもしれません。



また、プログラミングについて調べ物をしていたり、プログラミングスクールやProgateについて検索していて、こちらに来られた人もいらっしゃることでありましょう。

機会は様々あれど、どのような御縁であっても、今回の話に辿り着いて頂いた方に、幾許かの知識と興味を受け取って頂ける御縁になりましたら、と思うております。

そしてそれが、お念仏との御縁、仏縁を結ぶきっかけとなり、人生における妙薬や糧との出会いという御縁にも繋がりましたら、大変嬉しゅう御座います。



というわけで、増上寺第12回24時間不断念仏会に参加させて頂いた、在家仏教者で念仏者なる私の体験談・感想文をお伝え申し上げます。

追体験的に読んで頂き、関心を寄せて頂けますと、有り難し。

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24時間不断念仏会とは、そもそもなんぞや?

今回、私は4度目の24時間不断念仏会、増上寺では2回目の24時間不断念仏会への参加と相成りました。

まとまった時間、長時間に及ぶお念仏の会、浄土宗では「別時念仏」または「別時念仏会(べつじねんぶつえ)」と言うのですが、なぜそのような仏事・法要があるのか。

また、何故私は、定期的に参加される皆さんと共に、お坊さんと共にお寺に赴いて、お念仏に励むのか。

そういった理由なり根拠を知りたいという方も、いらっしゃるかと存じます。

現代社会において、現代の娑婆世界では、特にそういった「理由探し・根拠探し」が盛況でありましょうからね。



別時念仏会は、「三種行儀」の一つです。

「三種行儀」とは、「尋常行儀(日課念仏)」「別事行儀(別時念仏)」「臨終行儀」の事です。

その中の「別事行儀」とは、一定の日時を決めて念仏を称え続けることです。

「24時間不断念仏会」も、別事行儀です。



24時間、増上寺の光殿に集まり、ただ一向に念仏すべし、と、お念仏に励むのが「24時間不断念仏会」である、と「別時念仏会」という説明の仕方が出来ます。

「24時間不断念仏会とか、24時間の別時念仏会とは、そもそもなんぞや?」と問われたら、このような返答・応答の仕方になりましょう。

24時間不断念仏会をはじめとする「別時念仏会」と法然上人の御言葉

では、何故に「24時間不断念仏会」をはじめとする、別時念仏会があるのか。

なぜ、別時念仏を大切にしているのか。



浄土宗では、僧侶の方々も、私のような壇信徒であったり在家仏教者・在家の念仏者は、日課念仏を致しております。

私も朝と夜の勤行にて、南無阿弥陀仏とお唱え申し上げておる日暮らしで御座います。

ちなみに、既にお隠れではありますが、増上寺の法主をつとめられた寺内大吉上人は、3万5千回の日課念仏をされていたそうです。(寺内大吉さんの「法然のことば」より)



念仏者にとって、毎日のお念仏、尋常行儀・日課念仏は大切であります。

しかし、そうはいっても人という存在は、お念仏を忘れる事も多く、いかんせん怠りやすい凡夫で御座います。

私も、プラユキ・ナラテボーさんから頂いております瞑想の功徳や智慧などにより、その事に気づく機会も増えてはおりますが、それでも怠りやすい凡夫であるという自覚を持っております。



このような人の有り様を、法然上人は歌にして下さっていますよ。



「池の水 人の心に似たりけり にごりすむこと(濁り澄むこと) さだめなければ」



是は、増上寺の三解脱門をくぐってから、大殿に向かって少し歩いたところにありますところで確認出来る、法然上人の歌・御言葉に御座います。



人の心は、まこと池の水に似たものであり、濁ったり澄んだりと、定まっておらぬものです。

また、池の水は風が吹いたり、外部からばしゃばしゃと手を突っ込まれたら、簡単に波打ってしまうもの。

そのような人の有様を気づかせて頂ける、法然上人の御言葉に御座います。



別時念仏会は、このような乱れやすい人の性質(さが)を確認すると共に、お念仏に励んで戒める機会である。

そのような頂き方をしております私です。
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増上寺の24時間不断念仏会内の行事「大殿での朝勤行」に参加させて頂いた御縁

増上寺の24時間不断念仏会に参加させて頂きまして、私の体験談、感じた事などの感想文めいた話を、本格的に致しましょう。



前編を読んだ頂くとおわかり頂けますが、増上寺の24時間不断念仏会では、「増上寺の朝勤行」に参加する機会が御座います。

この別時念仏会を通して参加致しますと、滅多に入る事が出来ない「内陣」にて、朝の勤行を共に勤めさせて頂く事が出来まして、大変貴重な体験ではなかろうかと思うております。



お寺での朝勤行と言えば、清浄華院でも体験させて頂きました。

その時も、土屋上人に案内して頂きましてね。



清浄華院は清浄華院で、凄く厳かな雰囲気があり、大変有り難き体験をする御縁を頂いたものですが、増上寺は増上寺で、また違った雰囲気・空気を頂けたもので御座います。

何か、こう、個性と言うのでしょうか個別性というのでしょうか、上手く言語化出来ませんが、そのお寺独特の感じがするという事を、体験したものであります。



また、大殿と光殿の行き帰りは、「なーむあーみだーぶー」とお念仏を称えながら歩く「行道」をしながらです。

朝のお寺独特の空気・雰囲気を味わいながら、仏道修行を体験出来るという、なんとも有り難き御縁であります。

私は、前回の24時間不断念仏会でも、このことを如実に感じました。



増上寺は、周囲は東京タワーや高層ビルに囲まれている、いわゆる都市部にあるお寺です。

このような都市部では、喧噪や騒音があって当然という感覚を持っておったものですが、早朝の増上寺は、本当に都市の中にいるのか、ということを忘れてしまうほどの、澄んだ感覚を覚えたものです。



こういう空気感を感じる場所を、「聖域」と呼ぶのでしょうか。



聖域的な感覚は、大殿の中でも頂きました。

大殿の中に響き渡る、僧侶の念仏や御経の声は、まさに「凛(りん)」という言葉を体感出来る貴重な体験に御座いました。



早朝の増上寺と、大殿での体験を、一言で表すならば、「静凛(じょうりん)」と申しましょうか。

言語化出来ない程の体験・感想が御座るのですがね、何とか一言にしますと「静凛」と言ったところに御座います。

24時間不断念仏会内の行事「増上寺の案内」にて頂いた御教え

増上寺の24時間不断念仏会に参加すると、午前10時から1時間から1時間30分程かけて、お坊さんに増上寺の中を案内して頂けます。

今回は、観智院のご住職であられる土屋正道上人直々に、増上寺の境内を案内して頂けました。



徳川家との関わりや、戦時中に焼けてしまったけれども三解脱門だけは空襲の中でも焼けずに残った、などなど、色々とまつわる話を頂けまして、非常に有り難し、感謝申し上げる次第で御座います。

三解脱門と言えば、知恩院にもありますね。

知恩院の三門もそうですが、増上寺の三解脱門の中にも、釈迦如来・釈迦牟尼仏と十六羅漢がおわします。

参照記事:「ミッドナイト念仏in御忌2017の待ち時間等の注意点を経験者はかく語りき」

参照記事2:「ミッドナイト念仏in御忌2017(知恩院の三門内部)に行って来た感想やら体験談やら」



また、増上寺の境内案内では、増上寺の正式名称について、なぜそのような名前なのか、という話も、土屋上人から教えて頂きました。



私、実はよく調べずにおりまして、増上寺の「増上」とは、「増上慢」からきている、と、勘違いしておりましてね。



法然上人は、放っておけば人というものは、慢の煩悩にしてやられたり、煩悩燃えさかるという事を、誤魔化さずに生きられた方です。

満の煩悩を戒めて下さる教えの話に、「三つの髻(もとどり:ちょんまげのこと)」という話も御座いますか。

「三つの髻」の話は、また違う機会がありましたらお伝えすると致しまして。(自己を調えるに大切な話ですから、独自に検索して学ばれるのも宜しいかと存じます。)



そういう話を知っていたために、「増上寺は、増上慢を戒めるという意味があって、由来もこんな感じだろう」と、違った解釈をしておりました。

土屋上人に、直接お話し頂けて、「そうだったのか!」と、知るに到りました。

増上寺が「増上寺」である由来

5月7日の午前中、土屋正道上人から、増上寺の名前の由来や、なぜ「三縁山」なのか、という話を頂きました。



増上寺の正式名称は「三縁山広度院 増上寺」です。



増上寺が、なぜ「増上寺」という名前であるか、その由来は「三縁山」という山号に御座います。



「三縁山」の「三縁」とは、念仏申す者への、阿弥陀仏による救いの御縁の事です。

念仏によって結ばれる三つの縁とは、「親縁(しんえん)」「近縁(ごんえん)」「増上縁(ぞうじょうえん)」の事です。



「親縁」とは、「仏と親しく結ばれる」という意味と、「父母(ぶも)の如く」という意味が御座います。

阿弥陀信仰のある宗派、浄土宗や真宗・浄土真宗、特に私の体感としましては、真宗僧侶からよく「親様」や「お育て頂く」という言葉を聴くことがありますが、このことに関係しております。

阿弥陀仏を「親様」であったり、「お育て頂く」というのは、この「親縁」によって、阿弥陀仏と親しく、また父母のように温かく包み守って頂いている、という事からです。



「近縁」は、仏を近くで見る、近くで観ずるという意味です。

増上寺の24時間不断念仏会では、光殿に阿弥陀仏の掛け軸をかけ、そちらを向いてお念仏を称え続けます。

土屋上人曰く、「ただの絵像や掛け軸とは思わず、阿弥陀仏そのものであられる、と思うてお念仏するのです。」とのことです。



「増上縁」は、阿弥陀仏の救済、阿弥陀仏による救いの働き(臨終の際に来迎して下さり往生を遂げる事)という意味があり、また、お念仏称える事によって、その種が蒔かれて芽吹いて行く事、という意味もあるそうです。

「増上寺」が「増上寺」である名前の由来は、この「増上縁」にある、と、土屋上人から教わりました。



上で申し上げました通り、私は「増上寺」とは、「増上慢を戒める云々」と、勝手に解釈しておりましたが、違っておった事を知り、訂正する御縁を賜りました事、有り難き事に御座います。合掌

増上寺にて自身の増上慢に気づく

増上慢と言えば、今回の増上寺大12回24時間不断念仏会にて、「私の増上慢」について、改めて考える機会でも御座いました。



24時間不断念仏会の開催に辺り、土屋正道上人は開始の挨拶で、「お念仏は、競い合ってする事ではく、マラソンをするかの如くやる事ではありません。」「疲れたら適宜休息を取って下さいね。」と、教えて下さいました。



しかし、私は競技スポーツ経験がある事も一要因でありましょうか、ついつい「お念仏や仏道修行で競い合う」を、やらかしそうになること、やってしまうことが御座います。

そして、「競い合う」という比較の仕方が起こる事は、前提に「増上慢という慢の煩悩」が生起があるものです。



いや、これは本当に、戒める事でありまして、最近はプラユキ・ナラテボーさんから直接伝導頂きました「気づきの瞑想・気づきの智慧」により、そのような自己に気づく機会も増えましてね。



もちろん、お念仏に励む最中、「せめて、後何分はお念仏を頑張ろう!」という克己心の起こりは、責める事はありません。

唯一向に念仏すべし、それをきちんと体験しようとする克己心や発願心は、私も見習う事はあっても、卑下する事は御座いません。



しかし、それで終わらないのが、凡夫の悲しい性質(さが)なり。



例えば、お念仏を30分ほど称えて帰る人に対して、「私はこんなに長時間お念仏しているのに、30分で帰るとは根性なしめ、実に怪しからん!」なんて、思っちゃったりしませんかね。

また、木魚の叩き方でも、ちょっと隣の人がズレたら「ずれてやんの、リズム感ないやっちゃなあ。」とか、思ったりしませんかね。



これは、お念仏の行に限らず、瞑想でも陥ることに御座います。

参照記事:「マインドフルネス瞑想を自力で始めると陥る危険な罠|私が直接指導・伝導や瞑想会を大切にする理由」



こういった「増上慢」という煩悩の起こりは、「念仏三昧」とは程遠く、まさに「増上慢」という煩悩が燃えさかり、してやられている状態と言えましょう。

そして、私もしばしば、そういう増上慢燃えさかる凡夫で御座います。

罪悪深重なる凡夫、煩悩具足なる凡夫とは、まさに私なり。

法然上人が仰る「池の水、ひとのこころに似たりけり にごりすむこと さだめなければ」とは、まさに、と言ったところで御座います。



「増上寺」が「増上寺」である名前の由来は、山号「三縁山」から、という話ではあります。

しかし、今回の24時間不断念仏会にて、私自身の「増上慢」に「増上寺」にて気づかせて頂いた事は、誠に有り難き仏縁なり。



私にとっては、「三縁」に加えて、「増上慢に気づかせて頂きお育て頂くお寺さん」であることは、体験に裏打ちされた、確かな事柄に御座います。



合掌、南無阿弥陀仏。

24時間不断念仏会等の別時念仏は、お寺や仏教を体験するよい機会

前回と今回で、私が参加させて頂きました、増上寺の24時間不断念仏会について、お伝え致しました。



24時間不断念仏会に参加される人によって、参加理由は異なることで御座いましょう。





私の場合は、お世話になっているお坊さんに感謝申し上げたい、そのために直接お会いする、という理由が、あるにはあります。

本当に、お世話になっているお坊様方には、感謝しきれぬほどに感謝の念が御座います。



その上で、私が24時間不断念仏会や、ミッドナイト念仏に参加させて頂く理由を申し上げるならば、「ただ、念仏申し上げる、お念仏を称える」という、ただそのためだけです。

そもそも、突き詰めれば確固たる理由はなく、「念仏するために念仏する」と言いますか、理由になっていない理由です。



私は、お念仏や仏道修行に、わかりやすい現世利益・功徳の類いを求めているわけではありませんからね。

ゆえに、今のところ「瞑想難民」などの副作用に見舞われていないのでありましょう。



では、わかりやすい功徳や、言うなれば「お得な事」は、ゼロかと申しますと、そうも言い切れません。

「何のために念仏するの?」「お寺に行くのはなんで?」等、現世利益的な事に興味がある人は、こちらの話の方が関心高いところかと存じます。



前回から申し上げております通り、お寺やお堂の中は、日常の場とは違う、凜とした聖域的な雰囲気・空気感を味わう事が出来ます。

もちろん、人によりけりでしょうがね。



お寺という「場の力」を感じて、日常から非日常の領域に足を踏み入れることにより、全く違った感覚感性を味わう。

24時間不断念仏会が、そのような場に赴く一つの機会として御座います。



また、こうした仏事・法要に参加することは、日常とは全く違った、非日常を体験する事でもあります。

私の様に、浄土宗の壇信徒・念仏者であり在家仏教者として、不断からお念仏申し上げて、瞑想もしている者にとっても、非日常の場であるのです。

だって、なかなかありませんからね、お寺に赴いて別時念仏会に参加する、朋友・法友と一堂に会してお念仏申し上げる、という事は。

瞑想会然り。



この「非日常を体験する」という事は、日常に戻ったときに、固定観念で凝り固まった思考や在り方を、解きほぐしてくれる作用が御座います。

宗教の役割や価値を論ずるならば、まさにそこにあり、と言えましょう。



例えば、私は「~させて頂いております。」とか「お育て頂いた」という言葉を、自覚的に使っております。

この寺院(ブログ)でも、よく使っていることに、気づかれておりますでしょうか。

国語的、また娑婆世界においては、なんでもかんでも「~させて頂く」という表現は、慇懃無礼な表現で有り、「間違った使い方」と言えましょう。

また、役人や政治家がよく使うという事から、嫌う人もいらっしゃいます。



それはそれで理解出来ますが、一方で「~させて頂きます」「お育て頂く」は、阿弥陀仏のお働き、他力の思想においては、とても大切な表現であります。

また、大乗仏教的な「御縁の繋がり、結ばれている縁」を大切に思う、謙虚な在り方にも繋がる教えという頂き方にも繋がっております。

この「させて頂きます」を、大乗仏教・浄土仏教の視座から頂くというのは、娑婆世界の理とは違った、全く別の価値体系からの頂き方であろうかと存じます。

このように、娑婆世界・現代社会と全く違った視点を持つ事が出来るのが、仏教・宗教と接点を持つ事の作用の一つです。



非日常に赴く事で、社会の価値体系とは全く別の価値体系からの視座を得る。



この事については、浄土真宗本願寺派の僧侶で比較宗教学を教えていらっしゃる釈徹宗さんが伝えて下さっています。

もっとも、それゆえに日常や近現代知性を簡単に凌駕してしまう事もありますから、「ヤバさ」も学んで置く事は肝要でありましょがね。



24時間不断念仏会のように、日常ではやらないであろう事をやってみる。

その事により、日常とは全く別の価値体系・価値観から日常を観ずる、その事によって、己を問う。

それが、己を調う機会ともなりましょう。



あなたと24時間不断念仏会で、例え顔を合わせなくても、同じ時空間で共にお念仏に励む御縁賜りましたら、嬉しゅう御座います。

インターネットで繋がる事で、場所は違っていても、共にお念仏申せますからね。



前回と今回、前編と後編にてお伝え申し上げて参りました、増上寺第12回24時間不断念仏会。

二回に分けてお伝えしてきたこと、お念仏の御教えが広がる「おてつぎ運動」の一環とさせて頂きます。



合掌、礼拝、十念

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