御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
あなたは「基礎」と聞くと、どのような事を思われるでしょうか。
と、言いますのも、最近Twitterにて「基礎」について、改めて考える機会を頂きまして。
基礎だとか基本について、代表的な論争と言えば、「基礎は個性を妨げるから必要ない、むしろ悪だ」という基礎悪玉論と、「いや、基礎あってこその応用だ」というような、基礎善玉論の論争でありましょうか。
こういう論争が持ち上がる度に思うのは、基礎大切教と基礎邪魔教の宗教論争的な、そんな感じを抱くこともあります。
私はどのような宗教かと申しますと。
私の場合、基礎の大切さについて身を持って教わった経験があり、今は仏教を体系立てて学び直しているところです。
以前からお伝えしておりますように、近場のお寺さんで開かれている仏教講座に通い出したというのが、それに当たります。
そして、基礎を学び習得しても、応用力がなくなったり、個性・個別性を妨げることはなかろう、という宗教の人です、私は。
今回は、私が何故「基礎」を肝要だと思うようになり、更に基礎は決して個性を妨げないであろうと思うようになったのか、その事を話す回と致します。
おそらく、反論多々ありましょうし、間違っていると指摘される事もありましょうが、現段階における私の思想・宗教を、お伝えしてみます。
Contents
基礎が大切とは言うけれど:そもそも基礎とは何ぞや
最初に、「基礎」の定義から、現段階において私がどのように定義して、基礎という言葉と概念を頂いているのか、というところから話してみます。これ、結構疎かにして「基礎は大切だ」と言っている人っていませんかね。
武術研究家の甲野善紀さんが、著書で「基礎や基本が大切だとは言う人は、そもそも基礎・基本とは何かと聞いて答えられるのか」という趣旨の事柄を記されていますが、確かに、と思うたものです。
基礎とは何か、そして何故大切であるのか、を、きちんと答えられるかなあ、と、彼の本を読んだ時、自身に問うてみて、その当時は答えられませんでした。
現在は、現段階におけるという注釈は必要ではありますが、一応は定義するに至っております。
では、「基礎」とはなんぞや。
辞書などで言葉の定義をひもといてみると、「構造物の安全を担う、安全を支える機能を有している構造の事」とあります。
一時、基礎工事のずさんな事が国会でも問題になった事例がありますが、その基礎の事であります。
これが、人の場合の「基礎」という話になって、「基礎が大切だ、土台が大切だ」という言説になっていきます。
私の思う現段階における「基礎とは何ぞや」の返答
これを踏まえた上で、私の思う「基礎」の定義、言葉と概念の頂き方について。私は、「基礎」とは、「生活そのもの・体そのもの」であり、「基礎を構築する」とは、「生活を調える事・土台となる生活作り」と、頂いております。
また、スポーツの世界での基礎・基礎訓練とは、「体作り」としております。
例えば、私が以前習っていたボクシングの話で言いますと、基礎訓練は生活習慣を調える事も加味します。
ボクシングでは、基本の構えやジャブの訓練をするのですが、そのジャブを出す体そのものを調える事、それも生活のレベルから調える事が、「基礎訓練」であると思うております。
思うておりますし、私にボクシングを教えてくれた先生は、そのような話をして指導して下さいました。

私に基礎の大切さを教えてくれた事柄:ピアノ編
私は、冒頭や表題で「基礎の大切さを体で教わった」と申し上げましたが、具体的にはどのような体験をしたかと申し上げますと。今はもう離れて久しいのですが、私は学生時代に、ピアノとボクシングを習っており、そこで肉体レベルで「基礎」の大切さを、先生方が口を酸っぱくして説いて下さり、教え導いて頂いたものです。
また、スキーも趣味でやっておりましたが、スキーをやるために肉体作りもしておりました。
雪山に一冬こもっていた時は、休日いは通えるスポーツジムでロードワークや筋力鍛錬など、基礎訓練にいそしんでいましたからね。
まず、ピアノの話から致しましょう。
私は、ピアノを習っていた当時、「練習はハノンから」と、ハノンという運指訓練の項目をやっておったものです。
1日の練習は「ハノンではじめてハノンで終わる」ような、そんな感じでした。
当時の私は、平行して「ブルグミュラー」というのもやっておりましたが、ピアノをやっている人ならばご存じのことかと思われます。
アニメーション作品が好きな人ならば、「ピアノの森」という作品をご存じでしょうか。
「ピアノの森」という作品をご存じの人ならば、天才的なピアノの才能を有するキャラクターが、弾けない曲に遭遇した時、ハノンを練習することによって弾けるようになった場面を憶えていらっしゃるかと存じます。
私、「ピアノの森映画版」が、2016年末のKBS京都放送で放送されていたのを視聴して、懐かしく思うと共に、「ああ、確かになあ。」と、改めて思うたもので御座います。
ハノンは、指の練習というピアノをする上で基本的なこと、ピアノを弾くための基礎を作る練習曲と、私は頂いており、実際にそのように教わって練習しておりました。
今、ピアノを再開するとしたら、最初にハノンを練習しまくるところから始めます。
それくらい、ハノンはピアノを弾く上で大切な基礎を作り上げるものなのです。
こういう体験から、ピアノを弾くに辺り、ピアノを弾くならまずは土台となる体作り、指作りから、という事を、ピアノを習っている当時に教わった事に御座ります。
私に基礎の大切さを教えてくれた事柄:ボクシング編
私に、基礎の大切さを教えてくれた世界や事柄について、もう一つ大きな事は、ボクシングです。私は下手で弱くて、大学を卒業する前にやめましたが、基礎訓練、ロードワーク・肉体の基礎訓練は、今も続けております。
この「ロードワーク」をはじめとした、基礎訓練というのが肝要であるのです。
私にボクシングを教えてくれた先生は、次のように教えてくれました。
「まず、生活習慣から調える事。添加物の入ったものは食べない。喫煙しない。睡眠をきちんととる事。」などなど。
このように、当時の私は、ボクシングに限らず健康であり続けるための基本的なことから、教わりましてね。
そして、動きの練習(ミット打ちやマスボクシング等のジムワーク等)も大切ではありましたが、絶対に外せない、素人も世界チャンピオンも必ずやる練習は、疎かにしませんでした。
それは「ロードワーク」です。
練習していた時期は、とにかく毎日のように走っていましたね。
ジムワークが無い日でも、走っていました。
この「生活習慣を調える事」と「ロードワーク」は、まさに肉体作り、土台作りとなる肝要な事柄です。
きちんと動き、練習に耐えられる肉体を調える事の大切さを、当時きちんと教えて頂いたお陰様で、今も大きな病気をせずに、生きていられています。(心療内科のお世話にはなったことありますが。)
このように、ピアノとボクシングの経験を経て、私は「基礎は肝要」という思想を頂くに至りました。

基礎が無い、基礎を疎かにするとは、どういう事か
さて、基礎の大切さを、肉体を通して知る事となった私ではありますが。では、「基礎が無い」「基礎を疎かにする」とは、どういう事か。
ボクシングで例えるならば、「自堕落な生活をして、ロードワークもせず、思いつきのオリジナルブローだけをせっせと実践している状態」です。
食べる物も体に悪そうな物ばかりで、食生活も睡眠も乱れっぱなし、体を培う基礎訓練、ロードワークという大切な練習もせずにいる。
それでいて、「あ、このオリジナルブロー強いんじゃない?思いついた俺様は天才だ!」と、そればかりを空に放ってばかりいる。
そりゃあね、オリジナルブローや必殺技的なパンチを放つボクサーも、歴史上いらっしゃいますよ。
例えば、トーマス・ハーンズさんVSロベルト・デュランさんの試合で放たれた、トーマス・ハーンズさんのチョッピングライトとか、本当に見えませんでしたからね。
でもこれは、それだけの強力なブローを使えるような肉体を、きちんと作り上げてのことです。
体を観れば、きちんと肉体作り、基礎訓練をこなして作り上げられた筋肉の鎧を身にまとっているという事が視覚的にわかるかと存じます。
(チョッピングライトは、3:10辺りから)
基礎を悪玉にして全く基礎訓練をしないという事をボクシングの例で言うならば、ロードワークもせず、生活習慣を乱したままで、思いつきだけをやっているという事であると、私は思うております。
もちろん、それが運良く時代の流れであったり、外的な要因がはまって上手く事が運ぶことも御座いましょう。
が、時代の流れ等の外的要因が全く作用しなくなったら、そこまでで終わってしまい兼ねません。
外的要因に絶対に左右されないという事は無かろうかと思いますが、それでも、外的要因に左右されにくい土台作り、基礎構築は、建築における基礎構築だけではなく、人の在り方や生き方においても、肝要では無かろうかと、体験から思う事に御座います。
現在の私の基礎訓練
では、こう偉そうに申しておる私は、と言いますと。上述したように、現在は入門レベルから学べる仏教講座に通っております。
私は浄土宗の勤行を毎日しており、仏教の本も色々と読んではおるのです。
おるのですが、私の仏教の知識や実践は出会い方が出会い方という事もありまして、超訳本から入ったようなものであり、釈尊の生涯等、そういったことを全然学んでこなかったことを痛感致しまして。
自身の基礎力の無さに気づいたが故に、きちんと基本的な事、入門レベルから体系的に学ぼうと思い至ったわけです。
また、瞑想についても、基礎からきちんと教えて頂ける人、私の場合はプラユキ・ナラテボーさんから、行と学を同時に教わっております。
その他、プログラミングに関しては、Ruby on Railsを学び実践してはおりますが、Ruby on Railsを学ぶにはまずRubyから、という事で、Rubyの入門レベルからやり直す、という事もしております。
ちなみに、現在使っておりますRubyの入門書は、こちらです。
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この本で、改めてクラスの事柄について、「ああ、なるほど」と、再確認できた事に御座ります。
同時に、「基礎が出来ておらんのだなあ。」と、痛感した次第でありましてね。
Ruby on Railsも、また基礎的な部分から学び直そうと、思い直した程です。
基礎を学ぶと無個性になる・個別性は無くなるのか、は、また別の機会に
今回は、私の実体験を元に、基礎の定義や概念、基礎に対する思想や宗教について、お伝え致しました。基礎と言えば、「基礎を学べば無個性になる」とか、そういう言説もあるようです。
この事についても、私が体験したことを元に思う事もあるのですが、これについては、また別の機会に致しましょう。
「基礎とは生活習慣からの事柄」と頂く私は、今日も戒を持って生活を調える事に御座ります。
合掌、礼拝