アンガーマネジメントと仏教|怒りを観察し活用するという智慧

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、「アンガーマネジメント」をご存じでしょうか。


アンガーマネジメントとは、現在は本屋に行けば、恐らくビジネス書か自己啓発書が並んでいるコーナーに行くと、本で勉強することが出来ます。

今回の話は、アンガーマネジメントとは何か、とか、そういう細かい話をしたいわけではありません。

前回と前々回、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀の話をしておりますが、その瞑想会にて、仏教的アンガーマネジメントと言いますか、そのような話を思いつきまして。



プラユキ・ナラテボーさんは、現段階における主著「自由に生きる」にて、怒りについて医学博士の熊野先生と対談されています。(最後に少し紹介致します。)

また、瞑想会では、怒りの事についても触れて下さり、話を聞いていく内に「これって、まさに仏教的アンガーマネジメントではなかろうか。」と、私は思い立ったわけです。



今回の話は、巷のアンガーマネジメントや、怒りのコントロールの話と、被るところや違う部分も御座いましょう。

怒りを観察して活用する智慧と題しまして、仏教視点を取り入れたアンガーマネジメントについて、話を進めて参ります。

使える部分が御座いましたら、ご活用頂ければ、嬉しゅう御座います。

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アンガーマネジメントとは何か以前に「怒り」を悪者扱いし過ぎという風潮はなかろうか

アンガーマネジメントとは、早い話が「怒りに支配されずに、怒りを支配する側、マネジメントする側にまわる」という事であろうと、私は捉えております。



まあ、アンガーマネジメントとは何か、という事の言い回しは色々ありましょうし、その辺りは本や講座で学べば良いとして。

アンガーマネジメントとは、一般的には負の感情として捉えられていると思われる、「怒り」をマネジメント、つまり管理なり上手い事扱えるようにする概念と頂く事ができましょう。

ただ私は、このようなアンガーマネジメントの広がりの背景や風潮を見ると、「どうもなあ。」と思うところも御座います。



アンガーマネジメントに手を出すことが、悪いとは申しません。

むしろ、「私は怒りっぽいから、なんとかしなければ。」という克己心そのものは、大いに応援したいところで御座います。



ただ、その背景には、「怒りは悪者、怒る事は悪いこと」と、「怒りに対する評価や在り方」を見出しておりましてね。



もちろん、何でもかんでも「むきゃー!」と怒り倒すのは、考え物です。

そういう「下手な怒り方」は、直した方が娑婆世界を生き抜く上では、肝要な事柄の一つで御座いましょうし。



一方で、「怒りそのもの、怒りが生じる事や怒る事それ自体が悪い事」というのも、なんだか不自然な気がするのです。

生きていれば怒りは沸くもので、コントロールはなかなかに難しい

そもそもとして、娑婆世界は「忍土」と言われる程に、堪え忍ぶ場と仏教では表現しております。

そりゃ忍土で生きていれば、怒りが沸くようなこともありましょう。

「人の命を奪わないのは、そういう縁であるからであり、縁があれば人の命を奪う事もあろう」と親鸞聖人が仰ったと、歎異抄にも御座いましす。

私も、この部分は「なるほどなあ。」と思い採用しているところでありましてね。



そして、忍土においては、「怒りと縁結ばれる事」も、多々御座いましょうに。



そういう中で、「怒りそのものが沸かないように」と、怒りの発生そのものをコントロールしようというのは、なかなかに難しい。

それに、我々がおよそ「怒り」と呼ぶ現象が備わっている人類にとって、それそのものを無理矢理なかったことにしてしまうのは、不自然な気もします。



そりゃあね、達磨大師と慧可さん(正宗普覚大師)の如く「不安を出してみな、そら、実態なんてなかろうに」というような達観したところまで行けば、話は違ってくるかも知れませんが。

およそ凡夫には、なかなかそうはなりますまいて。



また、沸いた怒りを小賢しく小手先の自己啓発本のテクニックを使って、怒りを都合良くコントロールしようとするのも、なかなかに難しい。

これは、前回話したプラユキ・ナラテボーさんの仏教講座で学んだ事柄から私が考えた、「水面の譬え」でも、読み取れましょう。



参照記事:「心が苦しい時のブッダの智慧|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀後編」



怒りが沸いた状態をコントロールするという事は、水面に激しい波が現れている状態で、それを手でばしゃばしゃと「静まれ静まれ!」とやっている状態です。

それが出来れば宜しいのですが、場合によっては足を踏み外して怒りに飲み込まれるか、「怒りの波を抑えられない自分は駄目だ」と、意気消沈してマイナス方向へ突っ走るか、が予想されます。

怒りの現象を、自分都合で何とかしてやろうというのは、訓練されていないと、なかなかに難しいものです。

私の失敗談:怒りを悪者扱いしたあげく、「怒る私」を悪者扱いするように

怒りについて、私は失敗したことが御座いまして。



私の怒りの失敗談としては、ぶっちぎれて気まずい仲になってしまったという、典型的な例もあります。

その他には、「怒る自分は駄目な奴」と、怒りを抑圧しすぎたために、自己嫌悪・自己否定を行き着くところまでこじらせてしまった、という経験もありましてね。



私、怒っても怖くないと言われ続けて、また、私が怒っても、更にそれを上回る怒りで他者から抑圧され続けてきました。

そうして私は「私が怒っても怖くないし誰もきいちゃくれない、怒る事そのものが駄目なんだ。」と、思うようになったものです。



そこから「そもそも怒らないようにしないと、怒りは悪だ」と、完全に「怒りを悪者扱いする」という状態に陥りまして



そしていつ頃からか、人一倍敏感であるのに、怒りが沸いても「こんな事で怒りを感じる自分は駄目な奴」と、必要以上に抑圧しすぎて参りました。



今思えば、なんとも不自然な事でありましょうか。



この状態を続けていた時も、ロードワークや筋力鍛錬を続けてはおりましたが、それで解消はしきれず。

私が鬱状態で倒れ、心療内科でうつ病なり発達障害の事を言われたのは、この蓄積が一つの要因であったかもしれません。



考えて見れば、不自然なのは当然ですわな。

だって、「怒りは駄目だ!」と怒りを否定しながら、怒りが沸く自身に怒りまくっていたわけですから、まさにダブルスタンダード、ダブルバインドというやつでありましょう。



これが行き過ぎると、人によっては、私の様に心療内科のお世話になったり、統合失調症になる事もあるのではないか、自身の体験から、そのような事を考えるに至っております。

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仏教的アンガーマネジメント:怒りを観察して次の一歩を自覚的に決める

このような体験を経て、現在はプラユキ・ナラテボーさんや、私をお救い下さったお坊さん達、また、仏教・仏法の知恵を拝借しながら、怒りとの付き合い方も変わってきました。



現在の私が採用している、アンガーマネジメント的な事柄は、「怒りを観察する」という事を経る、そういう過程をこしらえる事です。

これは、プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんが翻訳して紹介して下さった、カンポン・トーンブンヌムさんの智慧と実践されてきたことから、お借りしておりましてね。



カンポン・トーンブンヌムさんは、私達に「苦しむ人」から「苦しみを観る人」という智慧を、伝えて下さっています。

今回の話に繋げると、「怒る人、怒りに飲み込まれる人」から、「怒りを観る人」になるという事です。



これについては、カンポンさんの本を紹介したときに、私が体験した現象を紹介しておりますから、それを読んで頂くと、より理解が深まるかと存じます。



参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」



カンポン・トーンブンヌムさんの本は、私にとって良書・良著であります。

Amazonにも、スカトー寺のご住職、パイサーン師と共におわします電子書籍もありますから、興味を持たれた人は、覗いて見ると宜しかろうと存じます。








電子書籍はこちら。








もう一冊。




「自身に気づき自覚的に生きる事」「観る人」という仏教の教えと出会わせて頂いたお陰様で、「怒りを観る人」という在り方にも、気がつきまして。



「水面の譬え」を、怒り版で解説致しますと。



まず、水面を心・精神に見立てて、外部からの刺激、この場合、石か何かが外部から放り込まれて波が立ったとしましょう。

そうすると、水面には波が起こります。



この時、アンガーマネジメントをしているつもりが、アンガーコントロール(無理な操作)をしようと、ばしゃばしゃと波を手で払ったりしても、余計に波が立つだけです。

そして、酷い場合には、足を踏み外して水の中に真っ逆さま、怒りで荒波が立っている水の中に飲み込まれてしまいます。

そうして、窒息して意識がなくなった状態が、所謂「我を忘れて怒り狂う」「キレる」という状態です。



そうならないためには、一旦、きちんと「観る事が出来る場所」まで、移動します。

怒りが沸いて波が立っても、波にさらわれない、飲み込まれない立ち位置を確立し、そこから「ああ、波が立っているなあ。」と「観る人」になるのです。



私も、最近ようやく「むきー!」となった時に、「あ、今、波が立っているぞ。」と、すぐに観る人の位置までいけるようになってきました。

気づきが間に合ってきたわけです。

まあ、まだまだ観る人になり損ねることもしばしばですが、「観る人」になって飲み込まれる事は、かなり減ってきたという実感が御座います。



そして、「観る人」になれる事が上手になってきたら、次の一歩です。

今度はその怒りも観察して、怒りの内容を建設的な方向へ歩む力と変える、という段階へ進みます。



そこで、プラユキ・ナラテボーさんから教わった、「怒りの上手な活用法」の出番です。

プラユキ・ナラテボーさんは瞑想会で、「怒りは自分の再発見のチャンス」と、教えて下さいました。

アンガーマネジメントと仏教:怒りを活かす方法その1

プラユキ・ナラテボーさんから教わった、怒りを通して自身を再発見して活かす方法、仏教的アンガーマネジメントの一つ目。



「怒りとは、「私はこうしたい」という欲求や、私がやりたいことを見出す縁となる」



怒りが沸く時、仏教の基本的な事柄である「四苦八苦」が関係しております。

例えば、好きな人と自分の意図しない形で別れると、「こんなの望んでいないのに!」と、怒る事もありましょう。

また、現代社会においては、「求不得苦(ぐふとっく)」という、欲しい物が手に入らないと、癇癪(かんしゃく)を起こしたり、怒る事もあるかと存じます。



これらは全て、「自分都合にならないために不快になる」という事であり、それが怒りという形で表象している、といった具合です。

この「自分都合・過剰になっている自分のご都合主義」をそぎ落としていくことで、苦が減っていく、あるいは滅していく、というのが仏教が教えている事で、その方法が八正道を行ずる等の事です。



さて、この「自分の都合や欲しい物事が叶わないから、怒る」というのを、人に向ければ、喧嘩になってしまう事も御座います。

ここでプラユキ・ナラテボーさんは、怒りを相手に向けず、自分を観る素材にする方法を説いて下さいます。



どういう事かと申しますと。



まず、上述したように「怒りを観る人」の位置に立ち、怒りに飲み込まれない事です。

そして、「怒りが沸いた因縁」と、「ここでの自分都合、欲求は何か」を問います。



例えば、私は未だに、「詐欺に遭った」という人の話を聞くと、ものごっつ怒りが生じます。

しかし、それに飲み込まれずに、「今、私は何に対して怒りが沸いて、そこから私が欲している事とは何か」と、問います。

そうすると、現段階で見出している事は、「詐欺に遭う人がいなくなる世界を欲している」「詐欺師撲滅を欲している」という事が、言語化出来るレベルにまで観えております。



「怒りは自身の真に欲している事柄、本当にやりたい事柄を見出す縁である」



こうしてみると、怒りは悪者ではなく、自身を深掘りして、自身を洞察する智慧の素材として、活かされると思うのですが、如何でしょうか。



アンガーマネジメントと仏教:怒りを活かす方法その2

仏教的アンガーマネジメント、プラユキ・ナラテボーさんから教わった怒りを智慧の素材とする方法の二つ目。



「怒りから自分のセンスに気づいく」



これは、クレームという概念とセットで考えると、わかりやすいかと存じます。



例えば、友人と服屋に行ったとしましょう。

そして、店員さんが友人に勧めた服が、自分の目から見ると「この色のシャツにこの色のズボンは合わないのになあ。」と、そんな事が続いて、段々イライラしたり怒りを覚えたりします。



私でしたら、恐らくこういう怒りの覚え方はしません。

私、ものごっつ服装や装飾に無頓着でして、お洒落とはほぼ無縁ですからね。

もちろん、最低限の身だしなみは整えますが、それ以上にはならんのですよ。

まさに、服装選びのセンス無し。



しかし、衣服についてハイセンスの持ち主でしたら、ちょっとした事でも、違和感を覚えて、場合によっては「違う、それは無い!」と、怒りが起こる事も御座いましょう。



まさにそこに、自身の持つセンスを見出すのです。



ちなみに私でしたら、教師や指導者、コンサルタントなどの在り方を問うと言いますか、人間リトマス紙的な部分があると、知人友人から言われる事がありまして。

確かに、教え方や教える態度に、昔からよく「むむ、なんだその在り方は!」と、怒りを覚える事が多々御座いました。

もっとも私は、喧嘩も弱くて気も弱く、言い出せずにずっとじーっと我慢し続けてきたわけですがね。



例えば、こちらが報告している時に、ディスプレイを見てキーボードをかちゃかちゃと打って、こちらを全く観ない上司などに、「きちんと相対しなさいよ」とか、すぐにピンと来たものです。

(当時の私は怖くて何も言い出せず。)



コンサルタントにしても、Skypeで話している時に、キーボードの打撃音が聞こえたら、「今、ここにいる私に全く向き合っていないし、併走する気皆無だな。」と、物ごっつ怒りを観じたものです。

実際おったんですよ、社会で一度も働いたことが無くて、学生時代になまじ稼げてしまって人と世間を舐め腐って、コンサルティング中に背後でチャットやっとった我利我利亡者なる詐欺師がね。

どこの札幌のぺいぺいな亡者とは申しませんが。



ただ、こういう風に感じる怒りとは、「自身のセンスを見出す縁」ともなります。

怒りを感じた場合、上述した「自身が真に欲している事柄」と共に、「自身のセンスを問い、見出す縁」として使ってみると、あなたがまだ出会っていないご自身の才覚と、出会える可能性が御座います。



尚、今回の事柄を復習しつつ、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる怒りの活用法については、「自由に生きる」にも、関連する項目が御座います。




「自由に生きる」の272ページと、273ページからの「怒りと理解」に、その詳細が御座います。



「怒っている相手を観て理解する」という話も御座いまして、対人関係・人間関係に活かせる智慧でもあり、怒りを観察して進化・深化したい方は、読まれると宜しいかと存じます。

仏教的アンガーマネジメントとは「怒りに飲み込まれる人」から「怒りを観る人」が一歩目

今回は、仏教的アンガーマネジメントと題しまして、怒りの活用方法をお伝え致しました。



怒りは、コントロールするのでは無く、あくまでマネジメントする、「観る人」となって上手に活用する。



「観る人」となる訓練は、日常でもきちんと気づきを保ち続ける修行となる、ヴィッパサナー瞑想が御座います。

私は、身体を気づきのスイッチとする「手動瞑想」や「歩行瞑想」を、日々行じておりまして、その効果もあってか、気づきを頂く事が出来るようになってきました。

もっとも、まだまだ、まだまだ修行が足りない私ではありますがね。



カンポン・トーンブンヌムさんが教えて下さる「苦に、怒りに飲み込まれる人」から「苦を、怒りを観る人」へ。

それを経て、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「怒りを活用して自身を知る・自己観察の縁とする」という智慧。



忍土で生きていく上で、怒りを覚えることもしばしば御座います。

怒りを悪者扱いし過ぎて、疲弊・摩耗・消耗するのではなく、智慧の素材として活用出来れば、生きやすくなろうかと存じます。



合掌、礼拝

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