精一杯やるが深刻(シリアス)にはならない|浦崎雅代さんの連載記事に学ぶ仏教の教え

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。



私は、プラユキ・ナラテボーさんの御縁により、タイの仏教を直接教わる機会も御座います。


その御縁もありまして、関連著書にも触れて、現在はタイの仏教を翻訳して下さっている、浦崎雅代さんの記事やツイキャスにも御縁がありまして。



今回は、私も読ませて頂いております、浦崎雅代さんの連載記事から学んでおります事柄です。

今回、御縁が御座いました浦崎雅代さんの連載記事の内容は、まさに私が陥りがちな事柄でもあります。



私がついつい陥ってしまう事柄について、光明となる智慧は、表題にも御座います「精一杯やるが深刻(シリアス)にはならない」という在り方。

その逆の「精一杯していないのに、深刻(シリアス)になっている」状態に、陥ることがある私です。

以前に話したこと、浦崎雅代さんのツイキャスを聴聞したレポート内容とも関連する話でありまして、今回はそこを更に深掘りした観じになりましょうか。



今回の話を通して、私も陥りがちな「精一杯していないけれど、深刻(シリアス)になってしまっている」状態から、脱する一助となりましたら、嬉しゅう御座います。

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前提の話:精一杯やっている「つもり」でやっておらず、心だけが深刻(シリアス)に、という悪循環

今回の話を進めていく前に、前提の話をば。



例えば、あなたもこのような経験は御座いませんかな。

精一杯やっている「つもり」、もしくは、精一杯やっていない、一所懸命にしていないという自覚はあるけれども、口先だけは「ちゃんとやってるよ!」と、言い訳がましい事を抜かす。



人という生き物は、ともすれば楽な方向へ、易きへ流れるという事がしばしば御座います。

ゆえに、精一杯やらずとも事態が好転することばかりを願い求め、精一杯やることから遠ざかっていくことも御座いましょう。

かくいう私も、そういう輩の一人です。



一方で、心だけは焦燥感に駆られたり、不安になって深刻さを増していく、という事、経験したことは御座いませんかな。

やるべきことをやらず、不安だけが募って深刻さを増していくという状態です。



こういう状態では、「そもそもとして、まずは精一杯やりましょうよ。」というところから始めることになりましょう。

こういう場合でしたら、自身が真に精一杯やっているかどうかを、観察・洞察する必要がありそうです。



他方、精一杯やっている、それこそ鬼気迫る勢いで物事に当たっている状態の人もいらっしゃいましょう。



私の場合、後になって「ああ、あれがこの状態か。」という事がありまして、体は確かに精一杯やっていたなあと、今思えば理解できます。

ただ、その時は心が調っておりませんでした。

心は深刻(シリアス)なまま、がむしゃらに体だけ動かしていた、行動しましょう教の狂信者と化していた、という状態です。

私がうつ病と診断されて、心療内科のお世話になった要因の一つでもありましょう。





「精一杯やっていないのに、心は深刻(シリアス)な状態に陥っている」

あるいは、「精一杯やっているが、心は深刻(シリアス)になっている」



このような状態に陥った経験をお持ちの方は、私以外にも、いらっしゃるのではなかろうかと存じます。

「今、ここ、を精一杯やらない上に、心は深刻(シリアス)になっていく」を自戒として頂く

このような状態に陥っていないか、という事を、自戒の教えとして頂ける言葉を、浦崎雅代さんは連載記事にて伝えて下さっています。

その部分を引用致しますと。


普段いかに「今ここを精一杯やらないのに、心はシリアスになってしまう」ことの多いことだろう。

結果ばかりを気にして、肝心の今の歩みは止まっている。

「気づきを楽しむ-タイの大地で深呼吸」浦崎雅代さんの連載記事より引用



これ、本当に大切な教訓と言いますか、突き刺さる話に御座ります。



例えば、地道な作業、同じ者を幾つも作ったり、そういった作業をする時などは、こういう状態に陥りやすいのではなかろうかと存じます。

私が経験した具体的な例を申し上げましたら、「店の商品の棚卸し」が御座います。

某家電量販店でもありましたし、機械工具店でも定期的に棚卸しがあるのですが、品物が多いから1日仕事でした。



棚卸しって、やってみると実に地味な作業であり、しかもやったからといって金銭に直接的に結びつくわけではありません。

家電量販店時代は、それで時間給頂いておったですがね。

とにかく、地味な作業が長時間続くわけです。



そういう場合、終わる事、結果ばかり考えて、肝心の目の前の作業は疎かになりがちです。



ゆえに、後で確認したら、数字が合わないという事もしばしば。

結局やり直す部分が増えて、終了時間は更に遠ざかる、という結果に。



全くもって、「今、ここで為すべき事を精一杯為さずに、でも心は結果に囚われて、そこだけ深刻になっている」という状態です。



今、ここで棚卸しの作業を精一杯やれば、ミスも減って結果にいつの間にか到達しているというのに。

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浦崎雅代さんが伝えて下さる「精一杯やるが、深刻(シリアス)にはならない」というパイサーン師の教え

ここで、このような「精一杯やらないのに、結果ばかりに執着して、心ばかり深刻(シリアス)になっていく」という状態に陥らないために、どうすればよいのか。



ここで、浦崎雅代さんが、タイのスカトー寺の住職であられる、パイサーン・ウィサーロ師の教えを伝えて下さっています。

パイサーン師は、このように教えて下さいます。



「精一杯やるが、深刻(シリアス)にはならない。」



このことについては、以前、スカトー寺の比丘(僧侶の事)であられる、スティサート師の沖縄での法話に、ツイキャス経由で参加させて頂いた時にも、教わった事に御座ります。

スティサート師は、スカトー寺の副住職です。

スティサート師も、パイサーン師の「精一杯やるが、シリアスにならない」という教えを紹介して下さり、浦崎雅代さんが翻訳して伝えて下さいました。



参照記事:「タイ・スカトー寺副住職スティサート師講演会|浦崎雅代さんの通訳ツイキャスを受講・聴聞しました」



では、具体的にはどうすればよいのか、という事が、次の問いとして浮上することでありましょう。

このことについて、浦崎雅代さんは、ご自身の体験を通して、連載記事にて伝えて下さっています。



それは、「今、ここに気づく事」です。



この事は、私がプラユキ・ナラテボーさんから何度も直接教えて頂いている事でありまして、具体的な鍛錬方法として、手動瞑想を毎日行じております。

手動瞑想や歩行瞑想と言った瞑想は、体を使って、体を気づきのマークとして行ずる瞑想です。

私も毎日、現時点で1年以上継続しているためか、ふとした時に、手に「ぱっ」と気づいたり、歩いている最中に、脚に「ぱっ」と気づく、という事を体験しております。



浦崎雅代さんの連載記事では、坂道を上る際に、坂道を登り切るという結果に深刻(シリアス)になった時、足下に「ぱっ」と気づかれて、「今、ここ」の一瞬一瞬に気づきが間に合う、という事を体験されたという話を記して下さっています。

瞬間瞬間に気づいて、「今、ここ」を精一杯やる、という気づきが間に合えば、結果への執着から自ずと離れていきましょう。



精一杯やるけれども、そこには力みも無く、かといって散漫でも無く、ただただ一瞬一瞬を精一杯やる、という塩梅。



もちろん、ある程度の目算であったり、目的地を知るという事も大切な事柄でありましょう。

ただ、その際に、結果だけを求めたり、坂道を登り切ったという結果だけに執着すると、「登り切らないと、登り切らないと・・・」と、執着にまでなりかねません。

私の例でしたら、棚卸しを終えることばかりに深刻になって、肝心の棚卸し業務そのものが散漫な状態で進んでしまう、という事です。



そうではなく、「今、ここで為すべき事を精一杯為す」けれども、それは一瞬一瞬に「ぱっぱっぱっぱ」ときちんと気づきながら為す。

そうして、精一杯やるけれども、心は深刻(シリアス)にはならないように。



例えシリアスになっても、浦崎雅代さんが連載記事で伝えて下さる通り、体と心の状態に瞬間瞬間気づく事で、「あ、今シリアスになっているな。」と気づきが間に合いましょう。

気づきが間に合えば、また精一杯やるという事に、ぱっぱっぱっぱと戻っていく。

そうすれば、力み無く自ずと結果・成果に近づきましょう。



ここで、「シリアスになっている自身の心」に気づいた時、生真面目な人は、シリアスになっている自身を責めたり、絶望する事もあるかと存じます。

そこで、体は精一杯、一所懸命であっても、こころはシリアスにならぬ智慧に、プラユキ・ナラテボーさんが本で紹介して下さる「マンペンライ、タムレンレン」が御座います。

浦崎雅代さんも、Twitterにて「タムレンレン」という言葉を紹介して下さったことが御座いましたね。



参照記事:「マンペンライとペンライ・クリアットの活かし方|バランスを取る働き方や仕事の智慧」

参照記事2:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」

参照記事3:「浦崎雅代さんのツイキャスで学んだ事|ブッダの言葉「筏の譬え」」



精一杯やっていると、心は結果を求めてしまうという事がしばしばある、人の心。

そうして、だんだんと結果に執着してしまい、結果に対して不安や深刻さが増してしまう、という悪循環に陥ったという経験、思い返したらあったなあ、という人も、いらっしゃるのではなかろうかと存じます。



精一杯やるけれども、心は「クリアット(心配しすぎ、深刻に悩む)」という状態に陥らぬように、「タムレンレン(遊び心を持つような心の余裕)」という在り方にて事に臨む。



ついつい、物事に対して深刻になったり、深刻に受け止めがちな私にとって、智慧の教えとなって下さる、浦崎雅代さんの話に御座ります。



参照先:「気づきを楽しむ-タイの大地で深呼吸」

精一杯やるけれど、深刻(シリアス)にならないように

今回は、浦崎雅代さんの連載記事から学んだ、仏教の教えについてお伝え致しました。



私は、根っこが生真面目で融通が利かないためか、ついつい深刻になってしまいがちです。

瞑想や仏法を学び実践したり、お坊さん達に教えを賜り続けているお陰様で、何とか、そういう状態に陥っている自身に、気づく事もあるようになってきました。



ただ、その場合にも「あ、今、気づいた自分は偉いと、増上慢に呑まれている」と気づき、猛省するという環を、ぐるぐる廻る事もしばしば御座いますがね。

気づいて調える、を、一生涯続ける事に御座います。



シリアスになってしまう自身に気づいたら、受容して、次の一歩の方向として「マンペンライ、タムレンレン」によって深刻・シリアスから脱し、「今、ここに精一杯」に戻る。



スカトー寺の御法話は、繋がっているのだなあ、と、今回の浦崎雅代さんの連載記事から、思うた事に御座ります。



合掌、礼拝

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