慢心・慢の煩悩燃えさかる私|プラユキ・ナラテボーさんとだいやめさんに学ぶ仏教の智慧

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私は仏教・仏法と再開してからというもの、有り難い事に、Twitterなどオンラインでも、瞑想会等のオフラインでも、善友・善知識の方々に、教え導いて頂く機会が増えております。


善友・善知識との御縁、誠に有り難し。



先日も、Twitterで仏教に関するつぶやきをして下さる、だいやめさんという方の話から、私自身を省みる機会を頂きまして。

その話は「慢心」についての話でありまして、私も身に覚えがある、常々燃えさかっている煩悩について、改めて思い知り、気づき調える機会を頂けた事に御座います。

また、慢心に気づいた後の実践的な智慧については、プラユキ・ナラテボーさんの教え・智慧にも繋がる話であります。



今回、私自身の慢心・慢の煩悩燃えさかる姿をお伝えしつつ、自身の慢に気づいた次の一歩をどうするか、そのことを共に考える機縁となりますれば、嬉しゅう御座います。

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だいやめさんの記事に学ぶ「慢心・慢の煩悩」:まずはだいやめさんの記事紹介から

まずは、プラユキ・ナラテボーさんとも繋がりがあり、私が善知識なる方とお見受け致します、だいやめさんという方の記事を紹介させて頂きます。

こちらを先にお読み頂く方が宜しかろうと存じます。



だいやめさんの記事:「気づきのブログ」



はい、お帰りなさいまし。



私、このだいやめさんの記事を読んで、「私の事である。」「私の慢心・慢の煩悩について言い当てて頂いている」と、自分事として頂いた事に御座います。

と、いいますのも、今もよく「仏教を学び実践している事」について、慢の煩悩燃えさかる事が御座いましてね。

学び実践し知識がついてくると起こり得る「慢心」:私自身、身に覚えがあります

だいやめさんの記事に、このような話が御座いまして、引用させて頂きます。


少し解ってくると、「そんなこと知っとるわ」「その話は飽きた」となってしまう。
最悪、他人まで評価したりする。
驕り(慢心)である。

※だいやめさんの記事「気づきのブログ」より引用



これ、まさに私がようやってしもうておる事に御座います。

以前に、こういう話をしたことがありましたね、「お念仏で人を叩く」という話。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会・新春の瞑想と対話の会@京都|参加体験談」



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて、懇親会で「瞑想をしていることにあぐらを書いたり、慢心したり、瞑想している自分は偉いとか、そういう風にならないか?」という問いに対して、私が陥っていると、告白した話です。

私の慢心1:お念仏で人を叩く

私の実例を申し上げますと。



お念仏申すようになってから、最初の頃は法然上人が残して下さるお言葉の如く、念仏道場で、ただ一向にお念仏に励んでおりました。

そこから、だんだんとお坊さんからお念仏について色々教わったり、大木魚を打ちながらお念仏させて頂けるようになってきたのですが。



だんだんと、慢心も出てきまして。



例えば、ある別時念仏会にて、親子連れが隣でお念仏されている時、「私の方がお念仏をよく知っていて、声も出ている、私の方が優れたお念仏である」等と、上から目線でふんぞり返った事を思うてしもうた事があるのです。

だいやめさんの記事から引用した話の如く、まさに「最悪、他人まで評価したりする。」を、してしもうたわけです。

しかも、一度や二度では無く。



毎日、勤行にて、法然上人から「智者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」と頂いているのに、お念仏で人を叩き、優劣をつけて思い上がるためにお念仏を用いるという、なんという慢心からなる愚行であろうか。

そして、そこに気づかずにおった私は、だいやめさんが仰る通り、無明よりも更なる愚行をやらかしておったのであるなあ、と、己を省みた事に御座います。

私の慢心2:御法話にて「その話、もう知ってる」

だいやめさんの記事の中で、身に覚えがある私の慢心の二つ目は、御法話で度々あった事で御座います。



私は一時、東西の本願寺にて定例法話を頂き続けておりまして、真宗のお坊さん達から御法話を頂いておりました。

最初の内は、「おお、そういう話があるのか。」「これは大切な教えな気がする」と、きちんと聞いてはおったのですが。



御法話もたくさん聞いて参りますと、既知の話や知っている事が話される事も増えて参りまして。

例えば、八正道の話などは、プラユキ・ナラテボーさんからも何度か直接教わっておりますし、四門出遊の話も、御法話で何度も聞いたことに御座ります。

そうなってくると、だいやめさんの記事から引用した話のように、こういう事を思うようになってくるのですよ。



「いや、それ、もう知ってるから。」



おそらく、既知の話を再度お坊さんが話して下すっている時、私は「そんな事はもう知っている」と、所謂ドヤ顔でふんぞり返った顔面を晒しておった事でありましょう。



更には、「私は知っている、こんな事は知っていて当たり前だ、知らない方がおかしい」などと、またしても人を評価する、私が知っている事を知らない人を卑下するという事までやってしまう私。

その物事を、いつどのように知るか、それこそ御縁によるというのに、たまたま自分が知っている事に慢心し、たまたまその物事を知る機会が無かった人を「無知なる者」と見下す体たらく。



未だにやってしまう、慢の煩悩燃えさかるこの身である事を、思い知るところに御座います。



いかがせん、いかがせん。

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慢心・慢の煩悩に気づく智慧と実践:瞑想

ただ最近は、このような慢心・慢の煩悩が起こると、瞑想の効果なのか、「あ、今、慢の煩悩が燃えさかっておる」「怒り・瞋恚が、三毒が顔を出しておるぞ」と、気づく機会も増えてきたなあ、という実感が御座います。

起こってくる事柄は、縁が調う事で発生することでありますが、それに「反応」して飲み込まれる前に、そこに気づいて次の一歩を調えるという「対応」に向かう機会は、以前よりは増えた気は致します。



今、「瞑想の効果」と申しましたが、プラユキ・ナラテボーさんも、慢の煩悩の起こりに気づいたり、慢心を減らす智慧の実践の一つとして、「瞑想」を挙げていらっしゃいます。

この事について、だいやめさんもプラユキ・ナラテボーさんのTwitterを引用して示して下さっていまして、私もここで再度掲載させて頂く来ます。







瞑想を実践・気づく訓練をする事によって、だいやめさんが仰る通り、「気づいている人」は施しようがあり、調える事が出来ます。

「あ、今、慢心が起こっているぞ」と気づけば、次の一歩を、慢心からきた衝動的な行為をぶちまけるという愚行に及ばないように、自らを調える事も出来ましょう。



「自分も気づかぬうちに、慢心に飲み込まれているのではないか?」と、自身を問われて、調える訓練を瞑想にてしたいという方は、一度瞑想会にて瞑想を教わるのも、宜しかろうと存じます。

以前から申し上げている通り、瞑想をするならば、一度瞑想指導が出来る人に直接教わる事が望ましい、と、ここで毎度の事ながらお伝えしておきます。



ちなみに、この話を書いている時期におきましては、京都でプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会が御座います。



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会情報:「春の関西瞑想会」



私は、午前中は瞑想会の会場近くのお寺さんにて、毎月受講しております仏教講座に参加しますから、午後からの参加を予定しております。

慢心を減らす智慧:陰徳を積む

プラユキ・ナラテボーさんとだいやめさんが教えてくださる、慢心を減らす智慧のもう一つに、「陰徳を積む」があります。

私は、「陰徳を積む」という事については、禅僧・松原泰道さんの「人徳のすすめ」にて、学んだことがありまして。







おそらく、現在は古本でしか手に入らないかと思われますが、今回の話ととても関係が深い本であると、思うております。



プラユキさんとだいやめさんが仰る「陰徳を積む」事の実践は、利他行であり布施行でもありましょう。

「陰徳を積む」の例として、プラユキ・ナラテボーさんがTwitterのぶつやきにて、だいやめさんが記事の中で紹介されていますから、上記のリンクから、再度読まれると宜しいかと存じます。



また、陰徳については、上記リンクにて紹介した松原泰道さんの本には、このような話も御座います。

陰徳を積むというのは、直接的な利他行・布施行だけではなく、例えば「物や時を大切にすること」もあります。

物や時を大切にして、それを生かし用いる事を「陰徳を重んじる」と言うそうな。

その逆で、物を粗末にして時を怠惰に過ごすなどして粗末に過ごす事を、「不陰徳」と言うそうです。



まずは、身近な物を大切にし、時の過ごし方を「今、陰徳を重んじているか」と問うてみることが、陰徳を積む一歩目となり、次の一歩へつなげていける事であろうか、と、思うところに御座ります。

卑下慢にも気づき調える:気づいて次の一歩を調える事を続ける事

私は、このように慢の煩悩未だ燃えさかり続ける、慢心と共に在る身に御座ります。

仏陀の教え、祖師方の教え、プラユキ・ナラテボーさんやだいやめさんといった善友・善知識なる方々のつぶやきや教えによって、改めて己の慢心や欺瞞に気づかせて頂き、省みて懺悔申し上げる日々であります。



ただ、では、慢心に気づいて次の一歩を調えると、その次には「卑下慢」という慢の煩悩が燃えさかる、という状態でありまして。

どういう事かというと、こういう事です。



「自身の慢心に気づいている私は偉い」と、慢心に気づき陰徳を積む自身に酔いしれる事。

謙虚であろうとする自身に酔いしれ、心の中では「自分を分かっている」と自慢する事。



気づきの智慧がある自分は偉い、無知の知を知る自分は謙虚で偉い、と、自身に酔いしれるという行為、私もようやっております。

もしも、「心の中で言っていることが発音される装置」があって私に取り付ければ、「自分の慢心に気づいている俺様は謙虚で偉すぎるもっと褒めて賞賛してーわっひゃらー!」と、大音量でまき散らされておる事でありましょう。



と、このように言うておる次の瞬間から、「ほら、こうして自分の悪を告白している私って偉いでしょう?」等と思う私、いかがせん、いかがせん、警策フルスイングものです。



自身の慢心・慢の煩悩に気づいても、その事が慢の煩悩に繋がる、という事、私には身に覚えがありまくるのですが、あなたはどうでしょうか。

こんな感じで、煩悩燃えさかる私ではありますが、そこに気づいて次の一歩を調える方を向いて歩む、気づいて調える事を繰り返し実践し続けるしかない身であるなあ、と、思うところに御座います。



慢心・慢の煩悩にきちんと気づく事、そして、気づいた自分は偉いという慢にも気づき続け、調える続ける事。



だいやめさんとプラユキ・ナラテボーさんの話から、改めて、調え続ける事を実践しようと思うところに御座ります。



合掌、礼拝

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