御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
以前、「だから仏教は面白い!」は、面白いという話をしたことが御座います。
「だから仏教は面白い!」は、ニー仏さんこと、魚川祐司さんの著書でありまして、「仏教思想のゼロポイント」という彼の処女作と言われている本よりも後に書かれた本です。
私は、魚川祐司さんの本は、「悟らなくたって、いいじゃないか」を最初に読み、更にプラユキ・ナラテボーさんとの同志社大学での対談講座を受講してから、「だから仏教は面白い!」を手に取りました。
そして、その後に魚川祐司さんの最初の本「仏教思想のゼロポイント」を読んだわけですから、出版順とは逆の順序で触れているわけですね。
ちなみに、現在は「自由への旅」を、読み進めております。
「仏教思想のゼロポイント」を読んで、改めて魚川祐司さんの洞察の深さ・洞察力と、博識な部分を垣間見たものです。
私ごとき頭の宜しくない凡夫が、偉そうに評価出来る事ではありませんが、彼に対して洞察の深さと博学なところ、そして、知識や物事を理解する事に対する姿勢や、物事を伝える事への誠実さも、垣間見たものです。
そして、「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」を読んで、感じた事、学ばせて頂いた事も色々と御座います。
今回は、書評という大それた事では御座いませんが、私が二冊の本から学ばせて頂いた事を、お伝え致します。
これから読む人であったり、仏教に興味を抱かれた人にとっては、指標となるかと存じます。
Contents
「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」は2冊1セットで読むべし
私は、「だから仏教は面白い!」と、今回「仏教思想のゼロポイント」を読む御縁を頂いただけですが。結論から申し上げますと「この2冊は両方とも読むべし」と思うた次第であります。
いや、「読むべし読むべし」と、偉そうに命令口調で言うのは、傲慢でしたね、申し訳ありません。
でも、二冊一セットで読む方が理解も深まりますし、誤解も無く読めるのではないかというのが、率直な読後感想です。
そして、順序としては、私が読んだ順序のように「だから仏教は面白い!」から「仏教思想のゼロポイント」という方向が宜しいことでありましょう。
このことについては、魚川祐司さんご自身が、「だから仏教は面白い!」の冒頭にて、きちんと明言して下さっています。
魚川さんは冒頭にて、このように仰っています。
「仏教思想のゼロポイント」が学校から出発する遠足であるとするならば、「だから仏教は面白い!」は、家から学校に向かう通学路の役割を果たすもので、
※「だから仏教は面白い!」4ページ参照
「だから仏教は面白い!」は、「入門のための入門書」という役割が御座います。
そのために、この二冊は重複する部分が多々御座います。
例えば、二冊とも最初の方で、仏教を理解する上で、誤魔化してはならないことが書かれています。
また、「ゴータマ・ブッダの言う「世界」とは何か」なども、両方の本で解説されています。
重複する部分は御座いますが、だからこそ、二冊をきちんと読む事によって、違った表現で同じ事柄を学ぶ事が出来ますから、知識を定着させることにも繋がり、また、理解も深まる事となりましょう。
私は「だから仏教は面白い!」を先に読んでおいたおかげで、「仏教思想のゼロポイント」を読む際、順序や方向性について、予習してから読む事が出来た、という感覚を持っております。
通学路を歩きながら、これから向かうところをきちんと伝えて頂いた上で、いざ門を開けた後も、方向性を見失うことなく、読み進め学ぶ事が出来た、という印象です。
このような経験から、私は「だから仏教は面白い!」を読んでから、「仏教思想のゼロポイント」を読むという順序で、二冊を一セットとして読まれると宜しいかと申し上げます。
「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」から学ぶ事
「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」で、テーラーワーダ仏教や日本仏教等を問わず、これから仏教を学ぶ人であったり、仏教に触れる人の入門書として有り難いと、私は頂いております。これについては、色々と反論も出そうなことではありましょうが、少なくとも、私はそのような頂き方をしております、と注意書きしておきます。
現存する仏教の入門書は色々とありますけれども、何故私が表題に上げている魚川祐司さんの二冊の本が、入門書として良書だと位置づけているのか。
一つには、「仏教のヤバさについて、誤魔化さずに伝えられている事」に由来します。
仏教に限らず、世の中の物事は、商い・ビジネスにおいてもよく見られますが、誰かに手にとって貰ったり、興味を持って頂こうとすると、良い点ばかりをアピールする傾向にあります。
それを間違いだとは言いませんし、むしろ布教であったり、良き物を広める上では、欠かせない事で御座いましょう。
しかし、良い事ばかり宣って、注意すべき事については口ごもったり誤魔化したり、伝えるにしても申し訳程度にしか伝えないというのは、私は不誠実だと思いますがね。
特に、私が自覚的にもの申し上げている、なんちゃらコンサルタントのセールスレターは、実に酷い。
綺語を並べ立てて、手にしてみたら悪臭放ちまくるゴミ屑だった、なんてことが多々あり、消費者相談センターだとか弁護士やしかるべき機関が動くという始末です。
それを踏まえた上で。
仏教は、魚川祐司さんだけでなく、釈徹宗さんも「お世話され上手」で伝えられている通り、ヤバさや怖さも御座います。
どうヤバいのかは、魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」を読んで頂ければ、最初の方で把握する事が出来ましょう。
そもそもとして、ゴータマ・ブッダの教えは、現代の日本社会からしたら、「なんてやつだ」と思うような方向性を持っております。
このことについては、私も大学の授業で仏教学を習っていた頃に思いましたからね。
例えば、少なくとも現代社会における父親像としては、ゴーダマ・ブッダは父親失格のレッテルを貼られかねません。
だって、ゴーダマ・ブッダの息子は「ラーフラ(ラゴラ)」といいますが、意味は「さまたげ」ですからね。
更に、子供が生まれて直ぐに、妻子を残して出家してます。
妻にしてみれば「ちょっと冗談じゃないわよ!」ってなもんでありましょう。
私も、大学の仏教学の授業で、なぜ息子をそう名付けたのかという理由も先生から聞きはしましたが、「言いたいことはわからんでもないが、それにしたって」と思うたくらいです。
でも、仏教の方向性は、二冊の本で魚川祐司さんが書かれている通り、そういう方向性があります。
「異性と目を合わせないニートになるべし」とは、簡潔かつ上手い表現だなあ、と頂いたものです。
余談ではありますが、これを踏まえると、釈尊・ゴーダマブッダは、御連れ合いさんとはラーフラ以外にお子さんはおらんかったでしょうな。
ゆえに、少子化が問題であるという価値観の中においては、ごちゃごちゃ言われそうな気もします。
これらは一例ではありますが、仏教は、社会通念が簡単にひっくり返る体系を有しております。
釈徹宗さんが「仏教を原液のまま飲んだら、日常がやすやすと壊れてしまう」と仰るのも、頷けます。
そういう仏教のヤバいところや、誤魔化してはいけない部分を、きちんと伝えられている事に、私は有り難さと、物事を伝える事の誠実さというお味わいを頂いたわけで御座います。
二冊とも大乗仏教批判の書と読まれたり批判されるらしい
「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」は、一部の人達からは「大乗仏教批判だ」と言われると、プラユキ・ナラテボーさんとの対談講座で、魚川祐司さんご本人が話をされた事があります。どうしてそのような批判をされているかは、魚川祐司さんがプラユキ・ナラテボーさんとの共著「悟らなくたって、いいじゃないか」で、伝えられています。
批判の原因の一つが、「同じではない=批判」という認識です。
これ、確かについついやってしまいがちかも、と、私も反省するところで御座います。
よくあるのが「私はあなたとは違う」というフレーズ。
確かに、相手を批判するときに使われる台詞ではありますけれども、この言い回しが、常に批判のために使われるフレーズだと認識するのは、早計であろうかと存じます。
私もこのようなフレーズを発したら、何故か「批判するな」的な事を言われたことがあります。
しかし、「同じではない・それとは違う=批判」というのは、あまりにも短絡でありましょう。
それと、多分これは言葉の印象によるものであろうと勝手に推測しておりますが、「この部分を読んで、大乗仏教批判の書だと言いたいのかな?」と、思う箇所が御座いました。
それは、「仏教思想のゼロポイント」の188ページにあります「「大乗」の奇妙さ」です。
この後の方で「理解出来なかった」という表現も用いられておりますが、「奇妙」や「理解出来ない」という言葉を、直ちに批判していると結び付けていたとしたら、これまた早計でありましょう。
「深読み・洞察」と「的外れであったり、全く違う読み方による解釈」かは、きちんと精査する必要があるかと存じます。
(もっとも、私も人の事言えませんがね。ゆえに、誤読しまくっているんじゃなかろうか、という自覚を常に持っております。今回の話も、誤読による勝手な妄想ではないか、と、内心ビクビクしているくらいですし。)
これは「奇妙な人」と言われると、何となく変な人と揶揄されているように感じる、語感・ニュアンスに引っ張られての事もあろうかと、私は推察致しました。
推察と言いますか、単なる私の手前勝手な憶測に過ぎませんが、可能性としてはゼロではないかと存じます。
ただ、そのように陥らないために、魚川祐司さんは二冊共に、ところどころで、そして後書きでも「正しい仏教や間違った仏教を断定しようとしているのではない」と、明記されています。
具体的には、「仏教は面白い!」の100ページと、「あとがき」に、きちんと書かれております。
そもそも、「大乗の奇妙さ」の項目にも、きちんとこう書いてあるのですがね、直ぐの箇所ですよ。
このような法華経の説が、「無価値」であるとか「間違っている」といった判断を、私はしたいわけではない、そうではなくて、私がわからなかったのは(後略)
※「仏教思想のゼロポイント」189ページより
もしかしたら、二冊の本に対する批判は、「まず文字を読みなさい」で、事足りる事であると言うことも、なきにしもあらずかな、と考えるのは、私の邪見・邪推でありましょうかね。
「仏教思想のゼロポイント」も「だから仏教は面白い!」を、こんな読み方で大乗仏教批判の書と読んでいたら要注意!
ここからの話は、少し余談的な事をば。「仏教思想のゼロポイント」と「だから仏教は面白い!」について、こんな読み方をして、大乗仏教批判の書だと断定しているなら、一度自己を顧みられてはどうかと言いたくなる話です。
「だから仏教は面白い!」では、「仏教思想のゼロポイント」よりも軟らかい表現や譬え話を使われているから、私は読みやすいと感じております。
また、譬え方も、蝉丸Pさんの「つれづれ仏教講座」の色を感じる部分が御座います。
その部分とは、大乗仏教や大乗仏教経典を「同人誌」にたとえて、解説されているところです。
そして、ここで「崇高な大乗仏教を、神聖な大乗仏教経典を同人誌扱いするとは、実に怪しからん!」として、大乗仏教批判の書と読んでしまっていたら、要注意。
そういう読み方や解釈をしているならば、今回の話に限らず、本の読み方や人の話の聞き方それ自体を、一度問い直すべきです。
こ私の勝手な憶測ですが、こういう読み方をしている人って、こんな短絡的な行き着き方をしていませんかね。
同人誌って、現代社会においては、何となくいかがわしい本だとか、そういうイメージを持っていませんか?
同人誌=夏と冬の同人誌行事で、3日目に並べられる、年齢制限がかかっているジャンルの本のこと、というイメージです。
このことを踏まえると。
「同人誌はいかがわしい→大乗仏教経典を同人誌で例えている→だから大乗仏教批判をしている」
これ、昔読んだパオロ・マッツァリーノさんの本にあった少子化の論法みたいですね。
「ローマ帝国は少子化で滅亡した→日本は少子化時代→だから日本は滅亡すると言う事だ!」「な、なんだってー!」
いやはや、なんでしょう、「無明三段論法」とでも名付けましょうか、サガシリーズの連携技みたいで格好良い、わけありませんな。(無明剣と三段突きと、論法はどうしましょう?)
まあ、いらっしゃらないとは思いたいのですが、今話しました論法で、魚川祐司さんの著書を大乗仏教批判の書を読んだり位置づけられているならば、今一度その事を問い直す事を提言致します。
そもそもとして、まずは同人誌に対する先入観から、問い直すべきでありましょうし。
私の勝手な空想でしかないとは思いますがね。

「だから仏教は面白い!」を読んでから「仏教思想のゼロポイント」がスムーズな読み方
今回話題にしました本は、「だから仏教は面白い!」を読まれてから、「仏教思想のゼロポイント」に進まれると、スムーズかと存じます。
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私は二冊とも読ませて頂いたところ、やはり「だから仏教は面白い!」から「仏教思想のゼロポイント」という流れで読んだ方が、理解する上でもスムーズに読み進められるだろうと感じました。
この二冊から学ばせて頂いた事は、他にも色々と御座います。
今回話した以外にも、「問う事・問い方」についても、「無記相応」の話で、改めて考えさせられましたからね。
これは私も常々反省するところでありますが、私は結構とんちんかんな問いを発してしまったり、質問の仕方が下手だと思える事が、しばしば御座いまして。
また、仏教学を学んできてはおりますが、その復習としても読めましたし、特に「だから仏教は面白い!」は、読み物としても面白かったものです。
それにつきましては、個別にお伝えした事も有りますから、そちらを参照して頂ければと存じます。
参照記事:「「だから仏教は面白い!(魚川祐司さん著)」は面白い。」
後、関連として、「悟らなくたって、いいじゃないか」も、お伝えしておりますから、併せてお読み頂くことで、更に仏教のヤバさに飲み込まない智慧も育めるかと思います。
参照記事:「「悟らなくたって、いいじゃないか」という本は、コンサルタントや教育者の必読書」
「悟らなくたって、いいじゃないか」の副題は「普通の人のための仏教・瞑想入門」です。
今回の表題・記事タイトルの二冊に併せて、読んでおかれると、より宜しいかと存じます。
合掌、礼拝