怒りを智慧に変えるプラユキ・ナラテボーさんから教わったことの実践|反面教師として活かす

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私は、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会や本などで、怒りを智慧に変えるということを何度か学んでおります。

そして、つい最近怒ることがありまして。



Twitterでは、その怒りを覚えた出来事を少しばかりつぶやいてみたら、即座に教えて下さる方もいらっしゃり、有り難い御縁に恵まれておるなあ、と、思うたものに御座います。

6秒ルールであったり、そういったことをその日の朝の御法話でお坊さんから聞いたと教えて下すったり。

十念すれば、6秒ルールも自然と為しましょう。

十念している間に、6秒くらい経っておるでしょうからね。



そういうことを経てから、怒りを覚えたことについて、智慧に変えるということを教わっていたことを思い出しまして。

そして、それを実践してみたところ、よき縁ともなったという体験をしたのです。



今回は、その体験談、こういう事例もありましたよ、という報告の回と致します。

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私が怒りを覚えた出来事:出向先での話

最近、私は業務請負の仕事で、ちょいと出向することがありまして。

そこで、私は最初から最後まで、ぞんざい且つ雑に扱われ、無礼な扱いを受けたものです。



守秘義務がある業務ゆえに、具体的な業務内容までは言えませんが、まあ、酷かった。



初めて行った出向先だったのですが、暫く私は放置されて、そう思ったら、いきなり挨拶もなしに、「こっちきて」と、奥へ作業する現場へ通されまして。

そして、「これ読んでおいて」と言われて、またほったらかし。

とりあえず読んで、読み終えたと言ったら、「いや、これもやっておいてと言ったでしょ。」と注意を受けました。

いや、ちゃんと私に伝わるように言っておらんでしょうに。



こんな感じで、きちんと初めて来た人に対して最低限のやるべき説明や研修的なこともなく、いきなり「これやっといて」という感じです。

更に、雑に作業を説明した後、また暫くほったらかされたあげく、事あるごとに「今何やってるかわかってる?」と、ため口で無礼な口の利き方で、上から目線で言われましてね。

手本も見せず、きちんと教えもせず、その割に小言的に「今何やってるかわかってる?」と威圧的に言ってくるし、更に私の目を見てきちんと言わないしで、まあ、酷いもんです。



それでも何とか踏ん張って(我慢という慢の煩悩を燃やして)、やることを全てやり終えて、業務終了間際。

いきなり、「これの使い方は」と、最初に説明しておくべき事を終わりになってくどくどと説明し始め、30分の業務超過となりました。



こんな感じで、終始雑で、ぞんざいで、すぐに口の利き方も横柄になって接されるということをされたものです。

出向先では、こうして何度も怒りを覚えながら過ごしたもので御座います。

怒りを覚えたものの「今、怒りを覚えている」と気づく事は出来ていた

初めての人に対してあまりにも無礼なことをされましたが、私は怒りを覚える度に、「あ、今、怒りを覚えた」「また怒りを覚えた」と、怒りが出て来ていることに気づく事は出来ておりました。

恐らく、気づいておらんかったら、初対面の人にお構いなしにぶっちぎれという状態でありましょう。

左ストレートをたたき込んでおったやもしれません。



怒りを覚える度に、「今、怒りを覚えた」と、怒りをきちんと観る事ができたのは、毎日瞑想なりお念仏をしておったからかなあ、と、思うたり。



そして、その後に今度は、「怒りの原因を精査してみよう」という余裕も出てきたのです。



嫌な相手の嫌な部分を智慧にかえるということは、そやつを「反面教師にする」とも言えましょう。

怒りの精査:事実と私の勝手な想像を分ける

怒りの精査をしようと思うくらいになると、怒りで暴走しているという状態ではなく、分析的なモードに入ることが出来ておりまして。

私はまず、何をしたかと申しますと、「事実」「私が勝手に想像しているだけのことではないか?」ということにわける事にしました。



まず「事実」から。

私がされた事実は「初めて出向してきた人への業務説明が全くされなかった」「放置されまくった」「終了時間を考慮されなかった」「ため口で横柄な口の利き方」です。



次に「私が勝手に想像しただけのことではないか」という事は、次のようなことです。

「相手が私を初めて来た奴で何も知らない素人だからって、軽んじていて見下している」



これは、相手が本当に私を軽んじているかどうかは未知数で、もしかしたらそうかもしれませんし、違うかも知れません。

証明しようにも、相手に直接聞いてみたって「いや、そんなことはない」と言われたらおしまいです。

初めて出向してきた私は、出向先のやり方などを全く知らない素人だから、どう接すれば良いのかわからずに強張ってついついとってしまった態度かもしれません。

その辺りは想像するしか無く、それこそ、私の勝手な想像をするしかない部分です。



ただ、この勝手な想像で出てきたことも、智慧に変えられるのですがね、それは後ほど。



こうして、怒りの原因の精査をした後、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「怒りを智慧に変える」ということをやってみることにしました。

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怒りを智慧に変えるプラユキ・ナラテボーさんの教え

怒りを智慧に変えるということは、プラユキ・ナラテボーさんがTwitterの辻説法、辻ッターでもお話し下さっています。





今回の実例ですと、私は「初対面で、初めて業務に当たる人にすぐにため口で横柄な態度を取ること」に、怒りを覚えたものです。

また、説明をきちんとせずに業務をぶっつけ本番でやらせて、ちょいとミスしたら「今、何やってるか分かってる?」と、不機嫌に怒る、という事にも怒りを覚えました。



このことを踏まえて、私は、次のように「私はこうして欲しかった、私ならこうする」ということに到達しました。



「初対面で初めて来る人は、業務について不案内であり、凄く不安であるという可能性がある。」


「不安な人に横柄な態度は、いつもの何倍も緊張させてしまい、それがミスに繋がるという悪循環が生まれる。」


「ゆえに、初対面で、初めて業務に当たる人には、落ち着いた丁寧な口調で丁寧に接する。」



更に。

「業務について不案内な人には、きちんと最初の内に伝えておくべき事を伝えて、わからない事や不安なことは遠慮無く聞いて貰えるような雰囲気と関係を構築していく。」



こうして、私はやられて不快で怒った、されて嫌だった「事実」の部分を、上述のように変換しました。

ここに追加で、「初めて来た人が終了時刻にきちんと終了できるように、進捗具合をきちんと把握して業務を共に進める。」も。

勝手な想像や妄念の部分も智慧に変える事ができる

「事実」の部分は智慧に変えることが出来ました。

ここで、私は更に「私が勝手に想像した、被害妄想かもしれない部分」も、智慧に変えようと試みまして。



私は、無礼なことをされた出向先の私の担当者について、「私を見下して軽んじているんだ」という妄念が湧いたものです。

でも、それは私の妄念ではなかろうか、私か勝手にそう決めつけているだけではなかろうか、と、冷静になった時に思うたものです。



そして、この妄念や勝手な想像も、智慧の素材にする事ができます。



「私を見下して軽んじている」ということを想像して、怒りを覚えたということは、自身の妄想で勝手に怒っているという状態ではあります。

ここで、「私は別に見下されていなかったかもしれない」という想像を、「だったら私は、相手を初心者だからといって見下さず、相手を尊重して接するようにすればよいのだ」というところに到達しました。

経験のある出向先で実践してみたら良い感じに

このように、「怒りを智慧に変える」ということをした後、数日後に私が1ヶ月ほど経験があり、ある程度慣れた出向先にて、智慧を実践する機会を頂きまして。

その日は、私の隣の席に、その出向先に入って2日目で、その日やる業務がその人にとっては初めてという方が座られました。

そこで私は、まずは最初にお伝えすべき事を、私が実際にやって見せて、そこから徐々にご自身でやって頂くという流れで、伝えていきました。

1単元の説明が終わる度に「拙い説明でわかりにくくて申し訳ないことです。ここまでで不明な点や不安点はありませんか?」と、きちんと尋ねて、伝わっているかどうかを確認しつつ、説明を聞いて頂く時も、丁寧語は崩さずに。

有り難い事に、その日私と共に業務に当たって下さったその方は、起用で覚えるのも速い方だったようで、私の拙い説明でもきちんと出来るようになって下さり、その物覚えの良さに感服したものです。

むしろ、私が学ばせて頂いたと思うたものであります。



そうして、その日その人とは終始穏やかな感じで業務に当たることが出来て、時折お互い笑顔で話たり、お互い丁寧に接し合うことが出来ました。

無財の七施

ここで、仏教の話をしてみますと。



私は、出向先二日目という人と接しているとき、「無財の七施」も実践していたかな、と、思い出しました。

無財の七施については、検索すれば情報が沢山出てきます。



私は作業に不慣れな方に説明するとき、自身がやられて嫌だったことの逆を心がけました。

今にして思えば、それはまさに無財の七施の実践でもあったと、思うのです。



と、言いますのも。



相手を威圧しないように、顔もまなざしも丁寧で和やかにするということは、「眼施(げんせ)」「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」です。

丁寧な言葉遣いで相手を尊重した話し方、乱暴な言葉を使わないのは「言辞施(げんじせ)」に通じましょう。

それに、上述の「言辞施」などに通じる根底には、「心施(しんせ)」もあるかと思います。



プラユキ・ナラテボーさんの「怒りを智慧に変える」の実践に、無財の七施を実際にやっているということもあったのならば、まさに仏智の実践、学んだ仏教の実践と言えるのかも、そのように思うた次第で御座います。

万事が万事、全てこのように上手くいくとは限らないが、こういう実例もあったということで

今回は、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「怒りを智慧に変える」ということをやってみて、それを実際の現場で実践したという実例をお伝え致しました。

そのお陰様で、私と共に仕事をして下すった、出向先でまだ日の浅い方と、良い関係を築くに至ったもので御座います。



今回の私の体験は、あくまで私が体験した一例に過ぎず、これが万事が万事、全ての事例で絶対に通用するということはないやもしれません。

ただ、怒るような事をされて、それを今度は八つ当たり的に誰かにやってやろう、と怒りの煩悩を燃えさからせるよりも、建設的な対処の仕方では無いかと思うのです。

今回の話は、アンガーマネジメントの一つの実例として受け止めて頂ければ嬉しゅう御座います。



最後に、以前お伝えした関連の記事を貼り付けておきます。



関連記事:「アンガーマネジメントと仏教|怒りを観察し活用するという智慧」



怒りが湧くこと、怒りを覚えることは、娑婆世界にいればしょっちゅうありましょう。

それこそ、「堪え忍ぶ地:忍土」と表現されるくらいですから。

その上で、上手に怒りを智慧に変えていく事ができれば、良き縁とも出会える可能性が広がるやも、と、思うことに御座います。



合掌、礼拝

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