御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
前回は、京都の清浄華院で行われました第7回24時間不断念仏会に参加して、体験談と言いますか、タイムテーブルを紹介する事務的な内容をお伝え致しました。
24時間の不断念仏会では、行われたことを報告していくと、どうしても分量が多くなってしまいますがゆえ、前半投稿編で分けるという方法は、恒例になってきた感じが致します。
それくらいまでには、何度か通っております24時間不断念仏会。
今回の24時間不断念仏会では、いつもはやってこなかったことを、珍しくやってみるということも御座いまして。
それは、十念(南無阿弥陀仏十編)の写経です。
十編のお念仏を写経するに至ったのは、その前からもやもやと考え続けておったことがありまして、それが縁となりました。
今回の京都は清浄華院での24時間不断念仏会にて、いつもとは違った趣きであったり、写経の際に記す祈願などについても、色々とお伝え致します。
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今回は「南無阿弥陀仏十編」十念の写経を
冒頭で申し上げました通り、今回の第7回24時間不断念仏会in京都の清浄華院では、南無阿弥陀仏を十回、半紙に書き記すという行を致しました。写経も修行の一つであり、丁寧に気づきを伴わせながら、尚且つ、南無阿弥陀仏を唱え続けながら書きまして。
最も、私は文字を書くことが下手でありまして、とても見せられたものではありませんでしたがね。
そもそも、写経したものは持ち帰ることが出来ましたが、私は最初から回向して頂く事に決めおりましたから、お見せできませんが。
今回、私が写経致しましたのは、「南無阿弥陀仏」という六字を十編書く、という内容です。
24時間不断念仏会では、他にも「一枚起請文」という、法然上人の御遺言と言われているものも写し書き出来ましたが、私は「南無阿弥陀仏十編」にしようと、以前から決めておりました。
その理由も、下に記します。

「願」のところに願いを書いた写経:神仏にお願い事はしないものだ、とは言うけれど
私は、このブログでも以前から、「参拝するときや賽銭を投じる時、墓参りでも、願いを神仏に押しつけない」ということについてお伝えしてきております。賽銭というのは、神仏と取引をするために行うのではなく、少なくとも仏教においては賽銭は手放す練習的な意味もあるということを、お坊さん達から教わった事が何度かありまして。
私自身、神頼みや仏様に願い事をしても、「願いの内容がバッティングしたら、どちらか一方は叶わないではないか」と、子供の頃から願い事をすることに違和感や矛盾を見出して、神頼みをしたことがありません。
八百万の神だけでは無く、阿弥陀仏に対しても、そんな感じで願い事をしたことが御座いませんでしてね。
墓参りの時も、当然に。
このような考え方、私の宗教心があるために、以前に一度写経を体験した事があるのですが、その時は「願」のところに、何も書くことがないといって、一度は書かずに提出しようとしたことがあったのです。
その時は「とりあえず何か書いておいてほしい」と言われたから、「宇宙平和」とだけ書いておきましたが。
それ以来、私は24時間不断念仏会でも、写経をせずに過ごしてきたわけです。
しかし、一方で「願わずにはおられない」ということも、生きていればありまして。
特に今年は、豪雨や台風、地震などがありましたから、その時にいつも「どうか皆様方が無事であらんことを」と、思わず願いもしたことであります。
わかってはいても、それでも願わずにはいられない時もある
豪雨や台風、地震などの天災と呼ばれる現象は、人間の力ではどうしようもないほどの威力があります。(私は、「自然には勝てない」と言われる度に、「そもそも勝負しようというのが、ねえ。」と、思うのではありますが。)
人間が束になっても叶わない自然現象、ましてや虚弱貧弱無知無能な凡夫である私ごとき個人では、何も出来ませぬ。
そんな私ができる事と言えば、幾許かの募金であったり、それこそ、願をかけさせて頂くくらいしか御座いません。
平穏無事を願わずにはいられない、願うくらいしか出来ないこの身。
そこから、ただただ願うしか出来ない私は、神仏と、阿弥陀仏と取引するのでは無く、dealではなくpray(祈る)という、ただただ願うだけというのはどうであろうか。
願わずにはいられないことを願う、ただただ、阿弥陀仏に願いを吐露する、ただし、自身にできる事は行ずるということを前提に。
今回の幾つかの天災から、このようなことを考えたものです。
こういった事柄をぐるぐると思案している最中、秋分の日に龍岸寺にて秋の彼岸法要があり、そこで「供養」や「祈願」について考えるきっかけとなるワークショップもあり、そこでも色々と思うところがありました。
このような流れで、「今回の24時間不断念仏会では、お念仏しながら十念を写経し、復興祈願奉るという願をたてて、回向して頂こう」と、思うに至り、実際に形に致したもので御座います。
ただただ、祈願し奉って、わずかながらの寄付をするしか出来ぬ私。
でも、だからこそ、この身でできることを精一杯やってみたことに御座ります。
形あるものにすがりたくなるとき
今回の、24時間不断念仏会で写経をしてから、「祈願」の在り方のにも、改めて思うたことが他にもありまして。それは、「供養」についてです。
あなたも、他界されたご先祖の追善供養をする機会が、お盆や彼岸の季節には墓参りをしたり、時には何回忌法要などで行われたことがあるかと存じます。
ちなみに、私は毎日仏壇の前で、勤行時に「供養」をしております。
(浄土宗の勤行では、最初に「供養十方三世佛(くようじっぽうさんぜぶ)」という文言が、香偈という言葉を発します。)
家が仏教であるという方ならば、一度は供養をしたこともあろうかと思いますが、この供養について考えるきっかけとなったのが、龍岸寺で行われた秋の彼岸法要です。

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(下手な文字で申し訳ありません。)
彼岸法要では、このようなものを拵えるワークショップもあり、そこで主催者の方々の話に「供養」についての話もありましてね。
何でも、被災地には家屋や家具などの殆どが失われて、しかし位牌だけは出てきて、その位牌を大切にされている方もいらっしゃっる、という話を、主催者の方から頂きました。
この話を聞いた時、私も同じ状況で生き残り、先祖の位牌やなんらかの品が見つかったら、きっと大切にして、節目の供養をする時期にはこれを持ち出すのであろうなあ、と、思うたものです。
同時に、「仏教では執着はしないと教えるし、この肉体さえも現世を生きるだけの借り物、という教えもあるけれど・・・」ということを考えました。
あなたも聞いたことがありませんかな、物に執着しないように、という教え。
確かに、言われてみればそうだよな、とは思います。
しかしですね、では、それだけの体験をした人に対して、外から「いや、それは単なる執着だから」と、私は言えるであろうか。
そう考えたとき、小心者であることも関係してはおりましょうが、とてもじゃないけれども、そのように言い放てそうに無い、そのように観じたものであります。
そりゃあね、言える人は言えるでしょうし、それが間違いだとかいうつもりは毛頭御座いません。
単に、私には言えないというだけのことであります。
ただ、災難・天災に見舞われた方に、そのような背景があって見つかった位牌を大切に人に対して、「執着するな」とは、言えそうにない私の姿に、気づかされたことでありました。
「執着しない」は、自身の在り方として行ずる、戒として持つに留め、人にぶつける物ではないのかな、と、そういう考えに至っている現在に御座います。
被災された方、ご不幸があったかたに「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」と言えるのかを、自身に問う
龍岸寺での彼岸法要とワークショップ、そして、今回の24時間不断念仏会の写経にて、思う処は他にもありまして。これは、龍岸寺のご住職とも一度話をしたことがあることでもあります。
仏教、特に禅宗をかじったことがある人ならば、良寛さんというお坊さんをご存じではなかろうかと思います。
禅僧であられる良寛さんは、天災に見舞われたご友人に、このような言葉を綴った手紙を送られています。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候
これは、西尾維新さんの作品が好きだという人ならば、「クビキリサイクル」という作品で園山赤音という人物(色々ありますがここでは伏せておきます)が発した言葉として覚えている人もいらっしゃるかと存じます。
この良寛さんが綴られた一文は、自身の在り方として持っておくのは、確かに有用なこともありましょう。
ただ、私はこれも、あくまで自身の戒めなり人生の指針として持っておくことであり、他者にぶつける言葉ではない、とも考えるように至りまして。
今回の話でいえば、台風や地震、豪雨などに見舞われた人に対して、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」と言えるかどうか、ということです。
そりゃあね、葬儀や御法話で、お坊さんは良寛さんのこのお言葉を引用して話をされたり、そこから災難にあったという出来事への執着を手放すように、などの話をされることもありましょう。
しかし、どうしたって悲しいときは悲しいし、被災して苦しいときは苦しいものでありましょう。
そんな時に、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」と言われたって・・・となる人だっているのではなかろうか、そのように思うのです。
言うタイミング、時節というのも肝要であろうとも思うのではありますが、如何でしょうか。
そのようなことを、不出来な脳細胞をフル回転さえていろいろとあれこれ思案し、私にできる事は、を24時間不断念仏会で、ただただ念仏しつつ供養と復興祈願奉ることしかなさそうだ、というところに至りました。
そうして、なれない写経、南無阿弥陀仏の六時を十編写し書き、被災地復興祈願の回向をして頂いたことに御座います。
虚弱貧弱無知無能煩悩具足なる凡夫である私なりにできることをば
前回と今回で、2018年、平成30年9月29日(土)から9月30日(日)にかけて行われました、第7回24時間不断念仏会in京都の清浄華院について、お伝え致しました。参照記事:京都の清浄華院で開催された第7回24時間不断念仏会:事務的な話である前編、お念仏で繋がる
私のような凡夫でも、何か出来ることをば、ということで、復興祈願を記した南無阿弥陀仏十編の写経と、お念仏に励む24時間。
会いたかった来迎寺ゆうこうさんともお念仏に励む事ができて、再開したかったお坊さん達やスタッフの方々、常連さんとも会うことが出来て、嬉しゅう御座います。
次の24時間不断念仏会は、まだ未定ではありましょうが、おそらくは増上寺開催の運びとなろうかと存じます。
そこで仏縁結ばれれば、嬉しゅう御座います。
合掌、十念、礼拝