仏教サイコロジーの読書感想文|私自身が陥ったことのある話と共に

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



以前に少しだけ話したことがある、プラユキ・ナラテボーさんの本「仏教サイコロジー」を読み終えまして。






「仏教サイコロジー」は、曹洞宗の禅僧であられる藤田一照さんとの対談本です。

以前からお二人の対談本が出るという情報と出逢ってから、出版される日を楽しみにしておりまして、手に入れて読み終えることが出来ました。

ざぼんさんの愛らしいイラストも、ほのぼのと致します。



「仏教サイコロジー」には、私も陥った事がある坐禅・瞑想の副作用の話があったり、私も常々思うておって共感する話もあったり学ぶこと多々という内容でありました。

今回は、読書感想文と題しまして、私も陥った坐禅・瞑想の副作用の体験談を交えたり、私が共感し改めて学ぶに至った話をお伝え致します。



尚、毎度の話ではありますが、知的財産権・著作権の課題がありますから、引用は最小限に留めて話を進めます。

本の内容をあらすじ紹介的にお伝えする、ということも致しません。



ゆえに、私が「仏教サイコロジー」から素材を頂いて、それを私なりに調理した後の話を展開することとなりましょう。

「元の話を知りたい」という方は、本屋で確認して頂き、腰を据えて落ち着いて読みたいと思われたなら、購入して読み進められると宜しいかと存じます。

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仏教サイコロジーの最初の方での学び:逃避の手段にしない

「仏教サイコロジー」を読み進めて、最初の方で「あ、これは私も日々思うておったことだ」という話と、私の反省点と出逢う御縁がありまして。



「仏教サイコロジー」の22ページで、坐禅が日常生活からの逃避の手段になってしまうことについての記述が御座います。



欧州・米国辺りでは、このことを「スピリチュアル・バイパッシング(spiritual bypassing)」と言うそうな。

「スピリチュアル・バイパッシング」という言葉は、藤田一照さんと「仏教3.0」や「アップデートする仏教」等の共著本を出されている、山下良道さんも使われています。




また、先日、プラユキ・ナラテボーさんも紹介して下さっていました。





「スピリチュアル・バイパッシング」について、補足的にお伝えしておきますと。



「スピリチュアル・バイパッシング」とは、「自身の課題なり直面している問題から逃避するために、スピリチュアルな言説を利用する」ということです。

このことにつきましては、私は真宗・浄土真宗の御法話にて教わったことがあり、共感した話でもありますし、このブログでも何度か触れたことでもあります。



私は、お念仏を毎日称えておりますが、このお念仏を例にしてお伝えしますと。



例えばですね、誰かを傷つけたり何か悪いことをしてしまったりしたとしましょう。

友人と喧嘩して、相手が気にしていることについて暴言をのせてぶつけてしまった、とか、生きていれば起こりえることかと存じます。

そうした時、「ああ、悪いことしたな。でもお念仏すれば罪が消えるし、地獄は回避できる、どうせ阿弥陀仏が救ってくれるんだろ?ドンマイ!」と思うて、お念仏する、としたら。



いや、罪は消えませんし、やらかしたことの業縁は消えませんし、それは地獄回避ではなく現実逃避でありましょうに、と、私は思う次第であります。



自身のやらかしたことから逃げる言い訳に、お念仏を使うんじゃありません



あるいは、経済苦をお念仏で解消するとか、ね。

そりゃあ、お念仏して集中瞑想的な境地に至り、その智慧を仕事に生かして経済苦から脱する、という順路を辿ることは、絶対にナイトは言い切れませんし、あり得る話ではあります。

ただ、「お念仏した→札束が降ってきた」という直接的な作用は、ありますまい。

「経済苦を直視したくない!南無阿弥陀仏だ!」というのは、私にはお念仏に逃避している気が致しますが、如何なもんでしょう。



お念仏を例にしましたが、自己啓発的な言説であったり、甘ったるいスピリチュアルにはまる場合、往々にしてこのような「スピリチュアル・バイパッシング」に陥っておるということ、ありませんかな。

こういったことに陥らない注意の話という頂き方で、「仏教サイコロジー」の最初の辺りで頂いたことに御座います。

私も陥った、そして言葉足らずで言い放ってしまっておった反省点

ここで、実は私も陥ってしまったことであり、反省点がありまして。



私は上述したように、このブログでも、「瞑想や仏教の行為にゲインを求めぬようにせんと」と、現世利益的な作用を求めないようにすることを述べてきておりました。

しかし、これが行きすぎ過ぎると、例えば瞑想中に功徳的な何かと出逢ったり、進化・成長の糧となる出逢いがあっても、「いや、それは手放さねばならぬ、それも雑念だから」と、悪者扱いしかねません。



また、私としてはこの度合いが強いと、「瞑想による喜びやワクワクなどの心の動きそのものが沸いてくることはいけないことなのだ」と、力んで瞑想に挑むということに繋がるのではなかろうか、とも思うに至りまして。

構えを作って力んで瞑想とは、まさに、プラユキ・ナラテボーさんが伝えて下さる「オープンハート」の真逆なり。

この辺り、「仏教サイコロジー」の22ページで、プラユキ・ナラテボーさんが、喜びやワクワクを否定することについて、問いと警鐘となる話をして下さっています。



私はこの箇所を読んで、瞑想の功徳を否定する側におったのではなかろうか、否定するように仕向ける言い方になっていなかったか、と、己を省みて、戒めることとなりました。

肝要は、プラユキさんが仰る通り、「はまり込まず、かつ否定せず」ということではなかろうかと、私も思うこととなった次第に御座ります。

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私も陥った「慈悲の瞑想」をしたときの苦|「仏教サイコロジー」94ページの話

「仏教サイコロジー」を読み進めて、「あ、これは私も体験した事だ」と、思うた箇所が御座います。

それは、94ページの「慈悲の瞑想」の箇所です。



私が「慈悲の瞑想」について、副作用的な体験をしたというのは、スクール・ナーランダについて伝えしたときに触れたことがありましたね。



参照記事:「スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポに参加した感想体験談|お坊さんに導いて頂く」



私は、慈悲の瞑想、慈愍観を教わって、実際にやったことがありまして。

そのとき、自身が憎いと思うておる人々に対して、慈悲を持って「よきように」と観ずるところで、自身のどす黒さを垣間見るに至ったのです。

「ああ、私はこんなに多くの人を、しかもえげつないほどに憎んだり、不幸になれと思うておったのか」と思うておることを、観ることとなりました。



また、「やはり、やられたことは無かった事に出来ないし、許すまじ、と思うことはある」という真っ正直な自身の思い方も直視することになりまして。

とてもじゃありませんが、今の私が「私に危害を加えたあやつらも、どうか平安であらんかとを」というても、口先だけにしかならんのです。

「仏教サイコロジー」で、プラユキ・ナラテボーさんが仰る通り、「慈悲の言葉を唱えても、心が全然ついていかない」という状態です。

本心では「あやつらに不幸なことがあったら、ざまあぷぎゃー」と思うてしまおうだろうなあ、という、慈悲とは真逆の状態。



そういう自身に気づいて、自己嫌悪を抱くこともあったものです。



私の場合、プラユキ・ナラテボーさんから、チャルーン・サティ、手動瞑想など気づきの瞑想や、お念仏に帰るという智慧を頂いていたから、苦しむことがあっても、どこかの段階で気づいて戻ることは出来ました。

ただ、プラユキさんが仰るように、慈悲の瞑想が苦手な人がいるのは、確かにそうだなあ、と、共感したことに御座います。

少なくとも、慈悲の瞑想に触れたばかりの私がそうですし。



ゆえに、慈悲の瞑想をして、苦しくなったり、私が体験したような副作用的な感じを観たとしても、自身を卑下することは無かろうかと存じます。

その慈悲の瞑想とは相性が芳しくなかった、というだけかもしれませんから、違う種類の瞑想を、瞑想指導をきちんと出来る師のもとで、瞑想をしてみて、相性のよろしい瞑想を、定期的に師のもとで点検しながら、続けられると宜しいかと存じます。

努力に振り切れるのではなく、受容に振り切れるのでもなく|中道を動的に

「仏教サイコロジー」で頂いた話は色々ありますが、あまり長すぎても消化不良になりかねませんから、次の話を、今回の読書感想文における最後の話と致します。



「仏教サイコロジー」の287ページを読んで、これはこの記事でも最初にお伝えした22ページの話とも繋がり、また、陥る人も結構いらっしゃるのではなかろうか、と思うたことがありまして。

特に、「ありのまま教」といいますか、やたらと「ありのままでいいんだ」「そのままのあなたでいいんだよ」ということを真に受ける場面で見受けられる話です。



少し前までは、モーレツ系統と言いましょうか、努力至上主義的な在り方のカウンターとも思える、「ありのままでOK」ということを人々に唱える教祖的な人もいます。

スピリチュアルだの、自己啓発系の主催者におりますね、そういうの。



まあ、それ自体が全て悪だとは言わないまでも、あまりにも「ありのままでよろしい」と言い過ぎていることはなかろうか、と、思うところが御座います。

むしろ、「いや、おたくはありのままじゃだめでしょうが、無明のまま突っ走ってますぞ」という人に、逃避させて地に足を着かせぬために、ありのまま、を吹き込んでいるとか。

そりゃあ、詐欺をしたり財をだまし取るには、浮き足立たせた方がやりやすいのでしょうからねえ。



確かに、あることをあるままに受容することは大切ですし、変えられぬことを無理矢理変えようとしてつぶれないようにする智慧にもなりましょう。

プラユキ・ナラテボーさんも、受容力の大切さを説いてはいらっしゃいます。

しかし、プラユキさんの瞑想会に何度か趣いて、きちんと直接教わっている人でしたら、受容一辺倒でよいとされていないことも、教わっているかと存じます。



そのことをについて、「仏教サイコロジー」の287ページに記して下さっています。

ここだけ、引用させて頂きます。


だから、「最初は、ちゃんと努力しよう」とみなさんに言っています。

自分の力でどうにもならない、ふっと湧いてくるものについては受け入れて、自分でできることはできるだけきちんと努力してやっていく。



その後、藤田一照さんも、「変えられることと変えられないことをきちんと区別し、努力一本やりでもなく、受容一本やりでもない」と、付け加えて下さっています。

怠ける言い訳としての「ありのまま」にあらず

この話を聞いて、プラユキ・ナラテボーさんが以前に教えて下さった、アーチャン・チャー師の話を、再度思い出しました。

「悟らなくたって、いいじゃないか」にて、プラユキ・ナラテボーさんは、アーチャン・チャー師が伝えて下さったという「牛のサマーディ」の話をして下さっています。





瞑想して、物事をあるがままに受け入れられるようになったという比丘が、雨の日の雨漏りも気にならなくなったと直さないでいたら、それを観たアーチャン・チャー師が「それは牛のサマーディだよ」と、諭した話です。

為すべき事を為さぬための言い訳としての「受容、あるがままを受け入れる」ということ、やらかしていないか、再度自身に問うことに御座います。



努力一辺倒ではつぶれてしまう。

しかし、受容一辺倒でも現実離れ、逃避してしまったり、言い訳の材料とかしてしまうことにも繋がりかねない。

努力だけでは無く、かといって受容だけでも無く、この間を動的な中道にて行じていく、という在りようが、肝要なのではなかろうか、そのように頂いた事に御座います。



と、偉そうに申し上げておる私ではありますが、私のような凡夫こそ、陥らぬように戒めねば、自戒なり、自戒なり。


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「仏教サイコロジー」、ざぼんさんの絵、よろしゅおす

今回は、「仏教サイコロジー」を読み終えて、読書感想文と題して、私の実体験も交えながらお伝え致しました。

「仏教サイコロジー」からは、このほかにも色々と教えを頂いており、もっとあるのですが、あまりに長くなりすぎても、と思うところがありまして、今回はこの辺りにしておきます。



私は、対談本を結構好む傾向にあり、プラユキ・ナラテボーさんと藤田一照さんの本を、何冊か読んできているということもあり、結構すーっと読み進めることができました。

この辺り、編集者の手腕と、伝わりやすい形でお二方が話を展開して下さったのでるかなあ、と、思うたことに御座います。

それでも、これまで知らなかった言葉もあり、調べながらでしたから、休日に一気に読む日もあったのですが、何日かかかりました。



また、Twitterで御縁のある、ざぼんさんの絵も、愛らしくてよろしゅおす、と思うた次第で御座います。



これを書いている時期は、浄土宗では十夜法要の時期であり、仏事が重なって、なかなかプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に行く機会を頂けておりません。

また行こうと思うておりまして、そこで御縁在りましたら、嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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