コミュニティ(会社や組織)を否定されたら、無自覚に怒ったり不機嫌まき散らしてませんか?

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。

あなたは、会社や地域活動など、何らかの組織であったりコミュニティ(小社会)に属していませんか。
家族もコミュニティと言えますし、人は娑婆世界で生きる上では、何らかのコミュニティに属していると思われます。

典型的なコミュニティと言えば、少年野球チームやサッカーチームなどが、ぱっと思いつくコミュニティであるかと存じます。

会社でしたら、会社の中で更にチームに細分化されて、大組織内に小組織がチームという呼び名で集まっている、ということもしばしば御座いましょう。



実は、このコミュニティ、会社や組織などについて、昔から何となく思うていた事が御座いましてね。

その事について、改めて考えるきっかけを頂きまして、今回の話をすることに到りました。



コミュニティ、なんらかの組織にどっぷり浸りすぎていたり、無自覚に属していて、それに流されている人にとっては、目覚めの話となりましょう。

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コミュニティやチームが馬鹿にされたり負けた時の嫌な思い出

今回の話をしようと思いましたきっかけは、以前にお話しした事が御座います、やまもとりゅうけんさんの記事に御座います。

やまもとりゅうけんさんについては、こちらを参照されたし。

参照記事:「やまもとりゅうけんさんのnote(月額500円マガジン)に学ぶ|特にこの記事を読むべき」



私は、「経済・ビジネスはアクセル、宗教・仏教はブレーキ」という頂き方をしておりましてね、現在はアクセルとして、やまもとりゅうけんさんの記事なりnoteを活用させて頂いております。

そして、今回の話のきっかけとなった記事はこちらです、読み終えてから、戻ってきて下さいまし。

やまもとさんの参照記事:「組織のために感情的になれる人って今までどんな訓練受けてきたの?」



はい、おかえりやす。



私は、やまもとりゅうけんさんの参照記事を拝読致しまして、似たような部分があるなあ、と感じたものです。



私も、自分が所属している組織であったり、家族が馬鹿にされたり揶揄されたり、悪口を言われることがありました。

また、やりたくもないのに地域のソフトボール大会にも出されたりしておりましてね。

学校の体育では、ハンドボールやサッカーの授業で、何故かキーパーをやらされて、失敗したら怒られる、という事が繰り返されておりました。



特にサッカーは酷かった。



あなたが学生時代に、こんなやついませんでした?特にサッカー部連中に。

こっちは素人なのに、サッカー部はやたらフォワードとか攻める役ばかりで目立とうとして、守りは素人にやらせて、点を入れられたら、素人にやたら怒る奴。

私は、そういううざいサッカー部の連中に殴られた事もあります。



一時は、そういう経験があったために、団体競技、特にサッカーが大嫌いでした。

この背景が、私が個人競技に分類されるであろう運動競技、ボクシングや陸上競技と相性が良かった所以かもしれません。

まあ、ボクシングはセコンドとのチームワークがありますから、一概には言えませんがね、経験者かく語りき。



ちなみに、今は仏法により、嫌な事とサッカーを結び付ける認知を辞め、嫌になる物語を紡がなくなったから、テレビ観戦できるくらいにはなりましたがね。



私は、こういう団体競技や勝負事、運動会などで、やたら自分の所属するチームが「勝たなければならない」という空気になる事が、ようわかりませんでし、何より嫌でした。

なんでそんなに必死になるんだろう、こっちまで巻き込まないで頂戴、という立ち位置でありましてね。



このような認知の癖ゆえに、やまもとりゅうけんさんの記事にあるように、自分が所属するコミュニティをバカにされたり揶揄されたり、否定されても、私は大して動じない性質であります。



そりゃあね、家族があまりにも馬鹿にされたら、多少は「む。」とくらいはします。

でも私、所属する組織が馬鹿にされても、「ああ、言われちゃったなあ。」くらいにしか思わずに、特に反論もせず、怒る事もありませんでした。

大学が馬鹿にされても、「ふーん。」くらいにしか思いませんでしたし。



そういう性質もありまして、やまもとりゅうけんさんの記事中にある「自分が所属する組織をdisられたら腹を立てる人」は意味不明、という部分に、共感するところが御座います。

所属組織・コミュニティが馬鹿にされたり勝負事に負けたら、悔しがらないと行けないという風潮

やまもとりゅうけんさんの記事にて、私も同じような事を感じておる言説が御座います。




僕はサッカーというチームスポーツをやってたんですが、(中略)自分さえ活躍できてたらチームが負けても全然満足。

だけど、負けて涼しい顔してたら「お前は反省してないのか!」とか言われて走らされたりするので、とりあえず悔しがるフリをするわけです。

いやもうね、何でみんな本気で地団駄とか踏めるのか不思議で仕方なかったですよ。なぜそこまで情熱的になれるのか。

※やまもとさんの「組織のために感情的になれる人って今までどんな訓練受けてきたの?」より引用



いや、ね、ほんとこれ。

私は、負けたのに悔しがらないといけないというあの風潮と言いますか、独特の空気感は、私には気持ち悪かったし、嫌で嫌で仕方有りませんでした。

特に、上級生であったり傲慢な輩がいると、これを押しつけられます。

反発したら殴られるし、合わせるしかない。



人情としては、感情的になることはわからんでもありません。

でも、負けた後の涼しい顔が「あの場面ではあの動きをすれば良かった、だから今後の練習は対策としてこのようなメニューにして云々」と、次の事をきちんと考えている顔であるとか、想像出来ないものですかね。

それに、この涼しい顔をしている人の姿こそが、何よりも次に繋がる反省をきちんとしている姿だと思いますがね。

感情的にならず、冷静にきちんと次に繋がる事を考えてくれている存在は、大好きなコミュニティの未来に繋がるでしょうに。



意味不明な精神論的反省だけを押しつけている連中は、まさに想像力の欠如なり。



物事に真剣に取り組むことは、私も否定致しません。

それはそれで、情熱的かつ真剣にチームプレイであったり団体競技に取り組む事は、克己にも繋がりましょう。

プロスポーツの世界においては、それが観ている人の感動を喚起する事にも繋がるでしょうからね。



ただ、何故か「負けたら組織のために悔しがる姿であるべきだ」という風潮があり、それが正しい事であるという位置づけがなされ、盲信されすぎてやいませんかね。

そんな事は勘弁願いたい私にとっては、うざったいし迷惑千万なだけで御座います。



悔しがるのは大いに結構、ただし、そこからくる不機嫌さや怒り等、負の感情をまき散らして、こちらを巻き込まないで頂きたいものです。



こういう風潮に無自覚に流されて、周囲にも強要するような輩は、某組織のデーモン十則を有り難がって盲信して、大切な仲間であるはずの仲間の命を平気で奪うので御座いましょう。

組織やコミュニティは、人の集まりで構成されているという構造が全く見えず、構成員の命はないがしろとは、これいかに。

所属コミュニティやチームが大好きで、好き過ぎてたまらない割りには、そのコミュニティの構成員である仲間の命は全く見えないという、意味不明な現象ですな。

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所属組織やコミュニティを馬鹿にされたり否定されて、無自覚にやたら怒るのは幼稚さが垣間見られる

所属組織やコミュニティ、自分が勤めている会社を馬鹿にされたり、チームを否定されたりすると、怒る人が多いのではないかと存じます。

それが人情でありましょうし、私だって、あまりにも家族を否定されたり馬鹿にされると、「む。」とくらいはします。

それ自体は、現代社会で生きてきたゆえの現象でありましょうし、無下には否定致しません。



ただ、あまりにもヒステリックに、しかもそれが無自覚な反射という形で出てしまう人に対しては、私はものごっつ警戒致します。

そしてこの現象は、自分が好きな物事を否定されると、必死こいて弁解したり、時にはめちゃくちゃ怒ってこちらを論破しようとしてくる輩と共通する土台があるだろうと、私は観ております。

大好きなアニメーション作品とか、ね。



その逆で、頼みもしないのに、こちらに対して自分が好きな事柄や商品をやたら勧めてくる輩とも、似ています。

あなたの友人にもいませんか、興味が無いのに、「この映画めっちゃオススメ、是非見て、いや、絶対観ろ!」とかいう人。

その行為が、こちらの貴重な人生の時間を、頼んでもいないのに勝手に勧めてくるその物事のために割くことになるということまで、想像力が及んでいないという憐れな姿を晒しているとも知らずに。



このような理由から、娑婆世界の視点から観ても、組織やコミュニティを馬鹿にされたり否定された事に対して、感情論だけで更なる否定で応戦してきたり、その在り方を強要してくる輩は、幼稚に見えます。

そして、宗教的な視点から観ると、こういう輩は「狂信者の怖さ」が垣間見られるのです。

所属コミュニティや組織を否定されて感情的になる輩の幼稚で狂信的な怖さ

所属コミュニティや、自分が属する組織を否定されて、それに対して過剰とも思える反応を示す輩が、なぜ幼稚であり、狂信者が見せる怖さがあるのか。



例えば、自分が勤める会社の悪口を言われたとしましょう。

「お前の会社の製品はくずだ。」とか、「会社そのものがくずだ。」とか「おたくのところの社長はゴミだ。」とか、そんな感じで。

恐らく、大半は条件反射的に、「な、なにをー!」と、感情的になるのではないかと思われます。

上で紹介致しました、やまもとりゅうけんさんの記事にある「組織を否定されると自分も否定されたような気分になって怒る」という状態です。

私も、もしかしたら多少は「む。」とか思うかも、といったところです。



確かに、「クソリプ的な批判や否定」によって、自分が所属している会社やコミュニティが悪く言われると、人情としては気分が宜しくありません。

しかし、智慧のある者でしたら、その問いに一度は足を止めてみるものです。



もしも、その「一歩立ち止まる」に到らず、「俺の所属するコミュニティを批判する奴は悪だ、バカだ」と、感情的かつ盲目的に反射してしまうのは、すでに「コミュニティに属する者が持ってしまう毒」に、毒されている可能性が御座います。



この「コミュニティに属する者が持ってしまう毒」に浸りすぎて、その人が毒そのものにまでなってしまっている者を、「狂信者」と呼びます。



狂信者の怖さについては、某宗教団体が反社会的な活動をした事例からも、ご理解頂けるかと存じます。

信仰の押しつけを正当化して、人命を奪うという行為をやらかしたところ、ありましたね。



「まさか、会社と宗教団体とは違うよ」と、軽く考えているあなた、そりゃ甘っちょろい。

チームが負けたり、会社やコミュニティが否定されて、その事に無自覚な状態で感情的になってワーワー言うている状態は、そのような暴走をしてしまう危険が孕んでおるのですよ。



このような状態になる背景には、所属する組織への執着があるのです。

自分が所属するコミュニティなり組織に、愛着が湧くのはわかります。

そりゃあね、長年所属している組織に、なんとなく愛着が湧くというのは、あるでしょうからね。



ただ、それが盲目的な執着になってしまうと、それが「絶対的に正しい」という錯覚に変わってしまいかねません。

その錯覚を錯覚と正見出来なくなり、ついには毒々しい組織の狂信者となってしまうのです。



所属コミュニティや組織を否定されて感情的になる輩の厄介な「狂信者」の怖さ

狂信者の怖さの一つに、「盲目的に、所属している組織やコミュニティの価値観が絶対的に正しいと錯覚し、それを周囲にまき散らし、巻き込む」というものがあります。



例えばの話をします。

例えばの話ですからね、私は以下のような思考は採用しておりませんから。



例えば、私が「人は消滅すれば即往生が約束されている」という架空の宗教団体に所属していて、それを盲信していたとしましょう。

そして、「だから、消滅させてあげる私は優しい!」なんて錯覚して、それを強要するとなると、どうなると思います?

例の、某宗教団体が、地下鉄でやった事をやってしまいかねない危険思想だ、と思いませんか。

そこから更に調子に乗って、自分は「架空の宗教団体に貢献した、素晴らしい存在であーる!」なんて、ますます狂った信者になってしまう可能性も大いにあります。



社会的にも宗教的にも、仏法を通して観ても、こんな事は悪業ですわな。

これを、会社組織やコミュニティの例え話に変換すると、こういう事になります。



「うちの会社も、製品も素晴らしい、この素晴らしさが分からない奴はバカだ、だから俺がそのバカ共を救ってやるんだ、押し売りだウェイ!」



迷惑千万甚だしい。



しかし、所属しているコミュニティ・組織に染まりすぎて、それが絶対的な正義にまでなってしまっている狂信者は、このような変貌を遂げる可能性があります。

そうならぬように、所属している会社であったりコミュニティであったり、組織との適切な距離感を、保っておきたいものです。



もちろん、愛着が湧いたり、悪口を言われたり否定されたら、ちょっとは「む。」とするくらいは、人情でありましょう。

しかし、そこから行き過ぎてしまっているならば、一度距離感を問い直す事が肝要ではないかと存じます。



言いぐさはともかくとして、「お前の会社はくずだ。」「お前のとこの社長はダメだ」とか、そういう悪口や否定的な言葉は、自分と組織の距離感を量るためのリトマス試験紙に使えます。

最後に、私が仏教の悪口を言われたり、面と向かって否定されると・・・

偉そうに語ってきましたが、最後に「だったら、修羅観音よ、貴様はどうなのだ?」という問いに対して、ここできっちり返答しておきましょう。

あくまで、現段階における私の到達点として、お読み下さればと思います。

私も無常なるナマモノですからね、3日後、いや、刹那後には変容している可能性はありますから。



私は、仏教者、特に念仏者としての自覚が御座います。

それゆえに、私に対して「仏教なんて役に立たない!必要ない必要無い!」「釈迦は別にえらくもなんともないもんね。」と、言われたとしましょう。



それに対して、私はどうするか。



私の場合は、「この人には、仏教も宗教も、現段階では必要無いのかもしれない。」と推察するだけです。

後は、「ああ、そう。」としか言えません。

仏教や宗派、仏教を前提とした組織やコミュニティを否定されても、私には「ああ、そう。」としか言いようがありません。



だって、仏教や釈尊(ゴータマ・ブッダ)を否定されても、ねえ。

「ああ、否定されているなあ。」くらいにしか思いません。



それに、これは上で申し上げました、所属する組織なりコミュニティを盲信している状態の幼稚さにも関係する事なのですがね、私は何事においても、このように観るようにしております。



「何事にも、どこかに穴があるだろうし、どんなに言語化しても、どこかで言い損なっている」



どんなに完璧と見える組織、会社、コミュニティも、どこかしら突っ込み所が御座いましょう。

また、言葉によって分節したり表現したところで、どこかでなにかしら言い損なっているものが言葉である、と私は頂いております。



例えば、禅語に「不立文字(ふりゅうもんじ)」があります。

これは「大切な事は、言葉に出来ない、文字に出来ない」という事を教えて下さる禅語です。

でも、よくよく観れば「不立文字って、言葉になってるじゃん。」という話になりますがな。

言語化した時点で、すでに言い損なっているとも言える典型でありましょう。



「不立文字」という禅語の存在や有り難さを否定しているわけではありませんからね、言語の限界や原理を、「不立文字」が教えてくれているということです。



この「どこかで必ず言い損なったり、突っ込み所や穴がある。」という事は、人が創り出す組織であったりコミュニティにも、言える事であろうかと存じます。

その洞察なく、「俺の所属する素晴らしいコミュニティを批判するとは実に怪しからん!」とかいっちゃっている輩は、幼稚であるということは、この理由に由来します。



所属する組織・コミュニティの素晴らしさだけに執着して、到らぬ所から目を背けて、感情的にギャーギャー騒ぎ立てる事の、如何に幼稚な事か。



それよりも、組織に対する否定の内容を、問いとして頂き直し、その上でもう一方考察してみては如何でしょうかね。



単なる、いわゆる「クソリプ的な否定」であれば、受け取らねば良し。

建設的な意見であるならば、組織を顧みて、調えるきっかけとすれば良し。



今回の話で、会社なり倶楽部なり学校なり、組織やコミュニティに所属していて、そのコミュニティの価値観に浸りすぎているという自覚が芽生えましたら、組織と己を問い直すと宜しいかと存じます。

あなたが、組織と適切な距離を保ちつつ、意識的にどっぷり浸ったり、遠ざかったり出来る智慧がつく一助となりましたら、嬉しゅう御座います。



最後に、問い直すための現実的な問いを一つ。



あなたの所属しているコミュニティや組織が、消滅したら、どうなるのでしょう。

また、否定された事に怒り狂う程に心酔しているその組織やコミュニティが、悪業を為して社会的に「所属していた輩=悪もしくは恥」なんてレッテルを貼られたら、どうでしょうかね。

娑婆世界は諸行無常、往々にして組織の消滅は起こり得る事です。



もしもコミュニティに身も心も浸りすぎていたら、コミュニティや組織が消滅したり悪を為した途端に、あなたは空っぽになってしまいますよ。



そうならぬように、今一度、所属組織との距離感を問うて観る事を提唱致します。



合掌、礼拝

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