第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院後編|悪人の自覚から逃れられぬ者を救う教え

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



前回は、2017年に開催され、無事に結願までいきました、第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院(浄土宗)前編と題して、お伝えしております。


今回の24時間不断念仏会は、京都の浄土宗大本山・清浄華院で開催されまして、無事に結願・終了に至りました。

大木魚と共に、阿弥陀三尊の御前にて、お念仏させて頂く御縁にも恵まれて、有り難き事に御座います。



ちなみに、10月2日の京都新聞を読んでいると、10月1日の午前中に、私の脚で歩いて行ける距離の場所にて、猪が4㎞ほど走り回っていたとか。

私が浄土宗大本山、清浄華院にてお念仏に励んでいる最中、京都ではそのような事があったのだなあ、と、思うた朝でありました。



前回の前編では、主にタイムテーブルと言いますか、事務的な話の進め方をしております。

詳しいタイムテーブルと、開催日時のお知らせについては、今回の後編の最後辺りにて、お伝え致します。



今回の後編では、私が感じた事・感話であったり、私が頂いておりますお念仏の教えに救われている事柄について、お伝え致します。

前編と合わせてお楽しみ頂けましたら、大変嬉しゅう御座います。



合掌、十念(南無阿弥陀仏十遍)、礼拝

スポンサーリンク

悪人も救われるというお念仏の教え

お念仏については、法然上人や親鸞聖人について、また、ご実家が浄土宗や真宗・浄土真宗、時宗、融通念仏宗といった、浄土教の教えを伝えて下さる宗派でしたら、ご存じかもしれません。

私も、祖父の葬儀で初めてお念仏と出会わせて頂く仏縁があり、そこから、仏教と言えばお念仏、という感じで育ってきたものです。

禅宗や大乗仏教、上座部仏教・テーラーワーダ仏教を知るようになったのは、だいぶ後の話で、仏教と再会してからきちんと学ぶようになったのですがね。



そういうわけで、お念仏と早い段階で、縁はむすばれていた私に御座います。



24時間不断念仏会in京都の清浄華院にて、浄土宗の行為様式・エトスにて、お念仏を只管称え続けてきた、秋の日。



このお念仏の教えは、私にとって、大変有り難く頂いておるところに御座います。

この事については、法然上人が仰った、浄土門や念仏一つを選び取る、という話を学んでいると、わかりやすいかと存じます。

ここでは、そこまで掘り下げはしませんが、興味持って頂けましたら、以下の本から学び始められると、宜しかろうと存じます。



実は丁度、この話を書いている日、2017年10月1日は、2016年4月から始まった「100分de名著:歎異抄」の、再放送と言いますか、100分de名著選という事で、再度放送される日でありましてね。

2016年版は、まだ私が修羅観音と名乗る前の時から、学んでおりました。

その時は、此岸真観という名前、「此岸にて、真実を観ようと正見を試みるがなかなかに叶わず」という意味の名前で活動していた頃の寺院(ブログ)に、書いて御座います。



参照先:「100分de名著「歎異抄(釈徹宗さん解説)」放送第1回」

参照先2:「100分de名著「歎異抄」第2回の放送|悪人正機説」

参照先3:「100分de名著「歎異抄」第3回」

参照先4:「100分de名著「歎異抄」第4回(最終回)放送」



指南役は、2017年7月の「100分de名著:維摩経」で解説を担当して下さった、浄土真宗本願寺派僧侶であられる釈徹宗さんです。



参照記事:「「100分de名著:維摩経」総集編|まとめページ」

参照記事2:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」

参照記事3:「100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の復習|得意分野を揺さぶる」

参照記事4:「NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第3回放送の復習と感想文|空の実践・縁起の実践」

参照記事5:「「100分de名著:維摩経」最終回本放送を視聴しました|二項対立の脱却と「お世話され上手」」



「100分de名著:歎異抄」を視聴して学ばれる方は、テキストがあると、より理解とお味わいが深まるかと存じます。




ここで一つ注意をば。



私は、以前放送された時のテキストを購入して、そちらを使いながら視聴するのですが、すでに2016年4月版の「100分de名著:歎異抄」のテキストをお持ちの方は、改めて買い直す必要はありません。

もちろん、破損していたり、以前のを書き込みしまくったから新しく欲しい、という方は、再度手に入れておかれたら、新しく学び直せるかと存じます。

ただ、表紙の注意書きにある通り、以前のテキストと同じ内容との事ですから、その辺り、ご注意頂ければと存じます。

名著は複数冊持ってもよいとは思いますがね、私も同じ御経が書いてある本を何冊か持っていますし。



いきなり100分de名著:歎異抄の話に飛び、テキストもお伝えしておりますが、何故このような話をしたかと言いますと。



法然上人は、修行によって悟る道を歩む「聖道門」ではなく「浄土門」を選ばれ、更にそこから「称名念仏(口に仏の名を称える)」ということを選ばれました。

これは、法然上人の教えや仏教の歴史の本を読めば、書いてある事です。



そして、法然上人は、「善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をや」と、覚如上人(浄土真宗第三世)が説かれているように、悪人正機説を伝えられています。

悪人正機説と言えば、親鸞聖人を連想するところでありますが、思想や教えは法然上人もお持ちだったとのこと。

この事は、「100分de名著:歎異抄」のテキストにも書かれている通りです。

だから、長めに100分de名著:歎異抄の話をしたわけでありまして。



そして、法然上人が伝えて下さる悪人正機説、悪人こそ救われるというお念仏の教えが、私に響くのです。

罪悪深重・煩悩具足なる凡夫の自覚・悪人の自覚から逃れられない私をお救い下さるお念仏の教え

愚人であり悪人の性から逃れられぬ、罪悪深重・煩悩具足なる凡夫である私をも救って下さる、お念仏の教え。

ここでいう悪人とは、仏教が説く悪人ではありますが、娑婆世界における法律、王法を犯し、社会的倫理道徳に反する事も、現代社会においては含んでもよい部分もあろうかと、私は解釈しております。



私は、罪悪深重で、煩悩燃えさかる悪人であるという自覚から、逃れられません。

自覚したからこそ、知ったからこそ、知る以前に戻れない、という、釈徹宗さんが100分de名著:歎異抄でも解説して下さる、ナラティブ(物語)の不可逆性と申しましょうか。



何をしても何を言っても、自分は絶対的に正しいとは思えず、どこか間違っているのではないか、悪いところがあるのではないか、という内省と自覚から、逃れられぬ私。

どうしても、己の悪人性から、逃れられないのです。



例えば、Twitter等で、世間的には良いことを言っているように見えても、それが誰かにとっては傷をえぐる刃になってしまっていないか、など、沸き上がってくる事がしょっちゅう御座いましてね。

生きにくい生き方だとか、閑雅すぎとか言われても、自然と沸き上がってきて、その沸き上がりも自覚していて、逃れられぬ私です。

そんな悪人の性から、悪と縁を結ぶ可能性はゼロパーセントではないという自覚を持っている事による苦しみは、常に御座います。



己の正しさを100%だとか、絶対的に正しいと思える事がなく、むしろ、どこか間違っているのでは無いか、自覚できぬ悪もあるのではないか、と、己に潜む悪に、もやもやが晴れない苦と共にあり、常にその事から逃れられない私。

八正道の「正見」からままならぬ私に御座います。



そんな私をも、「だからこそ、悪人こそ我が救う」と、お念仏の教えを通して救いのお味わいを頂ける事の、有り難き事。



悪人正機説や、悪人を救って下さる御教え、お念仏の教えが私に響いてくるのも、私が悪人ゆえに、悪人の自覚から逃れられないからやもしれません。

だからといって悪人礼賛ではなく、戒める教えも残し伝え下さる法然上人と浄土宗のお坊さん

悪人もお救い下さる、阿弥陀如来のお働きや、お念仏の教え。



ただ、法然上人は、有り難きお念仏の御教えを伝えて下さっていますが、だからといって、悪い事を推奨しているわけでは御座いません。

法然上人に学ばれた親鸞聖人も、歎異抄の「本願ぼこり」のところで、その事を伝えられていたという事が記されています。



悪人が救われると聞くと、「だったら、悪い事をしてもいいんだ」と、開き直る人もおりましょう。

しかし、法然上人は、こうも教えて下さいます。

これは、私が毎日読ませて頂いている法然上人のお手紙「一紙小消息」に記されている御言葉です。



「罪は十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、況や善人をや。」



「罪人なお生まる、況や善人をや。」とは、「善人なほもて往生す、いわんや悪人をや」の、逆のお味わいが御座います。

また、前半部分は、「十悪五逆の罪を犯したものでも、浄土に生まれると信じながら、小さな罪も犯さないように心がけましょう。」という教えであります。



悪人でも救われると教えながら、一方では、小さな罪も犯さないようにと心がけるように、と、戒めとなる教えを諭して下さる法然上人。

悪い事をしても救われるから開き直って悪い事しまくれ、等とは、決して仰っていないことがわかります。

救われるからといって、それにあぐらをかかないように、との御教えであると、私はお味わいを頂いておる身に御座います。



ちなみに、一紙子消息のこの部分、私は生活信条にもさせて頂いている、大切な法然上人、浄土宗の教えに御座ります。

スポンサーリンク

24時間念仏in京都の清浄華院にて朝勤行:僧侶の声明の響きに感じる荘厳

第6回24時間不断念仏会in京都の浄土宗大本山・清浄華院にて、満行に至るまでお念仏との御縁を賜りまして、その最中に、清浄華院の朝勤行に参加させて頂く御縁が御座いました。



清浄華院の朝勤行は、去年の24時間不断念仏会in京都の清浄華院では、土屋正道上人に案内して頂いて、参加させて頂いておりまして。

今回も、朝勤行に参加させて頂いたのですが、今回は清浄華院にて修行されているお坊さん方と共に、朝のお勤めをさせて頂く御縁となりました。



そして、清浄華院の大殿での朝勤行は荘厳であると、頂けるお味わいで御座いました。



法然上人の歴史を学ぶと、宮中の方が若い僧侶の声明に惚れ込んで、出家されたという話が御座いますが、確かにそうなる人もいるであろうなあ、とも思うお味わい。

これは、増上寺でも感じた事でありまして、お寺の建物の設計も関係しているのでしょうが、毎日御経をあげていらっしゃる僧侶の声は、実に美しくお堂に響き渡るものです。



この事に関しては、文字ではどうしても伝えきれません。

上手く言語化出来ない私の出来が悪いのも関係しておりますが、これは本当に、その場で体験しないと、わからないかと存じます。

機会があれば、仏縁結ばれる事が御座いましたら、東京の増上寺と教徒の清浄華院の朝勤行、24時間不断念仏会という御縁も活用されつつ、参加されてみると宜しいかと存じます。



まさに「荘厳」を、目の当たりにして、肌で感じる事が出来た、有り難き仏縁でありました。



合掌、十念、礼拝。



あの独特の、朝の済んだお寺の中の時空間と称名念仏、僧侶達が称えられる御経の声は、実に荘厳な響きに御座ります。

聖と俗を行き来するお味わい、その機会の一つであり仏縁の一つが24時間不断念仏会だと思う

前回と今回で、私が参加させて頂いた、京都の中心で仏の名を称え続ける、2017年代6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院について、体験レポート的な話をして参りました。



今回の話では、私がお坊さんと個人的に話した内容などについては、プライベートな事柄もありますから、申せないことも御座いまして、語り切れていない部分も多々御座います。

また、結願の時に写経・写仏した時に記す願い奉って頂ける内容も、個人的な話が入ってきますから、この事も申すことが出来ません。

この辺りの事情を、ご了承願いますれば、と存じます。



思えば、2015年の秋、まだ鬱状態が続く私が、仏教と再会してから暫く経過して、仏事に参加しようと、ふらりと出かけた先、偶然、清浄華院に入った事がきっかけでありました。

そこで、私の苦を静かに聞いて下さり、お救い下さった上人と仏縁結ばれ、現在は夢の中でもお念仏申している、念仏者としての生き方や在り方を頂けるようになりました。



現在は、お念仏を称えながらも、プラユキ・ナラテボーさんやニャーナラトー師、浦崎雅代さんとホームさんからタイ仏教、テーラーワーダ仏教の教えも頂いております。



お念仏に軸を置き、ピボットするように色々な仏教・仏法を頂く私。

これは、お念仏にお救い頂いている、お念仏という還る場所があるからこそ、出来ている事やもしれません。

お念仏の教えに出会えて、有り難く存じます。



尚、24時間念仏会について、東京の増上寺でも開催されており、参加してきた事を、この寺院(ブログ)でもお伝えしております。



参照記事:「増上寺第12回24時間不断念仏会体験記前編|ただ一向に念仏すべし」

参照記事2:「増上寺第12回24時間不断念仏会体験記後編|在家仏教者で念仏者の感想文やら体験談やら」



また、開催日程など詳細情報は、こちらから確認することが出来ます。



参照先:観智院ウェブサイト



最後に、今回の第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院について、前編はこちらです。



参照記事:「第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院(浄土宗)前編|京都御苑の東で南無阿弥陀仏」



24時間不断念仏会、また、各地の仏事で、あなたとお会いできますれば、大変嬉しゅう御座います。



合掌、十念(南無阿弥陀仏十遍)、礼拝

スポンサーリンク