御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
前回は、NHK・Eテレ「こころの時代」に、プラユキ・ナラテボーさんが出演された話を致しました。
「こころの時代」では、プラユキさんが「念・サティ」について話して下さり、そこで、ふと思うことがありまして。
私は、よく珈琲を飲みますが、お茶もよう飲みましてね。
朝は、冷蔵庫に冷やしてあるお茶を、コップ一杯飲む習慣が御座います。
ただ、この朝一杯のお茶を飲むとき、そういえば、全然お茶を飲むということになりきておらんのではなかろうか、と、思うに至りました。
「お茶を飲むぞ!」と、力んで集中するのではなく、かといって、お茶を飲みながら「ああ、メールがどうたらこうたら、配達がどうたらこうたら」と、雑念に振り回されてお茶を疎かにするのでもなく。
そうではなく、「ただただ、縁あって逢うた一杯の茶を喫茶する」ということが、いつからかできなくなっているなあ、と、改めて思うたことに御座ります。
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逢うたお茶や飯をただただ食すことになりきる:逢茶喫茶逢飯喫飯
私が、逢うたお茶を疎かにしてしまっているということの話の前に、まずはこの話からしておくと致します。その話とは、「逢茶喫茶逢飯喫飯(おうさきっさおうはんきっぱん)」という禅語について。
禅語を学んでいたり、禅に親しんでいる人でしたら、ご存じやも知れませぬ。
私は、確か曹洞宗の禅僧・枡野俊明さんの本で出逢うた禅語だったと思います。
この禅語は、「逢う茶や飯を、只管味わうべし」だとか、「茶と逢って、珈琲や紅茶の方がよかったなどと言わずに、縁あって出逢った茶や飯をきちんと味わうこと、飲む・食すことになりきりなさい」と説明されます。
「パタリロ」という漫画で、スカンキーがアンドロイドをパタリロに「君にあげよう」と言うたとき、パタリロは「現金の方がよかった」と言いますが、そんなことをいうておらんできちんと貰いきれ、というわけです。
パタリロはさておき。
「茶に逢うては茶を飲むことに、飯に逢うては飯を食うことに徹する」という意味の解説も、読んだことが御座います。
このように、えり好みせずに、出逢ったものをきちんと頂ききりましょう、という説明がなされる禅語「逢茶喫茶逢飯喫飯」。
この禅語は、テレビを観ながら、あるいはスマートフォンをいじりながら食事をしている人にとっては、どきっとすることもあるかと存じます。
かくいう私も、人のこと言えませんがね。
夜、家族と食事中に、ついついテレビ番組を視聴しながら、というよそ見食いをすることも多々ありますし。
だからこそ、朝と昼はきちんと食事になりきるように修行中です。

お茶の瞑想や食事瞑想をした直後辺りは出来ていても・・・
私は、以前に瞑想会などで、お茶の瞑想や食事瞑想をしたことが御座います。例えば、コマメさんが主催して下すった、プラユキ・ナラテボーさんのお話と瞑想の会では、お茶の瞑想も取り入れて下さっていましてね。
参照記事:プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」後編|食事とお茶の瞑想、後、懇親会
お茶の瞑想を、きちんと教わりながらやったのは、実はこのときが初めてでした。
それ以来、ちょくちょくと自宅でも、瞑想的に珈琲を入れたり、その珈琲を瞑想的に飲んだりはしておったのですがね。
ただ、忙しいときには、ついつい珈琲を雑に飲むこともしばしばという状況になったというのが、正直なところです。
時には、お茶や珈琲を温めておいたことを忘れて、電子レンジの中で冷えてしもうた、ということもあります。
「らきすた」という漫画で、高良みゆきと母親がやってしまったことを、私も時々やってしまうという体たらくです。
全くもって、お茶の瞑想が出来ていないという、修行が足りない私の姿です、いかがせん、いかがせん。
そして、実はこの文章を書く前も、珈琲を飲みながら「明日のラジオ英会話の予習をしなければなあ、明日はing形のなんたらかんたら」と、珈琲の味もわからぬという状態でして。
こうして、折角お茶の瞑想を教わり実践したのに、記事タイトルにある通り、「一杯のお茶を力み無く飲むこと:逢茶喫茶逢飯喫飯」が全然出来ておらんことに気づかされたことに御座います。
こういったことを、Eテレ「こころの時代」のプラユキ・ナラテボーさんの話を視聴していて、ふと省みたことに御座います。
逢茶喫茶逢飯喫飯や、お茶を飲みきることになりきることが力み無く出来ていたと思われる思い出
力み無く、ただただ出逢うたお茶を飲むことになりきる。これが出来ていたときは、私には無かったか、と自身を問うてみて、もしかしたら、あの場面では出来ていたのかもしれないなあ、という場面を、思い出しまして。
ひょっとしたら、あなたにも経験があるやもしれません。
それは、夏の暑い日のことです。
私は暑がりで、特に夏はひーひー言うておりました。
やりたくもないソフトボール大会とその練習で、へろへろになって帰ってきた時。
その時の私は、冷蔵庫のお茶を、ただ只管に、それこそ無心で飲み干していたときは、まさに「逢茶喫茶逢飯喫飯」ではなかったかと、ふと思いました。
このような体験、あなたにもありませんかな。
また、私は西瓜が大好きなのですが、夏の暑い日に家族が切ってくれた西瓜を、目の前の出逢うた西瓜を、ただただ只管しゃくしゃくと食していたときは、西瓜を食すことになりきっていたことでありましょう。
そう、昔は出来ておった気がするのですよ、逢茶喫茶逢飯喫飯的な在り方と言いますか、所作が。
しかし、今はあの頃のような飲み方食し方が、できなくなっているような、そんな気が致します。
現に、珈琲を入れるときもお茶を入れるときも、飲むときも、あれこれ考えながらやっておることがしばしばという状態です。
時には、「あいつ許すまじ!」と、修羅の状態で、何を飲んでいるのかもわからんような状態で、お茶を肉体に流し込んでいるという始末です。
プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる、サティ・気づきの智慧から完全に遠退いた状態で、飲食をしているという、食事瞑想とはかけ離れた飲食の仕方、戒めるべし、戒めるべし、自戒、自戒。

漠然と、あるいは放逸的にお茶を飲むのではなく、「集中してお茶を飲みきるぞ!」と力むのでもなく
ここで注意したい事柄について、先日の「こころの時代」にて、プラユキ・ナラテボーさんが、ご自身の体験を通して教えて下さっています。お茶を飲むことになりきろうとするとき、「集中してお茶を飲むぞ!」と、集中瞑想的に飲むということを考えつきます。
なだぎ武さんの「ディラン・マッケイ」ネタ宜しく、「今、間違いなくお茶を飲んでいる、飲んでいるぞ、よし、ゴクンと飲み込んだ、間違いなく飲み込んだ、今、お茶をテーブルに置こうと手を動かしている、間違いなく置きに行っている」という感じで。
確かに、集中瞑想という種類の瞑想もありますから、こういうやり方も御座いましょう。
ただ、そうすると今度は集中することに執着してしまう、ということになり得ます。
この辺りの注意は、プラユキ・ナラテボーさんが、プラユキさんの師であられるルアンポー・カムキエン師が導いて下さったという話を交えて、「こころの時代」で伝えて下さっています。
再放送などを活用して、確認して頂ければと存じます。(32分くらいからのところです。)
参照記事:「NHK・Eテレ「こころの時代」プラユキ・ナラテボーさんの回を視聴|気づいた事など視聴後感想文」
確かに、お茶の瞑想を集中瞑想的に、というのもありましょう。
ただ、集中瞑想が上手くいくと、「集中できたことにしがみつく」という注意点もあると、プラユキさんは教えて下さいます。
「集中するぞ!」というあまり、集中する事に執着し、力みすぎてしまう、ということに陥る可能性も御座います。
また、集中が少しでも途切れると、「うわ、今集中出来ていなかった、むきー!」と、集中出来なかったことに怒りを覚えたり、自己嫌悪に陥るという副作用的なことに見舞われることも予測できます。
そうではなく、出逢うたお茶と、ただただ出逢い、ただただ飲むこと。
「執着せず力み無く」
という塩梅でありましょうか。
と、偉そうに申し上げてはおりますが、私は全くもって、きちんと出来ておりませぬ。
いかがせんいかがせん。
だからこそ、気づいて戻る、を行事続け、繰り返していくことに御座ります。
縁あって出逢うたお茶を丁寧に味わう:日常の所作にて瞑想修行を
逢茶喫茶逢飯喫飯という禅語を知っても、プラユキ・ナラテボーさんとコマメさんから直接お茶の瞑想を教わっても、日常に戻ると、全然出来ていない私に御座ります。誤字脱字やタイプミスをよくしでかすのも、全くもって瞑想的に動作できておらんからでありましょう。
今日だって、プログラミング・コーディングでタイプミスしまくっておりましたし。
しかし、先日の「こころの時代」をはじめ、事あるごとに修行が足りておらん私に気づかせて頂ける御縁が結ばれ、非常に有り難い事に御座ります。
そもそも、私はお寺の本堂でお念仏をしていても、場の宗教性に手伝ってもらっておっても、雑念に振り回されているという現状です。
ただ、そこで「あ、また雑念に振り回されていたなあ。」と、気づくことができるようにもなってきたものです。
そうした気づきの速度やタイミングを、もっと早い段階にするために、縁あって出逢ったお茶、自身が入れたお茶ときちんと出逢い、味わいきると言うことを、瞑想的にやることも、修行になろうかと存じます。
私の場合は、お茶よりも珈琲を入れる頻度の方が高いから、珈琲瞑想と言ったところでありましょうか。
合掌、礼拝