自称「自由人」が不自由な件|自己啓発やネットビジネス系のいう「自由」が特に酷い

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。

あなたは「自由」というと、どのような事を連想されるでしょうか。
自己啓発系の世界やビジネスの世界では、「経済的自由」「環境的自由」だとか、「人間関係の自由」など、そんな使われ方もする言葉や概念であったり致します。

私が潜入したことがある、某A.I氏の自己啓発セミナー(と言う名の詐欺セミナー)では、「私は、自由だ-!」と、お客様に叫ばせるという愚行をしでかしておりましたが、そこでも「自由」が頻繁に使われておりました。

最近でしたら、「自由人」だとか、自称する輩もおりますわな。



インターネットビジネス系の自由人の言う「自由」というのは、パターンがありまして、私などは「これのどこが自由なんだ?」と、思うたり致します。

それは、「自由」という概念が、あまりにも幅が広すぎて、個々によって自由の定義が違うためでありましょう。



そこで、在家仏教者である私の、現段階における「自由」の定義を元に、改めて「自由」について考える機会と致します。

そして、自称「自由人」が、実は如何に不自由で幼稚である場合(ケース)もあるかという事を、実例を踏まえてお伝え致します。

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自称「自由人」さん、そもそも自由の定義ってなんざます?

インターネットビジネス界隈では、よく自称「自由人」だとか、「経済的自由を手に入れた」だとか、そういう事を言う輩がおります。



そもそもとして、私は「自由人」という人種について、ようわからんという立ち位置なのですがね。

アウストラロピテクスとかネアンデルタール人とか、はたまた「自由」という国の人なのか。



自称「自由人」とは、すでに人間止めた我利我利亡者であるという事が多いという印象があります。



そんな自称自由人さんに、私は問いたい。

「自由」の定義とは、なんざましょ?



自由自由と言いますが、自由について改めて問われると、返答に窮すると言う事、御座いませんかね。

自由人を自称するならば、「自由」と「自由人」を自分なりに定義づけて、尚且つ説明出来ますよね、自称自由人さん。



ちなみに、私の場合は「フリースタイルな在家仏教者」と自称しておりますけれども、その定義を申し上げますと。



これは「フリースタイルな僧侶たち」をパクらせて頂きまして、特定の宗派に囚われすぎない在家仏教者として仏道を歩む、という定義付けをしております。

あまり宜しくないと思われる表現としては、「節操なし」とも言えますが。

基本的に、私は浄土宗の檀家ゆえに、浄土宗形式の勤行と、浄土仏教のみ教えを大切にして軸に据えてはおりますが、坐禅もしますし瞑想もします。

そして、在家ですから娑婆世界で日暮らしを営みながら仏教・仏法を学び続ける者、と言うのが、「フリースタイルな在家仏教者」の定義です。



ちなみに「フリー」とありますが、実はこの後の話に続く事でありまして、「フリー=自由」とは、ちょいと違います。

私の「自由」の定義

自由の定義について、上で自由人さんに尋ねて見ましたが、だったら私の「自由」の定義は何なのか。

仏教、とりわけ禅語を学んだ事がある人なら、恐らく一発でピンとくるかと存じます。



私の「自由」とは、「自らに由る(みずからによる)」という定義付けをして、そのように活用しております。

そして、巷・娑婆世界における、特に現代社会で使われている「自由」とは、方向性が全くもって違っていると言えましょう。



現代社会における「自由」は、言い換えれば「自分都合でいられる事」ではありませんかね。

「自分の都合の良いように出来る事」「わがままでいられる」というのが、現代社会の自由の定義と言ってもあながち間違ってはおらんかと存じます。

実際「こうするのは俺の自由だ」なんて使われ方がよく為されますし、自由人さんもそういう文脈で使っているであろうとお見受け致します。



自己啓発系であったり、ネットビジネス界隈の自称「自由人」は、大抵このパターンです。

私が定義づけている、頂いております「自由」の定義は、それとは全く違います。



そもそも「自由」とは仏教用語の一つであり、仏教者である私は、「自由」の意味や定義も、仏教用語の意味・概念として頂いております。

そして、その意味と概念をわかりやすく説いたのが「自らに由る」です。



もっとわかりやすく、英語を使って解説致しましょう。



仏教における「自由」は、言うなれば「selfish」です。

仏教学者の鈴木大拙さんは、「自由」を「self-reliance(独立独行)」と訳されていて、見事な英訳であろうかと思います。

外に求め依拠せず自らに由る、これが仏教における「自由」の一つの定義です。

もっとも、言葉や物事を定義付けした瞬間、すでにそこには「不自由性」も見出すわけですから、なかなかに仏教には難解な部分も御座いますがね。



一方、自称自由人さんがお好きなのは「freedom」でありましょう。

「勝手気まま、わがままに、自分都合で」という意味として捉えると、わかりやすいかと思われます。



これだけでも、仏教者である私と、巷の「自由」の定義に、乖離が有る事が読み取れるかと存じます。



ちなみに、自由の定義については、「選択肢の多さ」も、定義として一つあげられるという事は、以前お伝えした事がある、やまもとりゅうけんさんも仰っています。

参照記事:「「自由人」を名乗ってはいけない本当の理由」



自由について、意味や概念を深掘りしたい人は、一度読んでみられると宜しいかと存じます。

私も、自称「自由人」に対して、感覚的に「キモさ」や「幼稚さ」を感じておりますが、「ああ、こういうことも一つの理由としてあるかも」と、やまもとさんの記事から気づかせて頂いたもので御座います。



「自由」の概念については、そもそも人によって定義が違っており、主観的概念に過ぎないというのは、まさにそうです。

私の仏教的な自由という概念の頂き方も、結局は私の主観ですからね。

それを押しつけたところで、反発されるのがオチでありましょう。

ゆえに、私に対して「自由を手に入れたいと思いませんか?」というキャッチフレーズ(宣伝文句)で何らかの商品やサービスを売り込まれても、「何を言っているんだ?」となります。

「自分に由るを手に入れるとはなんぞや?」と。



ほんと、わざわざ「俺は自由だ-!」とか叫ばれてもねえ。



潜入した自己啓発詐欺師のあんちゃんも、読むべきです、やまもとさんの記事と、今回の私の話。

アンソニー・ロビンズさんとのツーショット写真を自慢している場合ではありませんよ、その時点で、アンソニー・ロビンズさんに寄りかかって、全然自由ではありませんから。

その事に気づいていないから、幼稚なのでありましょうがね。



ちなみに私は、自称「夢追い人」も、気持ち悪さや幼稚さを感じる事がしばしば御座います。

「夢追い人」ではなく「夢老い人」になってませんかね。

夢は就寝中に見て、寝言も就寝中におっしゃい。
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仏教の「自由」から観るとみえてくる自称「自由人」の不自由さ

自己啓発系ビジネスであったり、ネットビジネス系の自称「自由人」は、仏教的自由から観ると、色々と見えてくる事柄が御座います。



例えば、典型的なのがネットビジネス系でよくありがちな「PC一台で場所を選ばない自由なワークスタイル」というやつです。

「PC一台あればスターバックスで仕事が出来る自由人な俺かっけー!」というやつですね。



確かに、PC一台あれば、スターバックスでも前田珈琲でもコメダ珈琲でも仕事が出来る有り難い時代になったものです。

それこそ、場所を選ばない、というのは確かで御座いましょう。



なるほど、「場所の自由」というのは、「自分都合で、自分のわがままで仕事をする場所を選べる」というのは、一理あります。

しかしですね、「PC一台あれば」というところを、私は見逃しません。

だって、逆を言えば、PCが無ければ、仕事が出来ないではありませんか。

仕事の仕方が自らに由っておりませんがな、PCに寄りかかっておりますがな。



こういう事を見聞きすると、私はあるお坊さんの言説を思い出し、「自由と言いながら不自由に気づいていない幼稚さ」を、思い出すわけです。

「仏教のぶっ」という本で、このような話が御座いましてね。

仏教のぶっ 仏教はじめの一歩

仏教のぶっ 仏教はじめの一歩


  • 作者:真城義麿
  • 出版社:東本願寺出版部
  • 発売日: 2015-04-15
本の著者であるお坊さんは、「テレビを観るのは、俺の自由だ!」と、子供の頃に僧侶である父親に発言したそうです。

そうしたら、父親は「お前はテレビに縛られていて、全くもって自由じゃないじゃないか。」と、諭されたとか。

テレビを観るという自分都合の行動を、「自由」という言葉で、格好付けているだけであるという事を、この話から私は頂いたもので御座います。



この事を踏まえると、先ほどの「環境の自由、ノマドワーカーとして場所に縛られない自由」というのも、見方が変わってきませんかね。

「働く場所を自由に」と宣いながら、実はすでに「場所・環境」という概念に囚われてしまっている、その事に気づいていないという姿が見えます。

自由人を自称する輩に対して、こういった「自縄自縛」に気づいていない幼稚さも、私は垣間見るわけです。



全然、自らに由っておりませんがな。

スターバックスに寄ってますがな。



いや、スターバックスが悪いのではありませんからね、私はスターバックスの「本日の珈琲」を楽しむ事は稀にありますし、カフェラテをよく飲んでいた時期ありましたし。



そもそもとして、自称「自由人」は、「自由人」という枠組みに自己を予め措定している時点で、freedomからもself-relianceからも離れていることに、気づいた方が宜しいかと存じます。

自称「自由人」は結構ですが、気持ち悪いとかうざいと言われたく無いなら周囲に押しつけないように

自称「自由人」には、痛々しい輩もおります。

恐らくそれは、自由の定義が曖昧で、単に格好付けたり、自己愛であったりイメージだけで使ってしまっている幼稚さも、一要因でありましょう。



「自由」という言葉と概念は、雲を掴むような話ですからね、やまもとりゅうけんさんが仰る「言葉自体が危険性を帯びる」というのは、同意するところで御座います。

そもそもとして、仏教では言葉に対しては凄く慎重でありますからね。

私がことある毎に「この言葉はこういう定義で使っております」と、注釈を入れることが多々あるのは、そのためです。



言葉を使う場合、「私はこういう定義で使っております」という事を明示することを大切にしておく事が肝要で御座いましょう。

そういった注意深さや慎重さが、自称「自由人」には欠けている傾向が御座います。



こういう、痛々しくて気持ち悪い自称「自由人」、特にインターネットビジネスであったり自己啓発業界の自由大好き我利我利亡者や詐欺師は、反面教師として活用するのが、よろしかろうと存じます。



間違っても、きゃつらのように、「私は、自由だ-!」とかお客様に言わせたり、押しつけたりせんように。



合掌、礼拝

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