仏教を学び実践する中で苦を感じながらも|仏法が届いて下さっている事と感性

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



以前、ごえんさんエキスポ「スクールナーランダ」という催しが西本願寺で開催されて、参加したことを報告しております。


その時に、「フリースタイル名僧侶たち」の若きお坊さん達に、色々と話をして頂き、苦を聞いて頂いた事も話しておりまして。

スクールナーランダとフリースタイルな僧侶たちのお坊さん達とのやり取りについては、こちらで報告しております。



参照記事:「スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポに参加した感想体験談|お坊さんに導いて頂く」



上手く伝えられなくて不甲斐なき私の話をも、丁寧に聞いて下さったこと、今でも感謝しております。



その中で、仏教・仏法の物差しと、娑婆世界・世間の物差しの話も頂きましてね。

この話は、「100分de名著:歎異抄」や「維摩経」の回にて、釈徹宗さんもお話し下さったことに繋がります。

それは、仏教や宗教の存在意義の一つに、社会と全く違う価値体系や見方を備えること、という話です。

この話は、頭ですら分かっておらず、言葉だけで何となく「ふーん」と思うておったのが、凡夫なる私であったのですが。



先日、ふと苦を感じながらも、「あ、もしかして、こういうことか。」と、何かこう、ふうーっとはまったといいますか、そんな出来事が御座いました。

これが、「腑に落ちる」という事でありましょうか。



仏教を学び実践する中で、私にとって「腑に落ちた事柄」は何なのか、今回はその話を致します。

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仏教を頂き続ける毎日で、憶えるまでになりはしたが・・・

唐突ですが、あなたは「仏教」と言うと、どのようなイメージを持たれるでしょうか、連想されるでしょうか。

「100分de名著:歎異抄」の回にて、伊集院光さんが、最初は「仏様の教えをお坊さんが教えてくれる有り難い教えと思っていた」というような話を、冒頭でされていました。



かくいう私も、仏教と再会するまでは、そのように捉えておりまして。



もちろん、そういう側面もありますし、法事などで、確かに菩提寺のお坊さんから、有り難き教えや仏教が伝える教訓等も教わってきたものです。

キサー・ゴータミーさんの話も、その時に知りましたからね、私。

そして、時がたって鬱状態の時に仏教と再会してからは、「救い型仏教」であったり、生きる智慧としての仏教も学び実践するようになったものです。



ただ、それがいつ頃からか、「仏教を学び実践するほどに苦しくなってくる」という事に突き当たりまして。

と、言うのも、私は毎日、朝と晩に法然上人の教えが書かれた御経(折り本)を、勤行として読ませて頂いておりまして、幾つかはいつの間にか諳んじる程に記憶しました。



ちなみに、私が使っている折り本は、これです。





2015年の秋頃に購入してから、毎日開いております。


仏教・仏法や祖師方の教えが、ぐさりざくりと突き刺さる日々

この折り本を毎日読み、記憶するぐらいまでになり、いつ頃からか、事あるごとに教えが顕れて下さるようになっております。

この辺り、「100分de名著:歎異抄」の回で、釈徹宗さんが「歎異抄が、事あるごとにささやきかけてくる」と仰っていたのですが、その事を私も感じるようになりました。



私の場合は、「雑毒の善」という教えや、法然上人の一枚起請文にある「智者の振る舞いをせずして」であったり、一紙小消息に御座ります少罪をも犯さじと思うべし」という教えが、事あるごとに顕れて下さいます。

これは、もしかしたら、プラユキ・ナラテボーさんが仰る、「戒によって守られる」という事と通ずる事柄やも知れません。



ただ、ただですね。

実は最近の私は、この事によって、時に苦を感じることもありました。



その事をきちんと自覚したのは、慈愍観を行た際の敵対や自身が好まない人への安楽を思う時、次々と自身が好ましいと思わない人たちの事が浮かんできまして。

その時、内向型・内省の気が強い性格であるためでしょうか、このように自身を責める程に至り、苦を感じたのです。



「私は、これだけ多くの人を根深く憎んでいる、まさに鬼・悪鬼羅刹の類いであり、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫であるなあ・・・。」



また、常日頃、何かをやろうとする時、「それは智者の振る舞いでは無いか。」「一向に念仏しておらんではないか。」という教えが、時に鋭く私の怠慢を突き刺して下さるようになっております。



この事を、スクールナーランダで打ち明けた時、一つ一つ気づいて調えていく事、という事で、お導きを頂いて帰って参りました。



仏教に救われながら、仏教によって苦を頂いている、という塩梅に御座ります。

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歩行瞑想中、脚の痛みに気づいて、オッケーとした時の出来事:気づきは突然に

こういうわけで、私は時に仏法によって苦を感じる事があり、お坊さん達や瞑想会、最近は近場の寺で開催されている仏教講座を頂きながら、行事続けておりまして。

苦を感じるという事は、私が全くもってできが悪いからであるなあ、と、時に自己牢獄にはまりそうになりながらも、何とか日々を過ごしておりました。



そんな最中のある日。



私は、冬の日、やたら冷える日に歩行名僧と念仏行脚をすべく、いつものように歩きに出かけたのです。

そして、私は霜焼けが出来やすいのか、しばらく歩いていると、脚の指先が痛くなり始めましてね。



ここで、脚の指先の痛みに不快感を憶えたとしても、「あ、今不快感を憶えた、オッケー。」と、プラユキ・ナラテボーさん直伝のオッケー歩行瞑想を行事続けていた時。



いや、ほんと、全くもって、突然ですよ、突然、「繋がった!」という、刑事7人の初期の頃の東山さんの決めぜりふ宜しく、「繋がった!」という気づきが御座りました。

苦を感じているという事は、仏法に照らして頂いていて、その事に気づく感性があるという事

私は、霜焼け気味の指先が痛みを生じていることに気づいたとき、「痛みを感じる、痛みに気づく」という事を思い、そこで、「繋がった!」と相成りました。

私が「繋がった!」と感じた事柄は、次のようなものです。



「苦を感じている、痛みを感じていると言うことは、無明なる凡夫である私を、仏法が照らして下さり、その事を感じ取っていることだと言えるのでは無かろうか?」



霜焼けの痛みが、この事に気づかせてくれた、照らしてくれたと言いましょうか。



例えば、何かがぶつかったり、痛みを伴う病に見舞われたとしましょう。

その場合、痛みが生じることによって、状態異常や何かがぶつかったという事を感知する事が出来ます。

それ故に、痛みを伴わない、自覚症状の無い病や怪我というのは、本人が気づく事ができないという厄介さがあるわけですね。

気づいたときには手遅れだった、というのは、気づいていたけど放置するという怠慢さが招くことと、自覚症状や痛みを感じない故の事があります。

今回の話は、後者に通ずる話です。



それを踏まえて。



私は、仏教・仏法、祖師方の教えを頂き続けてきたためか、時にその教えに照らされると、もの凄く眩しかったり、時には教えが突き刺さる事も御座います。

と、言いますか、常に教えに照らされております。

そうして、時には苦しくなることもあるのですが。



苦しいという事は、自身が至らぬという事であり、無明であり、そこに気付よと導いて下さっている事でもあり。

そして、その事への気づきこそ、「苦」や、苦しいと感じることで、もしも感じることが出来なければ、気づく事も御座いません。



「縁無き者は度し難し」とは言いますが、感じ取る感性が無ければ、縁あっても度し難し。



そんな事もある中、私は、時に教えが突き刺さる事によって確かに苦を感じることはあるけれど、確かに「あ、今教えが突き刺さった」というような事を感じることが出来てはおったんだなあ、と、思うに至りまして。

そうして、「ああ、そうか、教えが突き刺さる事、きちんと仏法が私を調えて下さろうとしている事を、感じ取る感性はあるのかな。」と、思うようになったのです。



それからというもの、「確かに苦しいときもあるか、きちんと苦を頂いていいんだ。苦をオッケーと受容していけば良いのかな。」という所に至っております。 (オッケーと受容していく、は、プラユキ・ナラテボーさんの受け売りです。)



今も「今やっているその事は、自分がええ格好したいという煩悩によるものではないか、ええ事してると思うなよ。」等々、色々と教えが突き刺さる事が御座ります。

しかし、そこに気づいてからは、それは「きちんと教えが届いて下さっている事でもある」と、そのように頂く事にもなってきました。



縁無き者は度し難いらしいのですが、私は、その縁を全くもって感じ取れない感性ではないのではなかろうか、と、そのような事を思う今日この頃に御座ります。

もちろん、これは私の慢の煩悩による錯覚かもしれませんが、しかし、教えが突き刺さっている感じている今は、少なくとも縁を頂いていると言えるのではなかろうか、そんな事を思うております。



合掌、礼拝

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