インプットとアウトプッ トの意味|境界が曖昧で私は関係・縁起を見出す

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、インプットとアウトプットという言葉の意味や概念をご存じでしょうか。

自己啓発本には、大体「アウトプットが大切だ」と書かれている事が多かったなあ、と、自己啓発本を読み漁っていた時代を思い出しております。

最近の、NC(なんちゃら)コンサルタントやブロガーなる者達も、アウトプット至上主義的な言説を垂れ流したりもしておりまするね。

大抵は、「インプットばかりだと駄目だ、アウトプット有りきだ」と、そんな感じで。



私の体感覚としては、インプットもアウトプットも相互に関連していて、そこに縁起を見出しております。

因縁果を、インプットとアウトプットに見出す私は、仏教思想がいよいよ根強くなってきておるのやも知れません。

まあ、この辺り、仏教・仏法のインプットとアウトプットを、毎日しているからでありましょうが。



今回は、巷で言われているインプットとアウトプットの意味と在り方を、改めて問い直す回と致します。

インプットとアウトプットの意味を問い直し、ご自身で程よい塩梅・バランスで、インプットとアウトプットを頂かれたら、嬉しゅう御座います。

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そもそもの話:インプットとアウトプットの意味

インプットとアウトプットの意味と概念を学び、自身のバランスを調える前に。

前提知識として、まずは「そもそも、インプットとアウトプットの意味とはなんぞや?」から、勉強し直すと致しましょう。



インプットとは、意味を一言で言えば「入力」です。

アウトプットとは、「出力」です。



はい、終了、では味気なし。



現代社会・娑婆世界において、インプットというと、勉強する事や知識を脳細胞に詰め込んでいくことも、意味や概念として付与されているという空気を感じます。

アウトプットとは、学んだ事を現象・現出・表現するという事ですね。



例えば、プログラミングの話を使って譬えると、わかりやすいかと存じます。



私は現在、ちょいとサボり気味ではありますが、RubyとRuby on Railsを学んでおります。

「学んでおります」というのは大抵はインプットに分類されるもので、本を購入したりProgateのスライドを呼んだりする部分が、インプットに該当します。

一方、Progateの演習課題をこなしたり、この寺院(ブログ)で学んだ事を解説したり、実際にプログラム・アプリケーションを作成する事は、アウトプットに分類出来ましょう。



RubyとRuby on Railsの知識をインプット(入力)して、それをこの寺院(ブログ)などでアウトプット(出力)する。

Ruby風に言うならば、getsしてputsした、というところでありましょうか。



インプットとアウトプットの意味は、こんなところであります。

現在のインプットとアウトプット事情:インプット悪玉論とアウトプット至上主義

インプットとアウトプットの意味を学び直したところで。



現代社会において、特に、所謂インターネットビジネス系と言いますか、ブロガーなる人のブログを読んでいると、大抵は、アウトプットに重きを置いているというという傾向が見られます。

まあ、アウトプット至上主義と言いますか、アウトプット教的な宗教に走るのも、それはそれで一つの在り方ですから、否定は致しません。

そういう人で、その在り方がしっくりくるなら、それも宜しかろう。



問題は、そこまで「アウトプットアウトプット!」と言う性質ではないにも関わらず、それらの言説に感化されて、無理矢理アウトプット体質にしようと、意気込む場合です。



そりゃあね、自身の事柄、学んだ事を社会の役に立てようなど殊勝なことを思うたら、活動するという形でアウトプットする事も大切でありましょう。

また、そのような言説を宣う輩の中には、インプットを軽んじることを輩もおります。

「アウトプットするから、インプットできるんだ!」とか、自己啓発本で読んだりした人、いらっしゃいませんかね。



「インプットばかり、勉強ばかりして詰め込んでも、頭でっかちになるだけだ」とか、私もよう言われたものですよ。

本を読んでいると、頼みもしないし呼びもしないのに、「そんな事ばかりしても頭でっかちになって動けなくなるだけだよ」と、批判されてきたものです。

ファイナルファンタジー3の学者ばりに、本や辞典で16回ヒットしてやりたくなるくらいに、批判されてきましてね。

勉強したら勉強で批判され、勉強しなかったら「勉強しなさい」と批判され、批判されまくる私。



ちなみに、この「インプットアウトプット論」を巧みに組み立てて、こちらを揺さぶって金銭を奪うという我利我利亡者もおりますから、要注意。

自己啓発に毒されたり、ちょっと金銭を稼げて自己啓発的ビジネスの毒が全身に回った輩は、インプット悪玉論とアウトプット至上主義の宗教にはまり込んでいる危険も見受けられます。

アウトプットすれば良いというものでもない:意味が無いばかりか害悪にすらなる

なんだか、アウトプットを批判するような言い方をしましたが、私は何も、アウトプットを悪者扱いしているわけではありません。

(みっともない言い訳に聞こえそうですがね。)



アウトプットの大切さは、私もプログラミングであったり、仏教・仏法を学び実践する者として生きている事からも、体感として持っております。

ただ、アウトプットの大切さは体感しているとしても、なんでもかんでもアウトプットすれば良いってわけではありません。

アウトプットをした事は意味が無かった、というなら、まだ無害ですが、アウトプットしたために害悪をまき散らす、なんてことも娑婆世界ではしばしば見受けられます。



典型的なのが、コンサルタントのコの字も知らん我利我利亡者が、詐欺師の一歩目として、「ブログコンサルします!」とか抜かして、金を取ってアウトプットする、あれです。

私もね、金銭はたいて潜入した事もありますが、まあ、地獄流し決定(けつじょう)レベルでした。



そりゃあね、コンサルタントは勝手に名乗れますし、やる側にとっては格好のアウトプットの場でありましょうや。

実情は、お客様が拙いアウトプットの実験台にされるわけですがね。

しかも、金銭と時間を奪われながら。

酷い場合には、「お客様扱いしません!」と抜かして、無責任なアウトプットを押しつけるという始末。



何でもかんでもアウトプットすれば良いって話ではありますまいて。

いかがせん、いかがせん。



そして、そういう輩は大概、インプットを疎かにしてきた上で、意味不明なアウトプットをしております。(大概って言っても、管見の範囲内の話ではありますが。)

インプットを、もっときっちりしましょうよ、そもそもインプットとアウトプットの意味を学びましょうよ、という段階の自称コンサルタントなる我利我利亡者や詐欺師が、如何に多いか。



アウトプットするならば、良質にインプットをすべし。



良質な・良質にインプットせずして、インプットとアウトプットの意味を考えた事もなくして、勝手気ままなアウトプットをまき散らされても、迷惑千万なだけで御座ります。

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インプットとアウトプットは個々人においてバランスよく調える

インプットとアウトプットの意味を学び直し、インプット悪玉論からも、アウトプット至上主義からも、一旦脱却・脱構築して、再構築へ移りましょう。



私は、上記では随分と、インプットを擁護してアウトプットを批判するような言い回しをしているようにも見えますが、再度申し上げます通り、アウトプットを蔑ろにしろとはいっておりません。

インプットもアウトプットも、入力も出力も、どちらも大切な事柄です。



その上で、肝要は「個々人における性質:インプットとアウトプットの程よいバランスは如何に」という事を知り、在り方を調えるというところに御座います。



例えば、私の場合は、インプット寄りの生き方・在り方が性に合っておりましてね。

私は、セミナーで会ったり勉強会においては、聴聞するというスタイルが性に合っており、じーっと黙って聞いている方式を好む傾向にあります。

あまり、何らかの形で巻き込まれる事は、遠慮願いたい性格でもありますがゆえに。

そんな性質もあってか、仏教・仏法を頂ける御法話は、お坊さんが一方的に話す講義形式の説法でも、何ら問題無く聴聞していられます。



また、この寺院(ブログ)でも、アウトプット・言語化して出力している内容は、人生全てのインプットの内、本のごく一部です。

まあ、殆どの人がそうだとは思うのですがね。

ただ、「アウトプットしてやろう!インプットしたからには使い切らねば!」という、圧力・プレッシャーはありません。

「インプットしたことの1%しか使わなくても、宜しかろう。」ってなもんです。



こんな感じで、私は自身における「インプットとアウトプットのバランス・塩梅」は、大体こんな感じだろうなあ、と認識・自覚しております。

私が、物語シリーズという作品の台詞「ありとあらゆる物語の聞き手」という一文に引かれる事も、この辺りに起因しておるのやもしれません。

受け身的な在り方、他力思想を大切にしている私は、インプット寄りでちょくちょくとアウトプットしていくという在り方が、しっくりきます。



もしも、「いや、僕はアウトプット重視がいい!」という人は、アウトプットに重きを置くという調整をされると宜しかろうと存じます。



肝要は、自身のインプットとアウトプットの程よいバランスはどの辺りか、を、自己解析・自己観察する事です。

インプットとアウトプットの関係:縁起を通して観ると・・・

最後に、ちょいとどんでん返し的な話、仏教・仏法を用いた話をしておきます。

インプットとアウトプットの、どちらかの極に偏りすぎていて、窮屈な思いをしていたり、何となくもやもやする人にとっては、妙薬として使って頂ければ、嬉しゅう御座います。



私は、インプット寄りの生き方・在り方をしておりますし、インプットや勉強をすることを大切にしております。

勉強の大切さや、勉強を進める上で垣間見る事柄については、こちらの本が素晴らしい参考図書となりましょう。
千葉雅也さんの「勉強の哲学」という本です。

私にとっても名著でして。



参照記事:「「勉強の哲学」(千葉雅也さんの本)の読書感想文|言語そのものと学習者が辿る過程が考察された良書」



私は、インプットとアウトプットは、相互に関係し合っている事柄であり概念でありまして、そこに「縁起」「因縁果」を見出しております。



それはどういうことか。



私もしばしば体験する事ですが、あなたも、アウトプットしたと思ったら、実はそこから更なる学びや気づきが生じ、同時にインプットも体験した、という経験をお持ちではないかと存じます。

「教えたと思ったら、自分が教わっていた」という話は、その最たる例でありましょう。



例えば私でしたら、プログラミングの話を書くとき、インプットしたことをこの寺院(ブログ)などでアウトプット・出力しております。

そして、アウトプットしたと思いきや、自身がまだ学びが足りないことを思い知り、次なるインプットに繋がります。

また、アウトプット中に、「ここはどうするんだろう?」と、アウトプット中にインプットをする、という事もしばしば御座います。



このように、インプットとアウトプットは、独立している事柄では無く、そこには切っても切れない関係と循環・輪廻があり、「因縁果」があると、私は観ております。

ゆえに、私にとってインプットとアウトプットは、意味や定義は持っておりつつも、境界は曖昧であるなあ、という味わい方であります。



こういう思想から、どちらか一方の至上主義に偏るのは、塩梅悪い事にならないかなあ、という感覚感性がありましてね。

現代社会においては、アウトプットの大切さばかりが強調されているきらいが御座います。

確かに、アウトプットは大切で御座いましょう。

しかし、アウトプットばかりでインプットを疎かにするのも、また具合が悪い。



インプットとアウトプットには切れない縁があり、「インプットがアウトプットの因・縁となる」「アウトプットからインプットの縁が起こる(縁起)」という事も御座いましょう。



あなたにとって、インプットとアウトプットの程よいバランスが調えられましたら、嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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