御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
あなたは、指導的立場にある時、「あえて言わない、あえて答えを教えないのは相手のためだ」という方針で、後輩や部下の指導に当たっているでしょうか。
世の中のビジネス書なり自己啓発本には、「相手のために、あえて言わない事」「あえて答えを教えない」という言説が書かれております。
それは「考える力を育むため」と言うのが、一般的な目的です。
私は、「答えをあっさり教えても、考える力を育む方法はあるのになあ。」と思いますし、その方法も知っておるために、こういう言説とは距離を置いております。
そもそも、もしもこれを、機会工具店時代にやらかしていたら、お客様は離れていきますからね。
そういう経験もありまして、私は「あえて言わない」「相手のために答えを教えない」という事を、きちんと問う機会が御座いました。
そして、つい最近も、このことを考えさせて頂ける話をブログで綴って下さった方がいましてね。
今回は、その人の良記事を元に、改めて「あえて言わない」「相手のために答えを教えない」という事の落とし穴について、お伝え致します。
コンサルタントであったり、指導的立ち位置の人は、その立場にふんぞり返って、やってしまいがちな事ですから、特に学ぶべき事で御座います。
Contents
「あえて言わない」「答えを教えない」を改めて考えさせて頂けた「ほーくさん」の良記事とつぶやき
今回、私がなぜ「あえて言わない」「相手のために答えを教えない」という事には、落とし穴もありますよ、という事を、改めて考える事になったのか。そのきっかけを下さったのが、以前にこの寺院(ブログ)でも表題にさせて頂いた、ほーくさんの良記事に御座います。
参照記事:「即決即断・決断することの責任について「ほーくえーすさん」の良記事から学ぶ事」
ほーくさんは、現在はプログラミング、アプリ開発などの仕事をされている方です。
私も、Rubyを使ってプログラミングを学び実践しておりますから、その関連で、ブログを読ませて頂くという御縁を頂いておりましてね。
以前の記事「即決即断」についても、仏教の智慧、仏法を学べる内容であると、仏教者視点でお伝え致しました。
そして、今回紹介させて頂いております、ほーくさんの良記事も、仏教・仏法を学ぶ事が出来る内容で御座います。
今回の方が、より仏教的であり、仏法を学べる内容であり、コンサルタントや指導者としての立ち位置にある人は、10回は読みましょう、と申し上げたい。
その、ほーくさんの良記事とは、こちらです。
参照記事:「人を試すことにメリットはない。「あえて言わない」は人を壊す」
はい、お帰りやす。
本文を読んで頂ければわかりますが、ほーくさんはTwitterでのつぶやきを読み、改めて「あえて言わない事は、相手のためになるどころか、壊してしまう事に繋がる」と言う事を考えられて、反省されています。
私は、この思考であったり精神の動きに、ほーくさんは「気づきの智慧」や、禅語「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」を為せる人である、と観ずるところであります。

ほーくさんの良記事から学ぶ「あえて言わない、答えを教えない」事の落とし穴
「あえて言わない、答えを教えない」という事は、なぜ「相手を壊す、相手との関係を壊す」事に繋がるのか。その事について、ほーくさんは記事の中で、簡潔かつわかりやすく伝えて下さっています。
記事を読んで頂くと、「あえて言わない、答えを教えない」と言う事は、「相手を試す」事になるという構造が、把握出来るかと存じます。
そして、相手を試すという事は、試す側と試される側の関係性にも関わってきます。
この場合、「試す側が上、試される側が下」という構造が、出来やすいと言う事は、学校社会や企業社会での経験がある人は、肌レベルで理解出来るのではありませんかね。
そうなってくると、全部が全部こうなるわけではないにしても、ほーくさんが仰るような現象も表出してきます。
試す側は「考えさせるためにやる」とか理由を言いますが、チームの中に見えない上下関係を作るのは、どう転んでも良い展開にはならないんです。
(中略)
無理やり自分を思い通りに動かされたり、試されたりするのを喜ぶ人はいません。その場では言うことを聞いているように見えても、強制されているように感じて不信感をもちます。
※http://hawk-a.com/test-no-merit/より引用
あなたも、「お前のために、あえて言わない、自分で考えろ」だとか「お前を試しているんだ。」と言われた時、こう思った事はありませんか?
また、明らかに、相手が自分を試していると思われる場合。
「あ゛?何様やねん。」
スポーツの試合のような、自発的に自分の力を試すという場合とは違い、今回の話の場合でしたら、「あ゛?」と思った経験、あなたもありませんかね。
また、ほーくさんが記事で指摘されている通り、気が弱くて腰が低い性質の人でしたら、この事が続くと、だんだんと萎縮していって、挑戦しない在り方に陥ってしまいます。
「どんどん失敗して、挑戦できる人材を育むのだ!」とか息巻いていながら、相手に対して「失敗を恐れて挑戦しなくなる人にしてしまう」という、真逆のことをしでかしているのです。
確かに、娑婆世界では、答えがない課題も多々あります。
ゆえに、人生の前半を、学校社会などの「答え合わせになれた世界」で生きた人が、白黒はっきり答えが出ない世界で生きるために、訓練する事は必要でありましょう。
その際に、「あえて言わない、答えを教えない」という方法も、使い所で使う場面も出て来ます。
しかし、「あえて言わない、答えを教えない」というやり方を盲信するあまり、それを相手に押しつけすぎると、逆効果になるばかりか、人間関係もこじれたり、不信感を抱かれる事に繋がります
このことは、特に指導的立ち位置にいる人、コンサルタントや先生などの職に就いている人は、肝に銘じて置く必要が御座います。
「あえて言わない、答えを教えない」事の落とし穴を、仏教視点で学ぶ
ほーくさんの良記事から、書かれていたことを元に「あえて言わない、答えを教えない」事の落とし穴を観て参りました。それでは、ここから私がほーくさんの記事から独自に学び気づかせて頂いた、仏教視点での話に移ります。
「あえて言わない、答えを教えない」の前に:そもそも、これが欠けている
「あえて言わない、答えを教えない」という事は、確かにコンサルティングや指導・伝導の形ではあります。ブッダ(釈尊:ゴータマ・ブッダ)も、結構回りくどい言い回しで、相手を諭している事を考えると、答えを教えない事そのものが、必ずしも悪い事ではありません。
しかし、「相手のためにあえて言わない、答えを教えないのは相手を思いやっての事だ」と、盲信している人は、ご注意を。
「あえて言わない、答えを教えない」という手法を用いての伝導やコンサルティングをする場合、そもそもとして、これを意識しないと、暴走してしまいかねません。
そして、この能力が無ければ、やってはいけないとも、私は考えております。
それは「対機説法(たいきせっぽう)」です。
対機説法とは、「相手(機)に対応する形で法の解き方を変える」という意味で、ブッダの法の解き方を、一言で表した言葉です。
今回の話に照らし合わせると、相手が「あえて言わない、答えを教えなくても抜苦世楽となる結果に到達出来るか」という事を、伝導・指導側、コンサルティングする側が把握しているか、ということです。
これ、全くもって頭にないコンサルティングって、実は結構多いんじゃありませんかね。
そりゃあね、答えを教えないでも、さくさくと結果に到達していける人ならば、問題ありません。
しかし、きちんと言葉で伝えながら導く、時には答えをずばっと渡す必要がある相手にも、「いや、相手のために」と、全く相手のためにならない指導の仕方をしていたりする指導者って、いませんかね。
あなたの学生時代でも、いませんでしたか、そういう先生。
「いや、そこは答えを教えないと、次がないだろう。」というのに、それが全く分かっていない人とか、ね。
人によっては、さっさと答えを教えたり、きちんと言って伝える方が良い場合だってあります。
そのような相手かどうかも観ずに、「あえて言わない、答えを教えないのが正しいコンサルティングだ」とかやっちゃっている人は、コンサルティングをやってはいけません。
害悪でしかありませんからね、そういう輩の指導は。
いや、指導すらしていませんがな。
「あえて言わない、答えを教えない」という方法は、あくまで伝導手法の一つであり、対機説法ありきで行う手法なのです。

発言にも責任が伴うが、「言わない、答えない、教えない」事にも責任が伴う
「言わない、答えを教えない」事に対する、仏教者が観る、考慮すべき事柄として、「責任」が御座います。世間では、「自分の発言に、責任を持ちなさい」という事が、しばしば言われます。
政治の世界では、発言の責任が云々と、よく言われますし、このことは社会通念として、あなたもお持ちの事で御座いましょう。
では、「発言しない事、言わなかった事の責任」については、考えられた事って御座いますかね。
特に、コンサルティングであったり、指導することで対価を頂いている人は、このことをきちんと考えておかないと、無責任で無能な詐欺師なんて言われるかもしれませんよ。
実際に、そういう輩いますからね。
どういう事かと申しますと、これは、ほーくさんの記事にある、ほーくさんが反省された具体的な話からも、ヒントを頂けます。
ほーくさんは、記事の中で、車がパンクしたという体験を伝えて下さっています。
詳しくは、こちらを再確認して下さればと存じます。
参照記事:「人を試すことにメリットはない。「あえて言わない」は人を壊す」
ほーくさんは、「このトラブルに、どのように対応するか試すために、あえて何も言わないでおこう」ということで、「言わない、進言しないという事を為す」という選択をされました。
(ちなみに、これ、宗教的な揺さぶりのある話ではありますが、「何もしないことをする」という事に通じる話です。
宗教的な揺さぶりについては、ここでは置いておきまして。)
ほーくさんは、記事の中で「この緊急事態そのものを全て彼の責任にしてしまった。」と、責任について言及されています。
自己が担う事になる責任について気づかれた事、反省されたところを、私は見習うべき事として、学ばせて頂いたと共に、次のようなことも同時に気づいた次第で御座います。
それは「あえて言わない、答えを教えない事によって生じた事の責任」です。
どういうことかと申しますと。
例えば、先輩と後輩の二人一組で仕事をしていたとき、何らかのトラブルに見舞われたとしましょう。
その時、先輩が「後輩のために、あえて何も言わない、答えを教えない」という態度を貫いたとします。
この時点で、フォローが遅れていると言う事は、構造から把握出来るかと存じます。
そして、お客様にも迷惑を掛ける羽目になったとした時、責任を問われる場面で、「先輩は何をやっていたんだ?」と、上司から言われたら、先輩はこう答えます。
「後輩のために、あえて何も言わない、答えを教えませんでした。」と。
あなたは、この先輩に対して、どのように思われますかね。
「先輩が正しい、お見事!」と思われますかな。
私なら「何のためにいるのだろう、何も言わない、何もしないのであれば、いないと同じではないか。」と観ますがね。
人によっては、「あ、この人はトラブルに見舞われても、何もしないし、責任逃れに走る人だ。」なんて思われるかもしれません。
そして、このように周囲から思われても、「あえて言わない、答えを教えない」という因によって生じた果は、背負わねばなりません。
その評価は「あえて言わなかった、答えを教えなかった」ことによって生じた事ですから、先輩が追うことになる責任です。
仏教的に申し上げると、「為すべき事を為さなかったという業を背負う」ということです。
お客様へのフォローが遅れた責任も、先輩は逃れられません。
例え後輩が何かやらかしたことによる失敗でも、二人一組で仕事をしているのですから、フォロー出来たでしょうに。
相手のために「あえて言わない、答えを教えない」だとか「相手を試す」場合、その事による責任も背負う事になる。
このことは忘れずにおるべきですし、その事に考えが及ばないようであれば、相手を試してはいけませんし、この方法を使ってはなりません。
最悪の場合、自他共に地獄まっしぐらですから。
そもそも、例え年長者であったり先輩であっても「相手を試す」とか、やはり私は「何様やねん。」と思うてしまいます。
これも私の煩悩ですかね。修行が足りません、修行が、足りない。

きちんと言ったり答えを教えながらも、考える力を育む事は出来る:「相手を試す」なら順序を考えるべし
相手のために「あえて言わない、答えを教えない」事の理由に、ほーくさんも指摘されている通り「考えさせるためにやる」という理由が御座います。相手を試す、そのためにあえて情報を与えない、答えを教えないというのは、考える力を養うため、というのが、主な理由として、自己啓発本やビジネス書でも使われております。
確かに、それはそれで一つの方法ですし、これ自体に善悪は御座いません。
しかし、これがなんだか宗教性を観じると言いますか、「あえて教えない教」のような空気を帯びている気がしております。
特に、ネットビジネス系のコンサルタントやなんちゃら塾の類いで、ありがちな話です。
「あえて厳しく、答えを教えず、スパルタに!」とか、息巻いている、最早詐欺と言っても良いようなコンサルタントや塾関連、自己啓発系のコミュニティで見受けられますね。
「何何ブートキャンプ」とかやっている輩は、大体が始まる前に終わってしまっている我利我利亡者です。
まあ、大体こういうのは、、上で申し上げた「言わない、答えを教えない事の責任」を一切背負っていない、気づいてすらいない、無知無能な我利我利亡者なる詐欺師共ですが。
ここで、あなたに考えて欲しい事は、果たして「あえて言わない、答えを教えない」という方法を取らないと、相手の考える力は伸びないのでしょうか、という事です。
実は、最初にずばっと答えを教えても、考える力を育む方法は御座います。
しかも、小中学生の時代に、学校で習ったことを使うだけでも出来る事です。
例えば、証明問題などが使えそうですね。
数学の授業で、証明問題を習った人も、多いのではないかと存じます。
その概念を活用すると、例えば「Aという問題の答えはBである。では、なぜそうなるのか証明して下さいな。」という問い方をすると、答えに到達する過程を考える事になります。
ビジネスの現場では、「これ、実はこうなるんだ。じゃあ、なんでこうなるのか説明してみてくれる?」という問い方をするのも、一つの方法です。
ホークさんの事例を拝借しますと、こういう事も可能です。
1:目的地に移動中、タイヤの空気が抜けて車を修理する必要がある場合、その場にいるメンバーで知恵を出し合い、きちんと役割を全うした活動を為す。
2:その事により、まずは「時間内に、目的地に到達するという為すべき事を協力して達成する」を実現する。
3:そして、トラブルを解消して、目的を達成した後で、その後の役に立つ次善策と問題解決方法を話し合う。
上の例や、ほーくさんの事例から考察したことは、どれも先にずばっと答えを教えていますが、後からきちんと考える力を育む事に繋がっています。
しかも、それがきちんと論理的に証明されている形で、人様に分かるように説明する必要がありますから、表現力や伝える力も養えます。
ここで肝要なのは、「相手を導く順序をきちんと考慮する」という事です。
いきなり「あえて言わない、情報を与えない、答えを教えない」ではなく、答えを教えて、ひとまずの結論・結果を出した後で、考える力を養う課題なり問いを課す。
こうする事で、答えを教えながらも、考える力を養う事が出来ます。
答えを教えた上で、相手が考える力を養える方法は、専門家でもない私でさえ、これくらい思いつきます。
もちろん、コンサルタントを気取っている人や指導者と自己紹介している人は、これくらい思いついてらっさいますよね。
そして、きちんとこういう伝え方も駆使して、相手が結果の出るように、導いていますよね?

確かに「おせーて君」や「くれくれ君」は改める必要はあるけれど・・・
今回は、ほーくさんの記事から、改めて「あえて言わない、答えを教えない」という方法の落とし穴や、不味い部分を考えてきました。恐らく、「おせーて君(教えて教えて、と貰うばかりの人)」や、「くれくれ君」という、何も考えずに答えだけを求める人がいる事への懸念から、反論も御座いましょう。
それはそれで理解出来る反論ですし、私も「くれくれ君」を甘やかすのは考えものではあるなあ、とは存じます。
(そもそも、宗教的な話も盛り込んだ以上、社会通念からの批判や反論はあるのは必然とも言えましょうし。)
しかし現在は、特にネットビジネス業界のコンサルタントをはじめ、指導者側に「あえて言わない、答えを教えない=良い教え方」という認識が蔓延している気が致します。
それに警鐘を鳴らす形で、今回はほーくさんの良記事に御縁を頂きまして、話をして参りました。
「答えを教えた方が伸びる人か、そうでないか:対機説法ありきで考える」
「あえて言わない、答えを教えないのであれば、そのことによって生じる事に責任を持つ」
このことを踏まえた上で、「あえて言わない場面」を見極めて、使い所を見誤らない智慧となりましたら、嬉しゅう御座います。
最後に、考える、気づく良縁となって下さった、ほーく様に、篤く御礼申し上げます。有難う御座います。
参照ブログ:「ほーくブログ」
ほーくさんのブログは、プログラミングやWordpressについて等、技術的な事柄も学べますから、これを機会に定期的に確認されると宜しかろうと存じます。
合掌、礼拝