ニャーナラトー師の瞑想会in京都(通い方リトリート1日目)|執着と中道について更に学ぶ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2017年9月17日(日)、台風の中、ニャーナラトー師の瞑想会in京都に参加してきました。


今回の瞑想会は、二日間にわたって行われる瞑想会・リトリートでありまして、泊まりがけでは無くて、通い方です。

通い方の瞑想会・リトリートゆえに、日常との接点がより多く、瞑想を日常にも活用しやすいという形でありましてね。



私は、このような形体の瞑想会・リトリートは初めてで、「アチャン・ニャーナラトー」と仰る比丘(僧侶)の瞑想会も、初参加で御座います。

このような御縁をご用意下さいました、コマメさんやスタッフの方々、ニャーナラトー師と、参加された善友の皆様に、篤く御礼申し上げる次第で御座います。

有難う御座います、合掌、礼拝。



二日間にわたって行われる瞑想会、この話を書いているタイミングは、一日目が終わった段階であります。



私は初参加のニャーナラトー師の瞑想会、参加された善友からの質問にも応えられていたのですが、プライベート・個人情報に触れる事もありますから、全てはお伝え出来ないこと、最初に申し上げておきます。

会場でも、私は録音しておりませんが、仮に録音していたとしても、アップロードはご遠慮、という注意もありましたからね。

その辺りについては、私も最大限配慮した上でお伝えする事となりまして、主に、私がニャーナラトー師の教えから学んだ事や気づいた事のシェアとなることを、最初に申し上げておきます。

スポンサーリンク

アチャン・ニャーナラトーという比丘(僧侶)について紹介をば

まず、そもそもとして、アチャン・ニャーナラトー師について、紹介しておくと致しましょう。

あ、「アチャン」「アーチャン」とは、タイ語で「先生」という意味のある敬称ですから、「アチャン・ニャーナラトー師」というのは、「鉄壁の壁」のような重複表現ですね。



ここからは、「ニャーナラトー師」と、表記して話を進めます。



ニャーナラトー師は、奈良県出身の方でして、京都大学の医学部を卒業して医師の資格もお持ちであり、そこから色々とご自身に問いを持たれ、アジアを巡る旅に出られました。

そうして縁あって、アーチャン・チャーというタイの高僧の教えを頂ける寺で出家されて、2001年からイギリスに御座いますアマラワティ僧院というお寺で副住職をされています。

現在は、日本とイギリスを行き来されて、日本でも東京や大阪、京都、金沢で瞑想会をして下さり、今回の京都瞑想会で、私も初めて参加する御縁を賜りました。



と、まあ、ニャーナラトー師について簡潔に紹介致しましたが、より詳しい事は、今回の瞑想会を主催して下さるコマメさんのブログに譲った方が、話が早そうです。



参照先:「コマメさんのブログ:ニャーナラトー師についての記事」



ニャーナラトー師は、Wikipediaにも紹介はされておりますが、コマメさんのブログの方が詳しい事でありますし、ニャーナラトー師直々のメッセージも読むことが出来ます。

また、ニャーナラトー師の瞑想会・リトリートの告知もして下さっていますから、興味を持たれた方は、ちょくちょくとチェックされると宜しかろうと存じます、と、宣伝をば。

ニャーナラトー師の瞑想会in京都(通い方リトリート1日目)タイムテーブル

今回、ニャーナラトー師が教えて下さった、瞑想会in京都、通い方リトリートの一日目について、まずは時系列的な話、タイムテーブルの話から。



まず、午前10時に開始という事で、15分くらい前に到着しまして。

その後、御法話と坐る瞑想を行いまして、早めの昼食と相成りました。

昼食の時間は、午前11時30分くらいから取りましてね。

これは、テーラワーダでは午後から固形物を食べないという戒がありまして、それに準じている事によります。



私は昼食を速やかに食し(食前の挨拶と食事瞑想をしつつ)、午後はゆっくりと歩く瞑想をしておりました。

途中、善友と道ですれ違う事がありましたが、軽く会釈する程度で留めて置いて。



実は、今回の瞑想会・リトリートは、「沈黙の行」の最中でもありまして、少なくとも瞑想会・リトリートの現場内では、事務的な事以外は、沈黙の行をしているという状態でしてね。



昼食後、午後の部が始まり、午後は台風が接近しておりましたが、有り難い事に雨が降っておらず、雨が降り始めないうちに、外へ出て歩く瞑想の時間となりました。

50分ほど歩く瞑想をした後、室内に戻って30分ほど静かに坐る瞑想を行ずる一同。



そして、15分程休息を挟んだ後、ニャーナラトー師による質疑応答の時間が始まり、私はこの質疑応答の時間に、後に話します大きな気づきを頂く事になりましてね。

色々とありますが、その内二つをお伝え致します。



質疑応答の後、再び30分ほどの坐る瞑想をして、時間が来たので解散。



解散後は、希望者は別の場所へ移って、質疑応答をする時間となりまして、私も参加させて頂く御縁を頂きました。



ニャーナラトー師の瞑想会in京都、通い方リトリートの1日目は、このようなスケジュール・タイムテーブルで滞りなく進みました。

台風が来ているのに、歩く瞑想を外でみっちり出来たのは、非常に有り難し。

スポンサーリンク

執着を手放す時は力み無く

今回のニャーナラトー師の瞑想会in京都では、何度か「執着を手放す」という話をして下さいまして、この「執着を手放す」が、一つのキーワードであるかな、と頂いたもので御座います。

そして、この「執着を手放す」というのは、力んで手放すと言いますか、「手放さなきゃ手放さなきゃ!」という力みが無い事を、教わりまして。



この話は、前回に話しました、「怒りを観察する事:仏教的アンガーマネジメント」の話とも、非常に通じるところであります。

また、ニャーナラトー師の瞑想会より丁度一週間前に参加致しました、プラユキ・ナラテボーさんの話とも、関わってくる話です。



参照記事:「アンガーマネジメントと仏教|怒りを観察し活用するという智慧」

参照記事2:「心が苦しい時のブッダの智慧|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀後編」



執着について、ニャーナラトー師はアーチャン・チャーというタイの高僧が使われた譬え「駅と電車」の譬え話を用いて、解説して下さいました。

が、実は私、この「駅と電車」の例え話を、きちんと解釈して言語化して伝えられるまでに咀嚼出来ていないから、私なりの頂き方と譬えを用いて、お伝えする事にします。

「力みの解放」ありきで執着を手放す:私は水・水面の譬えでこのように頂きました

執着を手放す時、「力み無く執着を手放す」とは、どういう事なのか。



「執着はいけません」「執着を手放しましょう」と言われると、ついつい「そうか、執着は駄目なんだ、じゃあ手放さなきゃ!」と、力んだりする人もいらっしゃるのではなかろうかと存じます。

「捨てなきゃ捨てなきゃ、執着を手放さなくては!」と力むと、実は執着を強めて、握りしめている手に力がこもっているという事、あなたも経験が御座いませんかな。



典型的な例は、「怒り」でありましょうか。



誰かに嫌な事をされたり、自分にとって禁句・NGワードを発せられたら、発した人に対して、もの凄く怒りを覚えたとします。

そんな時、「いかんいかん、怒ってはいけない」と思うけれど、その後に、その怒りの出来事を反芻して、怒りがぶり返すとか、やったこと御座いませんかね。

私は未だに御座います。



そうして、「怒ってはいけないと言いながら、怒りの因となる出来事を反芻して、怒りを思い出して・・・」という悪循環。

手放そうとして、かえって握りしめているという状態。



これを、またしても水・水面の譬えを用いますと。



怒りを観察出来る立ち位置にいることが出来ず、波が立っている水面を、手でばしゃばしゃと賢しらに波を鎮めようとして、そのうちに波がでかくなって波にさらわれるまでに至ります。

まさに、「怒りの波に飲み込まれた」という状態です。

そして、ここで「溺れる!溺れる!」と力んでしまうと、ぶくぶくと沈んでしまいます。



ここで肝要は、まずは水面に顔を出して窒息を免れて、落ち着いて呼吸が出来る状態に戻すために、体の力みを解放することです。

まさに、斑鳩の「力の解放」から拝借して、「力み(りきみ)の解放」と名付けましょうか。(シューティングゲームを知らない人、申し訳ない。)



あなたも、習った事ありませんかな、水の中にぼちゃんと入った時、浮くならば「仰向きの状態で力を抜いて」と。



力んで沈まないために、力を抜く、力んでいる体を緩める。



もしも、何かの執着に気づいたら、「ああ、そうであるなあ。」と、執着を賢しらに何とかしようとせずに、一旦「力みの解放」をやってみる。



この過程・プロセスは、瞑想によって培うことが出来るのでは無いか、そのような事を、今回のニャーナラトー師の瞑想会にて、考えた事に御座います。

中道は、極と極の平均や足して2で割るという事ではなくて・・・

ニャーナラトー師の瞑想会in京都、通い方リトリート一日目で、もう一つ学んだ大きな事柄は、「中道(ちゅうどう)」についてです。



中道と言いますと、仏教をある程度勉強したことがある人なら、ご存じの事でありましょう。

中道とは、ブッダ(釈尊・お釈迦様)が体験されたことを元に、苦行にも楽しすぎることにも偏らない、という話とセットで解説されることが、一般的と言えましょうかな。

片方に偏らない、という大切な教えであります。



ただ、これは気をつけないと、「中道=平均」だとか「(極+極)÷2」という理解だけになってしまいがちです。



確かに、それも中道っちゃ中道だとは思うのですが、私はこの解釈については、どうも引っかかりと言いますが、「うーん、でもなあ。」という事を思うておりましてね。

だって、中道一本に絞るというのも、それはそれで偏りな気がしておるものでして。

言うなれば「中道への執着」です。



この事について、「ああ、なるほど!」という話を、ニャーナラトー師が瞑想会にて教えて下さいました。



「中道」は、確かに人間というものは、放っておくと極端に走ったり偏ったりする事があり、それを諌める意味でも、使われる教えです。

それはそれで一つあるのですが、中道はそれだけの教えではない、とのこと。



「中道」とは、「こうでなければならない」という執着や思い込みを手放す事、そういう教えでもあると、ニャーナラトー師は教えて下さいます。



中道は、平均値をガチガチに目指すのではなく、バランスが取れている、調和が取れている状態である事が中道という在り方であると、今回の瞑想会で学びました。

学生時代からの問いにニャーナラトー師の「中道」の話がもたらして下さった光明

実は、ニャーナラトー師から教わった「中道」の話を聞いて、学生時代から引っかかっていたことが、ようやく融けましてね。

これは、私の個人的な話、個別的な話ではあるのですが。



私は、高校時代に「中庸」という言葉と概念を学びまして、これを大切な事であると直観しまして。

そしてここから私は、「中庸」に偏ってしまったのです。

更に、凡夫である私は「中庸が大切だ」と言いふらす始末。

これを観た智慧ある先達に、「中庸もほどほどに」と、「中庸の中庸」的な、そのように諌められました。



先達に諌められて「ああ、確かに。」と、その時に反省したと同時に、「では、中庸の中庸とは何ぞや?」という問いを発するようになりまして。



そうして、今度は仏教と再会し、「中道」に出会い、「中道の大切さはわかるけれども・・・。」と、大切な教えであると頂きながらも、どこか「中庸の二の舞になったりしないように、でも大切だし。」と、もやもやとしていたものです。

そのような問いを持ち続けていたところで、ニャーナラトー師の「中道についての教え」を頂き、「そうか!」と、光明を見出すに至りました。



ニャーナラトー師の「中道」についての教えで、中道に執着せず、バランスを取る・バランスが取れていると言う事が大きなヒントであり、そこからどのように「中道」を頂くようになったのか。



それは、「中道は過程であり、固定化せず、ゆらぐ在り方として頂く」という事です。



「中道を、過程として味わう」



極と極の真ん中、平均として頂くのでは無く、「中道」は揺らぐ、揺らいでバランスをとり続ける事である、という解釈を見出したのです。



そもそも、極と極の間には幅があり、極も間の幅も諸行無常、色々な要素で揺らぐと考えると、中道もまた揺らいでいく。

「中道」とは、流動的で揺らぐから執着する事ではない、そのような事を考えました。



これは、あくまで私の解釈であり、「中庸」との出会いからずっと持っていた問いがあるという土台があって、このような解釈・頂き方や味わい方に至りました。

これが答えだとか言いませんし、これが結論とはしませんが、現在の到達点として、今のところしっくりくる感じがするところにまで来られたのは、ニャーナラトー師の御教えのお陰様です。



有り難き、善知識の説法・仏法なり。有り難や、有り難や。合掌、礼拝。

ニャーナラトー師の瞑想会in京都:二日目へ続きます

今回は、ニャーナラトー師の瞑想会in京都、二日間にわたって行われる、通い方リトリートの一日目について、お送り致しました。



瞑想会一日目で、長年引っかかっていた問いに対するひとまずの解に到達する事が出来て、有り難き事に御座います。

また、瞑想やその他の仏法についても、違った角度、別の角度から教えを頂くことで、新たなる学びもあるというお味わい。



台風の季節、台風が来てはおりますが、二日目も赴いて、学び実践する事に御座ります。



あなかしこー、あなかしこー。



合掌、礼拝

スポンサーリンク