「気づきを楽しむ」浦崎雅代さんの連載を読んだ感想文|現代社会に活きる智慧を学ぶ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私は、浦崎雅代さんの本やツイキャスにて学ばせて頂いており、その御縁にて、「気づきを楽しむ」という連載記事とも出会わせて頂いております。

あまり「何何させて頂く」を連発すると、何やら怪しい政治家や、誠実さを演出している我利我利亡者や詐欺師っぽく聞こえるかも知れませんが、浄土仏教思想があるゆえ、と思うて頂ければ幸いです。



浦崎雅代さんは、現在はタイのお坊さんがして下さる説法を翻訳される仕事や、それをまとめた本をKindleにて読めるように出して下さっています。

ツイキャスやインターネット上で読める連載記事や論文は、タイの仏教にアクセスしやすい事であり、非常に有り難し。



そのような有り難き事柄の一つに、上でお伝え致しました「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」という連載記事が御座います。

こちらの記事は、佼成新聞にて月一回の頻度での連載です。



その話からも、色々と現代社会で活きる智慧を学ばせて頂いたり、実際に似たような実践から、改めて「ああ、あれはそういうことであったのか。」と、気づきを楽しませて頂いておる今日この頃。



今回は、浦崎雅代さんの「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」を紹介しつつ、私が頂いた智慧の話や、感想文をお伝え致します。

タイの仏教に触れる良き機会となりましょう。

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浦崎雅代さん連載「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」の紹介

なにはともあれ、最初に浦崎雅代さんが連載されている「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」を、紹介するところから始めておきます。

話の元となる記事を伝えておかないと、ね。



浦崎雅代さんが、月一で記事を寄せられている「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」へは、こちらからアクセス出来るようにしておきましょう。

下に記したリンクをクリックして頂くと、読みに行く事が出来ます。



一度、連載されている記事を全部、少なくとも3まで読まれてからでしたら、今回の話を、より味わって頂けるかと存じます。

出来れば、全部読んで頂ければ、と思うのですがね。



参照先:「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」



はい、お帰りやす。



クリックした先の記事は、第1回のものでして、そこに浦崎雅代さんの夫であるホームさんの話が、書かれていたかと存じます。

これは、以前にお伝え致しました、ツイキャスでも話されていた事でもありましてね。

これを機会に、浦崎雅代さんのツイキャスも聞かれると、タイの仏教や、プッタタート師の教えとも出会える御縁となりましょう。



浦崎雅代さんの「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」での学び1:降誕会とウェーサーカ祭

浦崎雅代さんの「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」を読ませて頂き、そこで頂いた智慧や学びが御座いまして。



その一つが、2回目の記事「タイではお釈迦様の誕生日を祝わない!?」という話です。



日本では、何かと記念日を作りたがる気質があるのか、色々な記念日があります。

個人のレベルでも、「今日はサラダ記念日」ではありませんが、結婚記念日や誕生日など、様々な記念日があることでしょう。

細かい人でしたら、「付き合ってから何ヶ月目記念日」など、私でしたら「覚えてられませんがな」とグチグチ言いそうな記念日を設定する人もいらっしゃるかと存じます。

いや、それ自体が悪いわけではありませんよ、それはそれでなかなかに宜しかろうとは思います。



日本での仏教に関する節目の日と言いますか、記念日的な日と言うと、4月8日の「灌仏会」、花祭りと呼ばれる日があります。

また、12月8日は「成道会」と言いまして、ブッダが悟った日という事で、仏教界ではこの界隈の日に、色々と催すこともあるそうな。

禅宗では、この成道会にて、「臘八接心(ろうはつせっしん)」あるいは「臘八大接心」と言いまして、とにかく坐禅の日々を送られるそうですよ。

私も、東福寺塔頭寺院の坐禅会に参加した時に、坐禅指導して下すった禅僧から教えて貰いました。



タイでは、日本のように「ブッダの降誕会」や「ブッダが悟った日」と、わけて祝う事はせず、それらをまとめて「ウェーサーカ祭・ヴェーサカ祭」にて祝うそうです。

(表記は、ウェーサーカ祭であったりヴェーサカ際であったり。Wikipediaでは「ウェーサーカ祭」と記されております。)

浦崎雅代さんの話によると、タイでは5月にヴェーサカ祭が行われるとか。



実は国際連合も宗教の祝祭としているそうですが、私は浦崎雅代さんの記事を読むまで知りませんでした。

日本の仏教界も、ウェーサーカ祭の共同主催者らしいのですがね、全然知りませんでしたがな。



私もまだまだ知らんことだらけ、勉強・修行が足りておりません。修行が、足りない。

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「私の命」ではなく「この命」という教え

ウェーサーカ祭について書かれている浦崎雅代さんの記事には、大切な教えが説かれております。



「「私の命」ではなく「この命」、この命ではなく「誰のものでもない命」」



なんだか、小出遥子さんの、毎朝の連載記事を思い出すようなフレーズです。

そして、小出遥子さんの連載を読み続けていたら、上手く言語化出来ずとも、もしかしたらなんとなく、ピンとくるかもしれない、という事にも気がつきました。



浦崎雅代さんは、この言葉・教えに救われ、気づきを得られたという事を、連載記事に記されています。



家族であったり身内であったりすると、関係を説明するために、「私の父母」「私の子供」という言い方をすることはあります。

言語で解説する際には、致し方ない部分もありましょうが、それが所有の意味としての「私の誰々」という言い方になっていないか、と言う事を、私は仏教徒であってから考えるようになりましてね。

「個体などは違う個別性を有している以上、私の誰々、という言い方は出来ないのではなかろうか。」という事を、ぐるぐると考えて見たり、そんな感じで。



この辺りの事を、戒める話として、浦崎雅代さんは「無自覚な思い込みによる苦しみ」という言葉で、教えて下さいます。



「自分の誰々」という、無自覚に所有物と観てしまう思い込み、それによって生じる苦しみ。

大切ではあるけれども、だからこそ、自己と非己であるという事はわきまえて、相手をコントロール出来るとは思わない事。



このことを、浦崎雅代さんの連載から、改めて考える御縁を頂き、言語として智慧を授けて頂いた次第で御座います。

現代社会は相手をコントロールしたり所有物化しようとし過ぎ

現代社会においては、浦崎雅代さんが伝えて下さる大切な教えの、真逆をやりまくっているという感じが致します。

私も、そういう輩に人生の主導権を、幾度奪われてきたことか。



特にビジネスの世界においては、その傾向が強く出ていませんかね。



ともすれば、自分の生活を支えて下さっているお客様を「コンサル生呼ばわり」して、ちゃっかり自分を上に置こうとする慢の煩悩燃えさかる我利我利亡者な詐欺師コンサルタントとか、その典型ですわな。

「相手を思い通りにする心理学・交渉術」という類いの本の売れ行きが宜しいのも、そういう部分が垣間見れる現象でありましょう。

NLPだとかコーチングも、人生の主導権を奪って、相手を思い通りにしようとするために悪用されているケースもありますし。



こういう輩は、えてしてお金の取り方も酷すぎる。

相手が思い通りに動かなかったり、お金を出してくれないと、途端に相手を非難したり責めたり、いわゆる「ディスる」を、平気でやる不届きな輩もおったものです。

相手を自分の所有物としている、自分が思い通りに出来る所有物という、勘違い甚だしい思い込みが、無意識に入っている気が致しますね、こういう輩は。



大体、お客様を「リスト呼ばわり」しているのが、もう、ね。

お客様は手首ではありませんよ、お客様はお客様です、人です、命ある人です。

間違っても、所有物ではありません。



私は、「お客様」という言葉には、「肉親のような関係の濃さがない故に、だからこそ相手を客体として、相手の個別性を大切にして忘れぬ事」という概念をくっつけております。

このような言葉の理解であり、間違っても、お客様のメールアドレスであったり電話番号や名簿などを、「リスト」なんて呼び方は致しません。

「お客様の個人情報・お客様に知らせを届けるためにある連絡先」です。



浦崎雅代さんの記事から、改めてこのような事を考えるに至り、慢の煩悩に当てられない商いの在り方を、学ばせて頂いた次第で御座います。

浦崎雅代さんの「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」での学び2:「捧げて頂く」という暮らし

浦崎雅代さんの「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」を読んで学んだ事に、食事に関する事も御座います。

これは、私も形は違いますが、毎日実践している事柄で、改めて「ああ、確かに、そのようであるなあ。」と、実感し頷いた教えでもあります。



「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」の連載3回目の記事では、タイのお寺の朝食風景が紹介されています。

タイでは、僧侶は朝早くから読経を始め、その後は1時間かけて托鉢に出かけて、帰って来てから朝食を頂かれます。

朝から声出しとウォーキングをされているという見方も出来て、なんとも健康的な生活であります。



タイのお寺、浦崎雅代さんがいらっしゃる「ライトハウス」での朝食風景は、ビュッフェスタイルでなかなかに豪華な感じもするそうですよ。



タイの朝食風景では、まず全員で食前の祈りを捧げた後、僧侶、在家の人達、その後は犬や猫、残りは肥料に、という感じで循環していくそうです。

日本でも、禅寺ではどうしても食べられないような野菜の皮等は、肥料として活用しますし、食の循環の智慧というものは、どの地域でも観られるのですな。

「捧げる」という行為様式:「作って食べる」だけの食生活から「捧げて頂く」暮らしへ

私は、浦崎雅代さんの記事にある「捧げて頂く」という言葉に、なんでしょう、こう、ストーンっと腑に落ちた感じが致しましてね。

私も実際、これは毎日やっておる事であるなあ、と、改めて気づかせて頂きました。



私の場合は、浄土宗の食前の言葉と食後の言葉を捧げており、仏壇に食事を持っていって、そこでもブツブツと言葉を称えて、という事をしております。

私は、浦崎雅代さんが日々なされている「タンブン」や、タイのお寺やライトハウスでの食事の時とは、行為様式そのものは違うかと思われますが。

行為様式の細かいところは違いますが、「捧げて頂く」という行為様式を経て食を頂いているという事に関しては、共通しています。



私は、この「捧げて頂く」という行為様式は、単に「作って食べる」だけよりも、非効率ではあるけれども大切にしたい事である、という事も、直観・直感しております。

私の場合、この「捧げて頂く」「まずは阿弥陀仏やご先祖に捧げて、先に召し上がって頂いてから、お下がりを頂く」という行為様式を続ける内に、確かに私自身の変化を実感している事からも、そのように申し上げる事が出来るのです。



お土産を頂いたり、お中元やお歳暮で飲食物を頂いた時も、私はまず仏壇に供物として捧げて、それからお下がりを頂くようになりましてね。

そうすると、なんでしょう、不思議と「自分の物」「自分が貰った食い物」だとか、そういうところで終わらずに、「有り難き御縁あって頂いた糧」と、自然と思えるようになったものです。



浦崎雅代さんは、記事の中で「捧げる、というプロセスが加わっただけで、意識が変わる」と仰っています。

これは私の実体験からも、頷ける事に御座います。

と、言いますか、実際にすでに体験しておりますからね。



現代社会は何かと忙しく、「食の頂き方」が、疎かになりがちであるという風潮は御座いましょう。

私も昔、「味わって食うな!さっさと食え!」とか、そういう事をぶつけられて、おかしいと思いながらも逆らったら理不尽な暴力を振るわれるから、怖がりながら従っていたものです。



確かに、効率重視・スピード重視の現代社会において、食事をゆっくりと摂取する事が出来ない事情もありましょう。

ただ、せめて月に何回かという頻度からでも、「捧げて頂く」という事を実践する事は、人が生きていく上で書かせス事が出来ない「食の営み」を、見つめ直す機会になろうかと存じます。

そこから、仕事の仕方や己の在り方を正す縁にもなる可能性だってありましょう。



「そういえば、最近食べ物を味わって食べた気がしないなあ。」と、思われているならば。

浦崎雅代さんの「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」を、読まれては如何でしょうか、と、提唱してみます。



参照記事:「「作って食べる」から「捧げて頂く」の暮らしへ」



合掌して、「いただきます」「ごちそうさま」もしなくなった人は、特に気づきを頂ける話ではないか、そのような事を考えます今日この頃に御座います。

浦崎雅代さんの、その他の情報

今回は、浦崎雅代さんの連載「気づきを楽しむ–タイの大地で深呼吸」から頂いた学びや智慧と感想、気づきを楽しむという事を、お伝え致しました。



浦崎雅代さんから頂ける、タイの仏教の話や、様々な生きる智慧、現代社会に活かす事が出来る話は、その他にも御座います。

以前から何度か、その話をしてきましたね。



参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」

参照記事2:「浦崎雅代さんのツイキャスで学んだ事|ブッダの言葉「筏の譬え」」

参照記事3:「丁寧な暮らしに繋がる「気づきが間に合う」という実体験の話|プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんとホームさんからの教え」

参照記事4:「タイ・スカトー寺副住職スティサート師講演会|浦崎雅代さんの通訳ツイキャスを受講・聴聞しました」

参照記事5:「「自己都合・自己所有の過剰」に気づくプッタタート師の智慧|浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスからの学び」



私は、浦崎雅代さんのお陰様で、プッタタート師やパユットー師の話にも、出会わせて頂きました。

日本にいながら、タイの仏教に触れる事が出来る、スカトー寺で実践されている事に触れられるのは、プラユキ・ナラテボーさんや浦崎雅代さんの活動という、有り難き善知識のお陰様です。

魚川祐司さんが仰る通り、タイの仏教、タイのお坊さんの説法を、日本語に訳して下さる浦崎雅代さんは、大変有り難き良縁であり、貴重な存在という事には、私も同意しております。



最も、凡夫で理解力に乏しい浅学な私は、それをきちんと頂けていなかったり、不備なる部分も多々ありましょうが。

私ごときが彼ら彼女らを「大変貴重な存在」とか、そういう言い方をすることも、おこがましいと思う今日この頃。

だからこそ、学び続けるのでありますがね。



合掌、礼拝

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