個性とは何かを考える|念仏会で体験して気づいた個別・個体の味わい

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



巷では、「個性的である事」や「個性」が、何やら重要な事柄として言われているように感じる今日この頃に御座ります。

芸能界では「個性派俳優現る」とか、言いますわな。



個性と言えば、「ナンバーワンよりオンリーワン」という文言は、一時流行っていたような、そんな気も致します。

私が就職活動をしていた頃、京都のどっかの茶を製造販売していた企業は、「オンリーワンよりナンバーワンが、社長の言い分で云々」と、企業説明会で言っていたなあ、と、懐かしく感じるところであります。

オンリーワンというのも、個性的である事、個別性が際立っているように、という事を意味していたり、内包しているよな気がするのですがね。

「自分らしさ」というのも「個性・個性的」の言い換えのような、そんな印象も御座います。



また、現在の娑婆世界は、グローバル社会だボーダレスな時代・境界が曖昧だとと良いながら、やれ個人の時代だの、個性が大切だのという言説も流布されているような、そんな空気を感じます。



個性個性とは言うけれど、では、「個性とは何ぞや?」と、改めて問うてみたところ、私自身、上手く説明出来ないことに気がつきまして。

個性とは何ぞや、と、問う事も怠っていたなあ、と、己を顧みて凡夫の性質に打ちのめされている最中、ふと念う事が御座いまして。

それは、以前から行じております、24時間不断念仏会などの念仏会へ参加させて頂いて居る時の体験で、「これが個性の鱗片ではないか」と、念う事がありましてね。



今回は、私が体験した、「個性とは何ぞや」という問いの、一つの道標になりそうな、そんな話を致します。

抽象的でふわふわした、地に足が着いていない話になるかとは存じますが、お楽しみ頂ければ嬉しゅう御座います。

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個性とは何か、英語から当たってみました

個性個性と言うけれど、やれ個性的であれ、やれ個性を磨けとは言うけれど、では、「個性とは何ぞや?」と問われると、ばしっと応えられぬ私。

また、「あなたの個性とはなんぞや?」と、私の個別性や個体の属性を問われると、またもや返答に窮する私です。

「念仏と出会わせて頂いて居る者です」というても、「南無阿弥陀仏」の文字や音と出会っている人は、皆さん念仏と出会わせて頂いて居るわけでありまして。

ゆえに、私個別の体験では御座いませんし、果たして私の個性・個別性や固有属性を担保しているかと問われたら、また応えられぬ事に御座います。



どうにも「個性とは何ぞや」に応えられぬ私は、以前からやっているように、多言語から、今回も英語から当たってみることに致しました。



個性とは、英語で表現するならば、「personality」「identity」辺りが、よく使われるのではなかろうかと存じます。

私が使っているATOKでは、「個性」で変換すると、この二つが出て来ます。



また、これは私の語感ではありますが、最近ですと、「個性的であれ」というのは、独創性の事も言われていると観じているために、「originality」も、個性を説明する英語になり得るかな、と思うております。



言語的に、英語も活用してみると、なるほど、と思うところはあるのですが、いまいち、これでは言葉の勉強でしかないなあ、とも思うところに御座います。

念仏会(ねんぶつえ)にて「個性とはなんぞや」を朧気な柄に観る事が出来た体験

英語にも当たって、言語的に「個性とはなんぞや」を探ってみましたが、英語の勉強にはなったものの、いまいち腑に落ちきらないところにあります。

意味や定義、概念が腑に落ちるというのは、体験・体感を通してというのが肝要であると言う部分も御座いましょうからね。



そんな最中、ふと、「個性とは何ぞや」の問いに対する解が、朧気な柄に観えたかもしれない、という事が、念仏会にて御座いました。



私は、以前から申し上げている通り、24時間不断念仏会に参加させて頂いておりまして。



参照記事:「増上寺第12回24時間不断念仏会体験記前編|ただ一向に念仏すべし」

参照記事2:「増上寺第12回24時間不断念仏会体験記後編|在家仏教者で念仏者の感想文やら体験談やら」

参照記事3:「第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院(浄土宗)前編|京都御苑の東で南無阿弥陀仏」

参照記事4:「第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院後編|悪人の自覚から逃れられぬ者を救う教え」



24時間不断念仏会では、只管に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を口に称えながら、木魚を叩き続けます。



この木魚を叩くという行為ですが、完全一致するというのは、滅多にありません。

お堂での行は、全く同じ事をやっていますし、リード役として大木魚があって、その大木魚の音に合わせて、自身の木魚を叩くのですがね。

それでも、なかなかに合わんものです。

「ぽぽく」「ぽくく」と、どこかでずれて進むお念仏の行。



ただ、ただですね、極稀に、一致して「ポク!」と、綺麗に揃う時があるのですよ。

本当に、お堂内の木魚の音が、一つになって響くという瞬間が、稀に御座います。

その時、「あ、揃った。」と思うのですが、次の瞬間には、また「ポクク」と、ずれたりするのですがね。

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同じ事を行じて揃い一致しても、個性・個別性が無くなったわけではなく、むしろ際立ってくる

複数人で木魚を叩きながらお念仏を称えて、木魚の音と「南無阿弥陀仏」の音が一致する瞬間。

この瞬間、確かに音や行そのものは、揃った事かも知れません。

この時、確かに「皆一つに揃った、「一つになった」というやつか」と、思う事もあったのですが、一方で、こうも思うたのです。



「同じ事をして、それが綺麗に一致したけれども、一人一人の個性なり個別性・個体の特徴が無くなったわけでは無い」



確かに、木魚の音そのものは、一つの木魚を叩いているという程に、音が揃っております。

しかし、その叩いている音源となる人の営みは、骨格も違いますし、身につけているものも違います。(数珠は身につけているという共通点はありますがね。)

それに、木魚を叩いている人の力加減や、その人にまつわる背景、物語も、その一致する音に至るまでに辿って来た人生そのものも違います。



また、音が一致した時、何を考えていたかも違っていた可能性もあります。

もちろん、全員が全員、三昧になっていたかもしれませんし、ある人は「晩飯まだかな」、他の人は「お、揃った。」とか、別の人は「そろそろ和蝋燭変えた方がよくない?」とか、思うるかもしれません。



一つの事でばしっと一致しても、だからこそ、別の個別性・個体特有の何かが観えてくるという事があるんだなあ、と、念うに至りまして。

そこから、「同じ事をやっていたとしても、どうしようもなくにじみ出る個性や個体別の特徴は、あるのではなかろうか」という事にも気づくに至りました。



そして、この事に気づいてから、「肩肘張って、個性個性と個性を出そうとしなくても、肩肘張らないで自身の個性を見出す方法もあるのではなかろうか。」とも、考えるに至っております。



なんだか、当たり前の事を言うておる、今更ながらの話にも感じるのですが、ただ、体験を通して、このことが、ふと腑に落ちた感覚が御座います。

個性を見出す、個別性や個体性に気づく方法やヒントを、禅僧の智慧に観る

「それでは、己の個別性なり、個性を見出して、磨くにはどうすればよいのか?」と、今度はそういう問いにぶち当たりましてね。

腑に落ちたり、一つの解に出会わせて頂いたり到達すると、別の問いを発するという、なんとも面倒な性格・性質の私です。

あ、この性格・性質も、個性の内に入りますかな。



それはさておきまして。



己の個別性・個性を見出す方法の一つに、念仏会の体験から、ある禅僧の話を思い出しました。



これは、恐山院代を勤められている、曹洞宗の禅僧であられる南直哉さんの本「なぜこんなに生きにくいのか」の、39ページに書いてあることを参考にしております。




禅宗の専修道場での修行は、皆が一斉に同じ事を行じる、という事があるとの事。

雲水(禅宗の修行僧を「うんすい」と呼ぶそうです)が揃って坐禅を組んだり、一斉に掃除をする、御経を読み上げる、等々の行が御座います。

中でも、ただ坐る、という坐禅においては、ただ坐るということですから、個性の出し用が、凡夫である私にはようわかりません。

禅寺での生活は、規範・規律、規則ががちがちに縛れているという事らしく、私が初めて坐禅を教えてもらいに行った、東福寺塔頭寺院の和尚さんも、そのような話をして下さったなあ、と、思い出します。



びしっと決められたルール・規則の中で、役割・当番の違いがあったり、その当番の交代があるにはあるけれども、同じ行を日々繰り返す修行。

ただ、同じ事を同じようにやっているのに、どういうわけか、「こうも違ってくるとは」という事になってくるそうです。



恐山院代・南直哉さん曰く。

一番個性的な集団というのは、実はルールのきついところに放り込んで同じ事をやらせてたときに、きわだって出て来ます。

※南直哉さん著「なぜこんなに生きにくいのか」39ページより引用



この話は、私個別としては「なるほどなあ。」と頷くところで有り、過去の経験からしても、確かに、と思い当たる節が御座います。



あなたにも、あったりしませんかね、こういう体験。

同じように、神野束をホッチキスで留めていく作業をしていると、ふと「あ、これはあの人がやってくれたやつだ。」と、わかるとか。

合唱をする時に、音量も音程も一致しているのに、誰某の声がわかる、等々。



この事から、一見すると無個性な事柄と思える事に身を投じてみる、というのも、自身の個性を見出す一つの方法ではなかろうかと、私は頂いております。



そうして、どうしようもなく隠しきれない個性・個別性や個体性、個体特有の特徴に気づく事が出来れば、それは磨くべき事か否かを検討する段階へ進む事も出来ましょう。

では、具体的にどうやねん、という話については、それこそ千差万別、個々によりけりですから、具体例をここで申し上げられないのは、私の能力の無さによります。申し訳ない。



ただ、「個性的にならねば」と、躍起になっている人にとっては、一つの道標となり得ましょうし、また、「そもそも個性とはなんぞや、本当に個性的にならねばならんのか?」と、一度立ち止まって問いを建てる事にも繋がりましょう。

個性とは、個性的とは、こちらから見出すよう努めてみるのも大切かも:自戒を込めて

今回は、「個性的とは何ぞや」という問いから、私が関連する体験や、お坊さんの智慧をお伝え致しました。



実は私、子供の頃から「お前には個性が無い」とか「存在感が薄い、むしろ、無い」とか、よう言われてきました。

就職活動の時も、散々、無個性だのなんだのと、言われたものであります。



このような経験を経ている私ではありますが、私が経験してきた個別的体験や、それによって紡がれてきたナラティブ(個における代替不可能な物語)は、どうしようもなく、ただ在る事柄でありましょう。

そして、それは私にとって他者(人だけではなく、あらゆる物事)においても、皆様方が(あなたも含めて)背負っている、付随しているものでもあろうと、私は頂いております。



一方で私は、自身が無個性と言われたことへの反発からか、「あの人は個性が無いね」と、言いたくなる事が御座います。

まさに、反発の煩悩、瞋恚の煩悩燃えさかるがゆえの業に御座ります。

この瞋恚の煩悩からなかなかに逃れられんから、私はなかなか人になれぬ、修羅界から脱する事が出来ぬ凡夫なのですがね。



しかし、そこに気づいた以上、相手を無個性と無下に批判するのではなく、無個性と言いたくなった時には、「私は相手の個性・個別性を見出すことを怠っているだけではなかろうか。」と、己を問う様にしとう御座います。



肩肘張って個性的になろうとするのではなく、相手の個性・個別性や個体特有の特徴を見出す事を怠り批判するのではなく。

ふとした時に見出した時、顔を出した時に、磨くと宜しい事ならば磨けばよし、向き合ってそのままにしておいた方がよいならばそうあればよし。



個性とはなんぞや、という問いと、よい塩梅で付き合い続けていきたいもので御座います。



合掌、礼拝

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