奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」となら仏像館の感想文|待ち時間なく混雑も無かった平日の観覧

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日から、行きたいと思うておった、奈良国立博物館で開催された「源信:地獄・極楽への扉」に行って参りました。

この特別展示は、「恵心僧都源信」、私は源信和尚と呼ばせて頂いておりますが、2017年が丁度、源信和尚の没後1000年という事もあっての催しでありましょう。



源信和尚と言えば、浄土仏教・お念仏と共に生きる私としては、外せないお坊さんであります。

源信和尚と地獄・極楽の展示会は、かねてから一度は行きたいと思うておりましてね、丁度時間も出来たところで、奈良国立博物館まで、脚を運んだというわけです。



2017年の7月と言えば、丁度夏アニメの時期に「地獄少女・宵伽」がAbemaTVで放送中であり、時節としてもどんぴしゃりであるとも、味わっております。

閻魔あい嬢なら、鬼灯の冷徹に出てくるような閻魔大王でしたら、さくっと地獄流ししてしまいかねない気が致しますがね。

対抗出来るとしたら、鬼灯様辺りでありましょうか。



それはさておき。



今回は、奈良国立博物館で開催された「源信:地獄・極楽への扉」と、チケットを購入すれば同時に観覧出来る「なら仏像館」について、レポートと言いますか、感想文的な話を致します。

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奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」の様子:平日は待ち時間なく混雑もしていなかった

こういった催しは、やはりあなたも気になるところが、待ち時間と混雑状況でありましょう。

ゆえに、まずはその辺りから、さくっとお伝えしておきます。



私が奈良国立博物館へ赴いた日は、金曜日・巷では平日という事も有り、待ち時間もなく混雑もしておらず、すんありと観覧出来ました。



恵心僧都・源信和尚の没後1000年という節目の年であるとはいえ、なんでしょう、そこまで皆さん注目はしておらんのでしょうかな。

待ち時間なく混雑もしていなくて、さくさくと見て回れたのは有り難かったのですが、こう、地獄・極楽については、現代社会では関心事の外側という人も、多いのかもしれません。

来られていた方々は、海外からの人も1割から2割いらっしゃいまして、この辺りは、観光地という事もあるのでしょう。



また、若い人達も結構いまして、お客様の年齢の幅は広かったと言う印象が御座いました。



待ち時間や混雑状況、会場の雰囲気は、ざっくりとこんな感じです。

奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」の地獄エリア

今回、私が赴いた奈良国立博物館の「源信:地獄・極楽への扉」では、源信和尚に関連する様々な展示品を、閲覧することが出来ました。

まあ、当たり前ですがね、そういう展示ですから。



有名所でしたら、「恵心僧都源信像」の絵が見どころでありましょうか。

もしかしたら、教科書であったり、本で肖像画を観たことがある人もいらっしゃるでしょうし、「あ、あの絵だ。」と、会場でピンと来られる人もいらっしゃいましょう。



奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」において、地獄の扉を垣間見たい人は、第三章会場が、見どころで御座います。

最大の見どころと言えば、やはり「往生要集」と、その世界が視覚的に表された、地獄・極楽の絵図でありましょうか。

往生要集の現代語訳であったり、「鬼灯の冷徹」を読んだ事がある人ならば、ある程度はピンとこられるやもしれません。



また、地獄についての会場には、強面の閻魔大王の像もありましてね、迫力がありますよ。



地獄会場で、現代社会における我利我利亡者、餓鬼道におる詐欺師などは、特に「餓鬼草紙」「地獄草紙」「六道絵」辺りを、刻みつけると宜しかろうと存じます。

人様の財産をだまし取る我利我利亡者の末路を、見て取ることが出来ましょう。



私個別としては、地獄・極楽のエリアにて注目したのは、地蔵菩薩です。

私は、京都の至る所にあるお地蔵さんを見付ける度に、会釈したり合掌・礼拝する習慣が御座いましてね。

奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」にて、地蔵菩薩の像と出会わせて頂く度に、合掌・礼拝したものです。



周囲の人からは、「なんだあの人?」と思われたかも知れませんがね。

それでも、自然と頭が下がり掌が合わさるのですから、致し方なし。

こういうところに気づく度に「やはり私は念仏者なのであろうなあ。」と、改めて己を観るところに御座います。



念仏者と言えば、時宗の一遍上人の絵巻もありまして、これがなかなかに、興味深いものでありましてね。

確か第二章会場の「一遍聖絵:巻七」だったと記憶しておるのですが、そこで一遍上人と出会う事が出来ます。



が、私はこれを観ても、最初はどこに一遍上人がおわしますのか、把握出来ませんでした。

まるで「一遍上人を探せ!」と、某ウォーリーのような見方になってしまっておりまして。



私は、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申しながら、一遍上人を探してみたものです。

奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」の極楽エリア

奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」にて、私が「ああ、有り難や有り難や」と、来て良かったと思えた場面が御座います。

それは、極楽エリアで法然上人絵伝に出会えた事です。

この辺り、家の宗派が浄土宗であり、法然上人の御教えと毎日で合わせて頂いております事、また私自身が念仏者であると自覚的に生きておる事によりましょう。



源信和尚と、彼が記した「往生要集」は、後の浄土仏教に大きな影響がありまして、法然上人も親鸞聖人にも大きく影響したと言われており、受け継がれております。

法然上人は、往生要集にて善導大師の思想と出会われていますし、親鸞聖人は正信念仏偈にて、善導大師と源信和尚と法然上人を七高僧として読まれています。

正信念仏偈では、「善導独明仏正意」と、善導大師が登場するところから節が変わりまして、何らかの影響の現れでは無かろうかと、勝手に考えております。



このように、後の浄土仏教に大きな影響を及ぼした源信和尚の展覧会にて、法然上人に関連する展示があるのは、必然とも言える感じが致します。



法然上人絵伝では、法然上人と縁のある人物が往生を遂げる様子が描かれておりまして、阿弥陀仏の来迎も観る事が出来ます。

「南無阿弥陀仏にて極楽往生を遂げる」という救いの教えは、地獄を観て回ってからという事もあってか、なんだかこう、ほっと救いを感じるもので御座います。
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奈良国立博物館「なら仏像館」もなかなかに

今回、私はかねてから行きたいと思うておりました、「源信:地獄・極楽への扉」を観て回った後、時間がありましたから、同じチケットで観覧出来る「なら仏像館」にも脚を運びました。

「なら仏像館」は、「源信:地獄・極楽への扉」とは別の場所にありまして、鹿を避けながら、いざ「なら仏像館」へ。



「なら仏像館」には、数々の仏像が展示してありまして、私はここで「南無阿弥陀仏」を称えながら、合掌・礼拝をすることとなりました。

大小様々な阿弥陀仏や菩薩がおわしましてね、阿弥陀仏と出会わせて頂く度に、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と、口からこぼれたもので御座います。

これまた、警備員のおっちゃんや、周囲の人達からすれば、「なんだこやつは。」という事になったことでありましょう。



こちらも、待ち時間がなくて混雑していなくて、すんなりと観覧する事が出来ました。



今回の奈良紀行は、味わい深い時と相成ったもので御座います。

奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」の感想と言いますか、考えた事

今回の、奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」にて、私は考えた事と言いますか、改めて考えさせられた事が御座います。



現代社会においては、地獄・極楽というても、特に若人にとっては、ピンとこない事柄であるやもしれません。

両親や祖父母、周囲の大人達から、地獄・極楽の話を聞く機会も、少なくなってきている可能性を観ておりますがゆえに。

それに、地獄・極楽の話をすると、やれ宗教的で非現実的だのと、そういう言われ方をする事もありましょう。



科学の力が強いと私の手前勝手な感覚ですが、地獄・極楽の話は非現実的で、輪廻と言うと馬鹿にされることすらある、なんてことも、ある気が致します。

「え?このご時世で、輪廻とか来世なんて信じているの?」とか、なんとか、ね。



その割りには、「君の名は。」の「前前前世」がヒットするという現象があったものですが。

前世は来世とセットで語られる事でありましょう。

前世の次は来世、今を前世から生じた来世であるとすれば、自ずとその構造も見えましょうし。



私はなにも、輪廻や地獄・極楽の現実と非現実の議論をしたいわけではありません。

ただ、個別的な感覚・感性から、地獄・極楽の話というのは、無下に否定する事もなかろうという立ち位置に御座います。



そりゃあね、私だって証明は出来ませんよ、地獄や極楽浄土があるとかないとか、科学的に証明は出来かねます。

ただ、少なくとも1000年以上も前に、「往生要集」にて源信和尚が事細かに地獄と極楽の様子を記して下さっている事からも、そういう世界観なり概念、話を持って置く事は、娑婆世界を生きる上で一助となると、私は頂いております。



私は、子供の頃から「悪い事をすると地獄へ落ちるよ。」「良いことをすれば極楽へ行けるよ。」というような話を聞いて育ちました。

あなたは、こういう経験ありませんかな。

指占いか何かで、自分の名前分コマを進めて、「天国・地獄・大地獄」コマを進めていき、他界した時に自分がどこへ行くのか、行き先を占うという、遊びだか占いだか、私の子供の頃にはありましてね。

あれで「大地獄だ」とか言われたら、なんだかいたたまれくなるという情緒が、すでに私の中で育まれておりました。



それが年を重ねるにつれて、ある時期から、「地獄とか極楽なんて、見えないし、行って帰ってきた人はいないから証明のしようも無い」と、一時は全否定的な考え方も持っておったものです。



確かに、科学的な証明は困難でありましょう。

今時、「お天道様が観てるよ。」と行ったところで、「何を言ってるんだろう?」と思われるというのがオチだ、という事もわかります。



ただ、私は「宗教はブレーキ」という、五木寛之さんが仰る事は、確かに有るなあ、とも感じており、そのブレーキを担う一つの話が、「地獄・極楽の扉」であると、味わっております。



「悪い事をすると地獄へ落ちるよ」というのは、確かに非現実的な話かも知れません。

しかし、これはある種の抑止力にもなりますし、時刻へ落ちないために己を顧みる「脚下照顧」を実践するきっかけであり、智慧の一つであろうとも、頂いておるのです。



また、私は六道輪廻は娑婆世界の事であり、悪い事をしたら地獄へ落ちるというのは、娑婆世界ですでに地獄を見る事になる、という解釈もしております。



今回の、奈良国立博物館「源信:地獄・極楽への扉」にて、次のようなことを、帰りの電車の中、立ったまま、次のようなことを考えました。



「地獄・極楽は、忍度にて七仏通誡偈を為して生きる道標となる話である」



地獄へ落ちず、阿弥陀仏の来迎によって極楽へ往生出来る生き方をする努力なり在り方を養う智慧として頂く、このような味わいを感じたもので御座います。



合掌、礼拝

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