気づきが間に合う利益(りやく)や効果|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会で頂いた例え話の補足

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



前々回と前回にて、森竹ひろこさんが開催して下さった、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会・京都」について、お伝えしております。

プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in京都では、またしても様々な気づきや智慧を、授けて頂きました。

今回は、「受容」と「従順・賛成」の違いなど、誤解されやすい事柄についても、かなり突っ込んで話を聞く事が出来て、非常に有り難く濃密な時空間と相成ったもので御座います。

そして、そういった話の中で、これも誤解を生じやすいかもしれないと、個別的に感じた話が御座いましてね。



プラユキ・ナラテボーさんは瞑想会にて、「気づきが間に合う」という事について、「お菓子の例え話」を使って、解説して下さいました。

そして、この「お菓子の例え話」を、私なりに、更に一歩踏み込んで考えて、これはお伝えしておいた方が良いのではないか、と思うに至りまして。



そういうわけで、今回は、プラユキ・ナラテボーさんから瞑想会にて、直接教わった「気づきとお菓子の例え話」を、私なりに更に踏み込んだ話を致します。

今回の話は、「こういう場合はどうしたら良いのだ?」という、ケーススタディ的な話であり、「気づきが間に合う、その後の一歩」の話でもあります。

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プラユキ・ナラテボーさんによる「気づきが間に合う効果」についてのわかりやすい解説

2017年7月9日(日)に、私は森竹ひろこさんが開催して下さった、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会・京都」に参加して、濃密な学びを頂いたわけでありまして。



プラユキ・ナラテボーさんは、手動瞑想や歩行瞑想などの実践により、気づきの智慧が育まれていく事について、「お菓子の例え話」を使って、解説して下さいましてね。

私は、この「お菓子の例え話」は、「苦しむ人から苦しみを観る人になった時に得られる利益(りやく)・効果」と、頂いたもので御座います。

これは特に、相手の助言であったり、自分に対して言われた事を、ネガティブに捉えがちな人にとっては、妙薬となる話でも御座いますよ。



気づきが間に合う効果について語られている、「お菓子の例え話」は、次のような内容です。



相手から自分に対して発せられる言葉が、一見すると、槍のような鋭さを持っていて、それが飛んできたと致しましょう。

自分にとっては、「あ、槍が飛んできた!」と、恐れおののく場面です。



ここでもし、気づきの智慧が育まれていないと、その「槍」が自分にぶつかった時、「やられたー!うわーもうだめだー!」と、傷ついてしまいます。

人によっては、「槍」なんてどこからも飛んできていないし、誰も自分に「槍」を飛ばしていないのに、勝手にぶつけられてのけぞっていたり倒れたりしているような事もあり得ましょう。

怨憎会苦の極みが構築されてしまうと、怨憎会苦の対象となる人が視界に入っただけで、勝手に飛んでくる槍を妄想する、なんてことをやらかした経験、あなたもありませんかな。



ちなみに私は、現在進行形でありますよ、体にも反応が出るくらいの人物が、身内に。

仏道修行のお陰様で、だいぶ、それは自身が創り出した妄念に過ぎないと、気づく頻度も上がってきましたが。



ここで、気づきの智慧を育んで、きちんとその発言を「観る人の眼」を持ってして観ることが出来ると、実は美味しい上に自身の栄養となる「お菓子」である事に気づく事が出来ます。



例えば、自分にとっては凄くきついことだけれども、吟味して注意深く相手から伝えられた言葉を観察・洞察すると、自身の進化になる重要な発言であったと、気づいたり、そんな感じです。

「自分にとっては耳が痛い言葉だけれども、とても大切な事を言ってくれている」という類いの話です。



そして、気づきの瞑想、手動瞑想や歩行瞑想によって、「気づきが間に合う速度」が速まる事により、自分にぶつかる前に、それが「自身が美味しく味わえて栄養価の高いお菓子」に気づく、という事も出来るのです。



こうして「気づきが間に合う効果」を、きちんと得られるようになるまでになれば、かなり早い段階で「槍」か「お菓子」か、という事にも気づく事が出来ます。

私の体験談:気づきが間に合う効果・利益を学ぶ前と後の話

実は是、私も実体験としてあることです。



私は、仏教ときちんと再会する前、気が短く自己責任論者で、「自己責任教・自分は正しい教」という宗教の狂信者かと思わんばかりの勢いがありましてね。

そのために、人様から頂いた助言や御教えも、「うっさいなー」と、拒絶する事もしばしば、という具合でありました。

もちろん、本当に単なる嫌味や嫌がらせの類いもありましたが、それと助言の類いも同一視するかの如く、排除するような対応しかしませんでしてね。

現代のSNS事情を絡めていうと、折角進化に繋がる助言なりリツイートコメントを頂いているのに「クソリプはミュート!ブロック!」とかやっちゃうようなものです。



今思えば、なんたる傲慢な奴であったのだろう、と、猛省するばかりで御座います。



プラユキ・ナラテボーさんやカンポン・トーンブンヌムさんが教えて下さる「気づきが間に合う」「観る人」という教えと出会えてからは、一旦、ニュートラルポイントを設ける事にも至りました。

そのお陰様で、賛成するのでも反対するのでもなく、まずは「こういう発言がある」と、あるがままを一端は受容して、その上で、私に投げられた事柄を採用するか否かを選択出来る、という事にも気づきました。

そして、現在はそのように生きております。



もっとも、完璧に出来ているかと言うと、ほど遠いという自覚はありますがね。

それでも脊髄反射的に「うっさいなー」は、言わなくなっているなー、という事も自覚できるように変わったもので御座います。



私の場合、生来的に聞き役に徹しやすい性質、「物語の聞き手」的な素地がある事も要因では有りましょうが、気づきの智慧がそれを助けてくれているのは、あり得ましょう。

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本当に傷つける「槍」であっても「気づきが間に合う」事による利益・効果はある

ここで、「でも、娑婆世界には、本当に相手を傷つける目的で、槍を投げまくる輩だっておろうに」とか、そういう声も聞こえてきそうです。



確かに、いますよね、やたら攻撃的な人。

自覚的にか無自覚的にか、確かに「槍」を飛ばされる事も御座います。

しかも、薬やお菓子ではなく、本当に傷となる毒なり槍を飛ばされる事も、娑婆世界ではある事です。

ゆえに、そういう現象に遭遇することも含めて、娑婆世界を「堪え忍ぶ土地・忍土」と言うのでありましょう。



特に私の様に、受け身であったり、自身の悪人性質であったり、自身は絶対的に正しいとは思わずに自身の間違いはどこかにあるのではないか、という内省的な性格の人は、こういう輩に槍を飛ばされてマウンティングされやすいわけですが。

自己啓発系の言説では、この「槍」を、「意味づけを変えろ!」とか何とか言って、無理矢理に「槍」や「毒」を、「栄養価の高いお菓子」に変えるように強制してくることが御座います。

アドラー辺りの目的論を、表面だけなぞってはき違えた解釈によって、相手に投げつける亡者共は、やらかしがちですね。

後、コーチングだとかNLPを学んだ俺の言う事を聞け的な勘違い野郎も、この傾向があります。



確かに、蒟蒻問答的な技を使える人は、相手の毒や槍の類いを、栄養価の高いお菓子に変化させる事も出来ましょう。

しかし、これは相当鍛えられているか、よほどポジティブシンキングが出来る人くらいでないなければ、難しいというのが私の見解です。

そういう事に慣れていない人が、無理矢理こういった自己啓発的な「意味付けの強制変更」をやらかすと、無理がたたってしまいかねません。



そもそも、自分を傷つける心ない暴言や「槍」を、「わーいお菓子だ」とするのは、単なる現実逃避や錯覚の類いです。

「クソリプは、どこまでいくも、クソリプだ」ってなもんですがな。



そうではなく、「槍」は「槍」としてきちんと観て、無理矢理お菓子に変えようとしないことが肝要です。

これが、「あるがままをあるがままに、ないがままをないがままに」という教えにも通じる事柄で御座います。



気づく智慧を養い、観る人になる事が出来れば、「槍」をきちんと「槍」と見抜き、その上で「では、次はどうするか」を、自身が選択する事が出来ます。

「気づきが間に合う利益(りやく)・効果」:早い段階で次の一歩を自由に選べる

ここで肝要な事は、「気づきが間に合う利益(りやく)や効果」として、気づきが間に合う速度が速まれば速まるほど、早い段階で「槍」は「槍」であると見抜き、その上で次の一歩を自由(自らに由る)に決める事が出来る、という事です。

これは非常に重要なことであり、プラユキ・ナラテボーさんも、瞑想会で歩行瞑想を伝導して下さる時に、教えて下さる事であります。



この「気づきが間に合う速度が速まる」と、「次の一歩を自由に選べる」という事は、とても大切な事です。



どういうことかと申しますと、具体的な場面を想像しながら、読んで頂くと自ずと見えてくるかと存じます。



例えば、離れたところから、こちらに向かって「槍」が飛んできたとします。

この「槍」は、暴言であったり、こちらを貶めてやろう、とか、詐欺ってやろうとか、そんな事柄に置き換えて頂いても宜しいでしょう。

ここで、全く気づきが間に合う事がなければ、気づかぬうちに「槍」にやられてしまいます。

また、気づきの智慧があったとしても、気づきが間に合わないような速さしかなければ、「ど、どうしよう!」と、慌てふためくことになります。



そこで、気づきの速度が速くて、気づきが間に合うと、どうなるか。



気づきの速度が速いと、「槍」が自分に向かって飛ばされた時、自分に届く・ぶつかるかなり前の段階で、「槍」の存在に気がつきます。

そして、「あ、槍が飛んできているな。」「このままここにいると槍に当たって危険だな。」と、予測する事が出来ます。

そうなれば、次の一歩を「槍が当たらない場所に移動して避けよう。」と、選択する事が出来るのです。



肝要は、「気づきが間に合えば、次の一歩を選択出来る」という部分です。



次の一歩を自由に選択出来るという事は、例えば「自分が傷つかない程の盾を使って、ちょっと受け止めてみるか」という、安全を確保した上で、あえて受け止めるという事も出来るということです。

他にも、「槍」を飛ばしてきた相手や、他の人にも当たらないように、あえて金属バットか何かでホームランを打ってみる、なんてことも出来るかも知れません。

もちろん、自身がその「槍」で傷つかないようにしながら。



「気づきが間に合う利益・効果」は、この例え話からも、読み取って頂けるかと存じます。



「気づきが間に合う事で、次の一歩を自由に選択出来る」

「気づきが間に合う速度が速まれば、選択出来る幅が広がる」



プラユキ・ナラテボーさんの「気づきが間に合う事と、お菓子の例え話」から、私はこのような事を考えた次第で御座います。

そしてこれは、私自身も「うっさいなー」と、言わないように変わってきた事からも、私以外の人にも起こり得る事では無いかと存じております。

ブッダの槍のやり過ごし方:悪口を一切受け取らないという智慧

ここで、実際に「槍」となるような悪口を言われた時の、ブッダの対応をお伝えしておくと致しましょう。

仏教関連の本を読んでいる人ならば、よくご存じの話やもしれません。



ブッダがおわしました時代、ブッダに嫉妬していた男がおり、その男は群衆の前でブッダの悪口を言って貶めてやろうと思いました。

そして、そのチャンス(?)が到来して、男はブッダに散々暴言を吐く、悪口を言うという事をやったのです。



仏教には「不悪口戒」という、悪口を言わないという戒めがあるのですが、それをあろうことかブッダの前で破りまくるとは、なかなかの怖い物知らずですな。

まあ、戒も知らなかったのかもしれません、その男。



そして、悪口を言われた方のブッダは、その悪口に一言も返さずに、淡々としております。

その後、男が悪口を言い疲れてへたり込んだところに、釈迦の説法。



ブッダ「男さん、もしもあなたが贈り物を贈ったとして、その贈り物を受け取らなかったら、その贈り物は誰のものでしょう?」

男「そりゃ、俺のもんさね。」

ブッダ「男さん、あなたがお客様を持て成して食べ物を出した時、その食べ物をお客様が食べなかったら、その食べ物は誰のものでしょう?」

男「そりゃ、俺でんがな。」

ブッダ「男さん、私は男さんから発せられた悪口・罵詈雑言を私は受け取らない。その悪口・罵詈雑言は誰のものでしょう?」

男「・・・あ。」



こんな感じのやり取りがありまして、男はブッダの教えに気づいた、という話です。



恐らくブッダレベルになってくると、気づきが間に合いまくっていたでしょうから、男がやって来た時点で何をしでかすか、予測済みであったことだろうと私は思うております。

そして、最初から男の罵詈雑言・悪口という槍の類いは、一切受け取らずにやり過ごした、というわけですな。

ここで、無下に追い返したりせずに、対機説法にて男に気づかせたという辺りが、まさに智慧と慈悲の実践であると、頂ける事に御座います。



もしも、あなたがSNS等で明らかな悪口、お菓子になり得ない悪口や、いわゆる「クソリプ」を投げつけられたら、この話が何らかの智慧と働いて下さる事もあろうかと存じます。

受け取らないように、即ミュートするもよし、この話を伝えてもよし。

それで相手がどうにもならないならば、「縁無き者は度し難し」という事で、無理に関わる事もありますまいて。

気づきが間に合う利益・効果:忍度を生きる智慧となる

今回は、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会・京都」にて、例え話を用いて伝導して下さった「気づきが間に合う利益や効果」について、お伝え致しました。



「気づきが間に合う」という事に関しては、以前からもお伝えしておりますから、これらも読んで頂くと、より理解が深まるかと存じます。



参照記事:「丁寧な暮らしに繋がる「気づきが間に合う」という実体験の話|プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんとホームからの教え」

参照記事2:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」前編|参加した体験談と感想文」

参照記事3:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」後編|食事とお茶の瞑想、後、懇親会」



また、浦崎雅代さんのブログやTwitter、ツイキャスでも、「気づきが間に合う利益や効果」について、学ぶ事が出来ます。



参照記事:「「自己都合・自己所有の過剰」に気づくプッタタート師の智慧|浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスからの学び」

参照記事2:「「気づきを楽しむ」浦崎雅代さんの連載を読んだ感想文|現代社会に活きる智慧を学ぶ」



気づきが間に合うという事が分かるようになってくると、以前の私の様に「うっさいなー」と言う事も、減ってくる可能性が御座います。

そしてそれは、人との関係も良好になる一助となりましょうし、仏教が言う「利益(りやく)」にもなりましょう。



今回の話が、娑婆世界を生き抜く智慧となりましたら、大変嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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