不安や焦り・焦燥感の対処「大きく考える」という方法の体験記|誤魔化しや現実逃避の落とし穴には注意すべし

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、不安や焦り・焦燥感を感じたり、不安や焦りに苛まれるという体験をした事が御座いますか。

私にいたりましては、うつ病等の症状が酷くて、心療内科のお世話になっていた時代やその前後の時期は、何もしていないのに、不安や焦り・焦燥感に苛まれたものです。

夜、布団の上にいるだけなのに、心臓が締め付けられ、突然涙が出てくるとか、そういう時期がありましてね。

現在は、時々は何もしていないのに不安や焦り・焦燥感がやって来ることはありますが、なんとか対処してやり過ごせております。



先日、ちょいと配達業務があったときに、迷子になって不安や焦り・焦燥感が顔を出した時に、自然と為す事が出来て、更に不安や焦りの感覚感情が和らいだ、という経験が御座いました。

全ての時に使えるわけでは無いという事や、使い方によっては「誤魔化し・現実逃避」であったり、無明を増幅させる事になりかねないから、注意せんといかんのですがね。



今回は、私が迷子になった時に、自然と活用出来た「不安や焦り・焦燥感軽減・対処法」と、注意する事について、お伝え致します。

この方法で、不安や焦り・焦燥感が完全に無くならない事もありましょうが、ただ、呆然と立ち尽くすところから一歩踏み出せるくらいの回復には繋がるかと存じます。

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不安や焦り・焦燥感を覚えるきっかけとなった、配達途中に迷子になった私

今回の話、私の体験をお伝えする事になったきっかけとなる出来事について、まずはお伝えしておきましょう。



私は、内職的な活動と、機械工具関連の店の諸業務や配達業務も、手伝わせて頂く御縁がありまして。

細かい手作業もありましてね、これが瞑想修行や三昧の修行にもなっており、有り難い御縁に御座います。

また、お客様に製品を届ける業務、配達業務もさせて頂いております。



そして、先日も配達業務を仰せつかったのですが、その時に、ちょいと迷子になってしもうたのです。



業者が入ってもよいとされる時間が決められており、「これはまずい」と、不安や焦り・焦燥感が襲ってきました。

遅刻しそうなとき、刻々と時間が迫ってくる、あの不安と焦り、恐怖とも言える焦燥感ですよ。

だからといって、道路交通法に反する運転は出来ない。(軽トラックで配達しております。便利です、あの車。)

でも、急がないと、の循環。



プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる、まさに「反応」しか出来ず、反応に継ぐ反応による十二縁起を彷徨いながら、道も彷徨っておりました。



参照記事:「「対応」に繋ぐ「反応しない練習」をする日々|英語で意味を紐解き日常で活かす具体例」

不安や焦り・焦燥感が和らいだ「大きく考える・スケールを大きくする」という対処方法

そんな時、ふと、これは本当に「ふと」、立ち上がってきた智慧が御座いましてね。



恐らく、最近「仏教心理学入門」と、親族から聞いていた言葉が光明となって顕れて下すったのでありましょう。


「自己牢獄を超えて 仏教心理学入門」に、「グラウンディング」という事について教えて下すっている箇所がありまして。

詳しくは読んで頂いたら味わって頂けましょうし、名著を一冊手元に置いて頂くと、宜しいかと存じますが、一言で解説しますと「大地にしっかり足をつけること」です。

読んで字の如くの日本語訳ではありますが、要するに「地に足を着いているか」ということです。



気づきの瞑想、手動瞑想や歩行瞑想も一要因であったのでしょう、私は迷子となった最中に、「あ、今、不安や焦りが顔を出して、支配されそうになっている」と、気づきが間に合いました。

そして、「焦って軽トラックの運転が雑にならんようにせんと。」と気づき、不安や焦り・焦燥感による「地に足が着いていない状態」から、一旦脱却する事が出来ました。



次に、ふと、昔、親族から教わった「空はでかいし、続いているんだなあ。」という事を思い出すに至りましてね。

それが、「仏教心理学入門」のグラウンディングと結びついたのか、こういう思考・思想に、出会ったのです。



「道は続いている、大地は繋がっている、その上に私はいさせて頂いておる。繋がっているならば、到着する。」



すると、「お客様のいらっしゃる建物そのものは逃げないし、道が繋がっているならば到着するだろう。」と、余裕が出て来たといいますか、不安や焦り・焦燥感に支配されずにいられる立ち位置に居続けることが出来たのです。



その後、お客様の会社の建物が視野に入り、ここで入り口がまたわからなかったけれども、ぐるりと周囲を回れば見つかるだろう、と、終始不安や焦りに支配されずにおりました。



後からこの体験を思い起こしたところ、「あれが、大きく考える、スケールを拡大して考えて見る、という事の一例であろうかなあ。」と、思うたところに御座います。

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物事を大きく捉えるという対処で視点硬直や狭い視野を拡大する:無明からの脱却・脱構築

私が経験したことは、言語化するまでも無く、あなたも経験したり、色々な人から言われてきたことかもしれません。

また、自己啓発本やビジネス書、あるいはペラスピ系が好きそうな話でもあるかと存じます。



ちなみに私、伝統スピリチュアルと薄っぺらくて金が絡む「ペラペラスピリチュアル」を分けて考えておりまして、「意識高い系」ではありませんが、薄っぺらい方のスピリチュアルを「ペラスピ系」と呼んでおります。

もっとも、これは私独自の差別的思考と差別的な言い回しであり、人々が被害に遭わぬための区別とはいえ、物事を分別して「あれはだめ、これはよし」から離れられぬ凡夫であるなあ、と、思い知らされるわけですが。





物事を大きく捉える事、私がやったように、「迷子の時は、大地・道は繋がっている」と考えるという話は、私がせんでも、すでにどこかで聞いた事がある、という人も多いかと存じます。

自己啓発系やスピリチュアルの分野でも、言われる事があるこの話を、ここではこの寺院(ブログ)らしく、仏教・仏法を交えて、視点を変えて話を進めてみます。



巷では、「視野が狭くなっては駄目だ、広い視野をもて」「多角的に捉えろ」「視点を硬直化するな」など、色々とお説教される事が御座います。

確かにそれはそうなのですし、それ自体を私は否定していません。

だったら、具体例を示したり、見本を見せて頂きたいものである、と、私はその都度思うのですがね。



視野が狭い、視点が硬直化してしまっている状態を、「無明(むみょう)」といってもよいでしょう。

「無明」には、「気付いていない・見えていない」という事や「無知」、「見るたい者しか見ないように視点・視野を限定する」という意味が御座います。

仏教の入門書的な本や、易しく書かれた本には、「無知」という解説がよくされています。

今回は、「視野が限定されている」「狭い視野しか無い」という意味や概念として、読んで頂ければと存じます。



そして、視野が狭く、その狭い視野の中で起こった出来事によって、不安や焦り・焦燥感を感じているという状態が、迷子になって「迷子になった自分」しか見られなくなっていた、私の事に御座います。

とても、物事を大きく捉えたり、大きく考えるという事が出来ているとは、言い難い状態と言えましょう。



そういう状態から、一旦視野を広げたり、物事を大きく考えるという対処法は、狭い視野や硬直している視点からの脱却・脱構築の一要因となり得ます。

そうすると、今まで見えなかった考え方や方法、解決策であったり、不安や焦り・焦燥感に支配されないだけの、心的容量の増大も見込めましょう。

実際、私もそれを経験しました。



行き詰まっていたり迷っていたり、それにより不安や焦り・焦燥感を覚えている状態であるならば、「視野拡大による脱構造・脱構築」の智慧は、無明に陥っている状態に差す光となり得る対処法では無いか。



私はこのように考え、頂いております。

注意点:不安や焦り・焦燥感を和らげる効果がある対処方法ではあるが

私が実践し、体験した、不安や焦り・焦燥感を和らげて、緊張状態による膠着状態から、活動する力を回復させる効果がある「大きく考える、スケールが大きい考え方」をやってみるという対処方法。

確かに、効果はありましょうし、私も体感したことはしたのですが、注意すべき事も御座います。



これは、仏法を頂いて、その仏法を自分都合で自分が気持ち良くなるためだけに歪曲解釈したり、誤解してしまうという事にも、言える事です。

私もやってしまう事であり、お坊さんに「これこれ」とお叱りと修正を頂く度に、己の無明、浅はかさや無知蒙昧加減を思い知らされるのでありますが。



確かに、物事を大きく考える事、スケールを大きくした思考は、有用な時も御座いましょう。

しかし、それが怠け心であったり、煩悩と結びついたり、煩悩を燃え上がらせる燃料になってしまう事も御座います。



私の実体験から一つ例を挙げますと、私がスキー場のリゾートバイトをしている時に、こんな事を言われたことがありましてね。



私は12年か13年前にスキー場で働いていた時期がありましたが、陸上競技とボクシングの訓練をしていた名残もあり、その時もずっと続けておったロードワークと筋力鍛錬をしておりまして。

そして、ある時に年下の従業員が、私が肉体鍛錬をしているという事を知ったようでしてね。



当時の私は、休日にはスキー場がある地域のスポーツジムに通っており、いつの間にか知った人達もおりましたから、耳に入ったのでありましょう。

その従業員が、ある時私にこう言いました。



「体を鍛えたって、意味ないよ。どうせみんな他界するんだから。」



当時の私は、「まあ、言うてる事は一理あるしなあ。」と、「ふーん、ああ、そう」くらいで流しておりましたが。

なんとも、身も蓋もない。

確かに、人生を長い目であったり、大きく考えたら、そのように言う事も出来ましょうが、何かこう、もやもやしたものがあったものです。



今思えば、まさにこれは「大きく考える事を、今を一所懸命に生き、精進する事から逃げたり誤魔化す、現実逃避的な物言いに使われてしまう言説ではなかろうか。」と、考えるに至りました。



大きく考える事によって、視野が広がり、膠着した自己への執着からの脱構築・再構築に一役買うことは、確かにありましょう。

ただ、それが「我利快楽のためだけの言い訳や誤魔化し」「現実逃避」に使われてしまうという懸念も御座います。





自分都合で怠けるために使われてしまわないか、という懸念がある仏法に、「無常」があるのではないか、と、私は考えております。



「無常」あるいは「諸行無常」は、仏教が伝える有名な教えと言いますか、ご存じの方も多い事柄では無いかと存じます。

私の様に、中学時代に平家物語を学んだ時、「諸行無常の響きあり」で、知ったという人もいらっしゃいましょう。



「無常」とは、読んで字の如く「常なるものは無し」という事です。



物品が壊れた時に、「まあ、世の中は諸行無常だからね」と、慰めるようにつぶやいた経験がある人も、いらっしゃるんじゃありませんかな。

物品が壊れた時、「無常な世ゆえに仕方なし」と、壊れたことの悲しさ等を軽減させる事に、一役買うという要素があるからこそ、このようにつぶやくというのもありましょうし。



これが「どうせ無常だし」という、自分都合で怠けるための、現状を誤魔化し現実逃避する使われ方をする場面とは、どういう場面か。



典型的な例は、掃除の場面ではありませんかね。

こういう言い訳、した事がある人や、人がやるところを見聞きした経験って、ありませんかな。



「どうせ汚れるんだから、掃除したって意味無いよ。ほら、この世は諸行無常だから、綺麗にしたって汚れるんだし。」



これは、物事を大きく考えてはいるけれども、目の前の事から逃げる、誤魔化して現実逃避する使われ方の典型でありましょう。

「いや、まあ、確かにそうだけど、それにしたって」と、「お、おう。」的な違和感といいますか、なんだかなあ、という感じが致します。

言い分は確かになあ、とは言えるけど、という、あのビミョーな感じ。

(「びみょう」は、仏教では「微妙」というと宜しい意味で使われる言葉でありまして、私はそれと区別するために「ビミョー」と、間延びした言い回しにしております。)



物事を大きく考えたり捉えたりして、不安や焦り・焦燥感によって動けなくなっている状態から一歩踏み出すという使い方は、生きる智慧となる対処といえる話です。

しかし、我利だけの快楽を貪るため、サボり癖となるような、大きく考えるという方法は、戒めておきたいもので御座います。



もちろん、根を詰めすぎている状態においては、サボった方がよい、怠けた方がよい場面もありますがね。

サボり癖は如何なものですが、ガチガチに排除するのも、また考え物です。

どちらに偏るのも考え物で、中道を揺らぐ塩梅が丁度良い、と、今の私は頂いております。



ただ、そういう場合でも、適切に、よい塩梅に調整された使い方を心がけたい、そのように思うところに御座います。

自戒を込めて。



合掌、礼拝

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