「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



前回、マンペンライとクリアットについての話の中で、カンポン・トーンブンヌムさんの著書「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」について、少し話題にしております。


その中で、読了後に読書感想文なり、本を読んで頂いた学びや気づきについて、お伝えすると申し上げました。

そう申し上げてから、きちんと読み終えましたから、今回はその話を致します。



「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」は、カンポン・トーンブンヌムさんというスカトー寺でも修行をなさった方の本です。

カンポンはタイの方で、スカトー寺での御縁、仏縁により、浦崎雅代さんとプラユキ・ナラテボーさんが訳して下さった本であります。

前半は、カンポンさんの経緯や人生の前半期についてかかれており、その後は気づきの瞑想により、どのように変わられたか、どのような人生を歩まれてきたのか、という事が書かれております。



今回は、この本を通して、改めて仏法と出会わせて頂いた事に感謝申し上げながら、この良書から頂いた学びや仏法、頂いた智慧について、お伝え致します。

誠に、仏縁有り難し、善き縁への有り難さ・感謝を観ずる次第で御座います。

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本の内容と読書感想文などの前に:カンポン・トーンブンヌムさんについて

カンポン・トーンブンヌムさん著、プラユキ・ナラテボーさん監訳、浦崎雅代さん訳「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」の内容と、読書感想文や学びの前に。

まずは、カンポン・トーンブンヌムさんについて、お伝えしておきます。



カンポン・トーンブンヌムさんは、冒頭でお伝えしました通り、タイでお生まれになり、2016年04月24日にお隠れになった方です。



カンポンさんにつきましては、ドキュメンタリー映画にもなったりと、タイでは広く知られているそうです。

日本にも、沖縄で公演されたことがあり、日本へ向けたカンポンさんからのメッセージ動画も、浦崎雅代さんが動画を上げて下さっていますから、視聴する事が出来ますよ。







この動画と共に、浦崎雅代さんのYouTubeにありますチャンネルには、カンポンさんからの「最後の授業」も御座います。

その他のドキュメンタリー動画や沖縄講演の様子を収録した動画もあります。



動画を観て頂くと分かりますが、カンポンさんは移動手段は車椅子で、生活は横になっている事も多いという体の状態です。

カンポン・トーンブンヌムさんは、24歳の時に事故によって、体の殆どの部分が動かなくなる症状と共に生きることとなりました。

最初のうちは絶望感・喪失感なり失望感もあったそうですが、仏法と出会い、また、善友やルアンポー・カムキエン師との善き縁により、気づきの瞑想を実践されるようになります。



そのような経緯があり、修行を続けていくうちに、気づきの智慧を頂かれ、お寺に住まうようにもなったり、ライトハウスに住むようになってゆかれます。

そこで、スカトー寺で副住職をされている日本人比丘のプラユキ・ナラテボーさんや、浦崎雅代さんとの御縁があり、こうしてカンポンさんの本との御縁を結ぶ機会を頂けるようになりました。

スカトー寺では、日本から来られた方とカンポンさんが話をされたと言う事が、「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」の中で、プラユキ・ナラテボーさんが報告して下さっています。

カンポンさんは生前、日本から来た方から悩みを聞いて、その悩みに応病与薬・自他の抜苦世楽となる光明を照らされた場面を、プラユキさんは目の前で観て来られたそうです。



そうして、上でお伝えしました通り、カンポン・トーンブンヌムさんは、2016年4月に、最後の授業と共に、お隠れになりました。



その様子は、ブッダが涅槃に入る時、その過程を全て弟子達に隠さずにみせるというせっぽをされたかの如し。

「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」読書感想文:本から頂いた最も大きな気づきと智慧

カンポン・トーンブンヌムさんについて、人物紹介を終えたところで。



カンポンさんが書かれて、プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんが訳して、日本にいる人達にも届けて下さったこの良書から、私が頂いた学びや智慧、気づいた事について、お伝えして参ります。

まず、この本から最も大きな気づき、学ばせて頂いた事は、次の事柄です。



「苦しむ人」から「苦しみを観る人」へ。



この事は、私が睡眠障害やうつ病等の症状を頂く前に出会っていたら、もしかしたら、この症状を知る事は無かったかもしれません。

また、睡眠障害やうつ病等で苦しんでいる時に出会っていれば、もっと早くに回復していた可能性も考えられる程に、私にとっては良き智慧の在り方として、頂くに至りました。

今、私は過去の私の状態について話しましたが、「あの時何何だったら、何何だったかも知れない」というのは、一歩間違えると、過去に囚われたり過去への執着になります。

その一方で、次の一歩への糧とするならば、善き縁ともなりましょう。



こういった事も、この本から学んだことではありますが、ここでは「苦しむ人」から「苦しみを観る人へ」という事について、お話し致します。

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「苦しむ人」から「苦しみを観る人」へ:「体」と「体の状態」、「心」と「心の状態」の違い

「苦しむ人」から「苦しみを観る人へ」とは、どういうことなのか。



これについては、107ページにあります「体と心の状態を観る」という箇所に、ヒントが書かれております。

ここでは、カンポンさんは「体に生ずる苦しみは、言わば普段体に潜んでいて、状態として起こるものだと理解しました。」と、仰っています。

体は体として存在し、体の状態とは別として考えて捉えている、私はそのように頂いております。



これは、私が直近の事で、確かに「ああ、なるほどなあ。」と思うような出来事に、遭遇したことがあります。



私は、台所で皿を洗っている時に、その皿は古い皿でして、自然劣化によってひびが入っていおりました。

そのひびが入っている皿を洗っている時に、力加減を間違えて皿を割ってしまい、ざっくりと右親指の付け根辺りを切り裂いてしまいました。

この時、確かに体には痛みが走りましたし、痛みを伴うことの苦を観じた、感じたものです。



私、結構こういうミスに対して、「ムキー!」っとなりやすい性質でして、仏法と出会う前の私ならば、かんしゃくを起こしていたかも知れません。

しかし、ここで私は、「そういえば、プラユキさんと魚川さんの講座の懇親会で出会った人が、こういう時に瞑想して苦を免れたという話をしてくれたなあ。」と思い出し、やってみる事にしたのです。



もちろん、以前「毒矢のたとえ」について話したように、まずは応急処置をしなければなりません。

冷静に怪我の具合を観ると、幸いにして病院へ行くほどでは無い程度です。

もしも病院へ行くほどの怪我であれば、その状態もきちんと観察して、救急車を呼ぶか、病院ヘ行けば済むことです。



私は、毒矢のたとえや仏法、瞑想の話を思い出し、まずは「体」に起こっている「体の状態」を観て、手当てをして体の怪我についての難を逃れました。

その際に、「痛み」や「痛みからくる苦」に流されたり飲み込まれたりせずに、そこに対して「二念、三念を継ぐ」ということを、しなくなりました。

ただ淡々と、体の怪我を手当てして、その後は怪我を悪化させないための生活を丁寧に送るという「次の一歩・次の一手」へ進んだのです。



この時の私は、確かに「体」に起こっている事を観察し、「体の状態」をきちんと観ていた事を、カンポンさんの本で頂いた智慧により、改めて気づいたものであります。

そして、私が右手を皿でざっくり切り裂いた時にやっていた、気づきの修行を、まさに言語化して下さっていたのだ、と思うたものです。



私は「体」に負傷しましたし、確かに痛みという苦はあったわけです。

しかし、「体」を負傷したことによる「体の状態:痛みや苦を持っている体の状態」に、流されたり飲み込まれたりはしませんでした。



確かに痛かったのは痛かったのですよ。



しかし、その時の私は「出血して痛みがある。」と、冷静に体に起こった事や、体の状態を観ていたのです。

「痛い!くやしー!ムキー!」とはならず、冷静にきちんと「体の状態」を観ていたわけですよ。

あの時の私は確かに、仏法などの智慧なり力をお借りしたことにより、「苦しむ人」から「苦しみを観る人」へ至る気づきがあったと、改めて思います。



カンポン・トーンブンヌムさんの場合は、このように「苦しむ人」から「苦しみを観る人」となられたご自身を、こう表現されています。


自分自身を体から解放して、気づきのほうにシフトしていきました。

すなわち私は、「障害をもった体を観る人」となり、「障害者」ではなくなりました。

※「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」112ページより引用



これが、私も今共にしている、うつ病等の心の状態や心に関する疾患にて「気づく人」「観る人」にシフト出来たら、「うつ病の人」から「うつ病を観る人」になれるやも、という希望を見出しております。

「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」の読書感想文と、その他に学んだ智慧

私が、この「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」という本から、学ばせて頂いた智慧は、「苦しむ人」と「苦しみを観る人」、それにまつわる話である「体」と「体の状態」は違う、ということです。



それ以外にも、色々と学ばせて頂き、気づいた智慧が御座いますから、その一部をお伝えしていきます。

善友や善知識との「善き縁」を大切にしたい

カンポン・トーンブンヌムさんは、本の中で何度も周囲の人に助けられているという事を話して下さっています。

また、人生を変えるほどの出会いとなった、カンポンさんにとっての師となる方とのやり取りも、本で紹介されております。



カンポンさんは、ルアンポー・カムキエン師と出会い、手紙のやり取りにて瞑想指導を受けたりという御縁により、瞑想修行に励むようになられました。

ルアンポー・カムキアン師は、プラユキ・ナラテボーさんの師でもありまして、開発僧としての活動もされた方です



カンポンさんとルアンポー・カムキエン師のやり取りにおいて、私が特に学ばせて頂いた事が御座います。

それは、「瞑想修行の経過・プロセスや、状態を報告して、修行が誤った方向に向いていないかを確認する事」です。

これは、私が瞑想についての話をする時に、私の体験から「瞑想は、一度きちんと伝導出来る伝導者・指導者から直接教わる事が望ましい。」と、申し上げていることにも通じます。

もちろん、その時はご自身との瞑想の距離や相性、指導者との距離や相性も吟味することを加味した上で、の話です。



カンポンさんは、瞑想修行が進んだ時に、ルアンポー師に、現在の状態・状況や、瞑想の進み具合を報告・相談されました。

ルアンポー師はその返事として、「修行は正しく進んでいますよ。」と、順調である事を伝えられています。



私はこのやり取りを読み、改めて「善友や善知識との関わり、善き縁を大切にしたいものである」と、思うた次第であります。



私は、プラユキ・ナラテボーさんから直接瞑想を教わるマインドフルネス瞑想会に参加したり、お寺での仏教行事に参加するようにしております。

これは、カンポンさんがカムキエン師に、修行の経過をきちんと報告して、誤りを修正するための智慧を相談されている姿にも通じていることです。



お念仏においても、そうですね。



お念仏は1回のお念仏でも極楽浄土への往生がなされる、と、法然上人が説かれていると、土屋正道上人から教わりました。

しかし、ともすれば人は易きに流れやすく、ついついお念仏を忘れてしまいがちな日常を送るのが、凡夫の性質(さが)で御座います。

ゆえに、一定時間は同朋と共に、一つの道場に集まってお念仏申し上げるという「別時念仏会」を、私は大切にしている事にも、通じる話です。

そこでは、修行をして仏法を説いて下さる、善知識となるお坊さんとの善き縁も、結びやすい場です。



このような善き縁に触れる事は、善き縁をなす事に繋がり、やがて自身が善き縁となります。

まさに「善き縁に触れ、善き縁となし、善き縁となる」という、プラユキ・ナラテボーさんが実践されて、説いて下さる事でもあるのです。



本書にも「跋-善き友との出会い」という表題で、プラユキ・ナラテボーさんが善友について、説いて下さっています。

「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」から、私は改めて「善友・善知識との善き縁」について、学ばせて頂いた次第で御座います。

「仏道修行」は座学と実践をセットで

「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」から学ばせて頂いた事として、他には「仏道修行の在り方」が御座います。



カンポン・トーンブンヌムさんは、体に障害を持つようになってから、仏教の本や仏法が説かれている音声テープを使って、仏教を学ばれていました。

ただ、真剣に仏教の知識や教学に触れる事で、一時的に苦の軽減を感じる事はあっても、まだ苦悩に充ち満ちているという事が16年続いたそうです。

その時の様子を、カンポンさんはわかりやすく、このように譬えられています。


ただ家の中で地図を開いて一歩も外に出ず、目的地はどこにも辿り着いていない状態です。

※「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」74ページ



確かにこういうことって、娑婆世界ではありがちな事柄であると、私も観じております。

知識量は凄くあって、いわゆる「学力的には頭が良い」と言える状態であるが、いざ活動開始したら、使い物にらなかった、という現象を、目の当たりにした人もいらっしゃるでしょう。



これは、私も戒めないといかん事ではあるのですがね。



一方で、とりあえず姿形を覚えて、行動の仕方や、やり方だけを覚えて、体の活動においては上手く出来るという事も御座いましょう。

しかし、今度はそれに言語が付いていかなかったり、人に伝えられるほどの知識化・言語化がなされていなければ、それはそれで具合が悪いことも御座います。



例えば、上でカンポンさんがカムキエン師に、修行の方向がきちんと正しい方を向いているか、と言う事を尋ねられましたが、カムキエン師が仏法の知識を知らなければ、カンポンさんに伝道することは出来なかったでしょう。

カムキエン師がカンポンさんを導く教えを説けて、修行の仕方も伝えられた事は、仏教・仏法を知識と実践を、どちらかに偏ること無く、両輪として修行されたからである、と、私は読みました。

プラユキ・ナラテボーさんが実践メインの講座でも、最低限、知識の部分となる教学や仏法を伝えるようにして下さるも、ここにあるのではないかと考えております。



知識だけでもなかなか前に進まない、実践だけでも不具合が生じた時や人に伝える時に右往左往する。

仏道修行や、仏法を頂いて歩むという事は、知識や教学と実践はセットで。



改めて、この本から学ばせて頂いた事に御座います。



そして、それをやるときは、「マンペンライ」と「タムレンレン」という在り方にて。



参照記事:「マンペンライとペンライ・クリアットの活かし方|バランスを取る働き方や仕事の智慧」

参照記事2:「「仕事に効く!仏教マネジメント」(プラユキ・ナラテボーさん著)はビジネスと人生の妙薬書|一項目だけ紹介します」





カンポン・トーンブンヌムさんについての情報

今回は、カンポン・トーンブンヌムさんの自伝的な本「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」を読了したことにより、その読書感想文と学ばせて頂いた智慧を、紹介致しました。



カンポン・トーンブンヌムさんは、出家者ではなく、僧侶ではないそうです。

それゆえに、私は在家にあって仏教者として生きる、仏法を頂きながら生きる者としての在り方を見出す智慧を、カンポンさんの本から頂いた次第です。

そして、カンポンさんの生き方や、頂かれた智慧、そして実践された瞑想修行の話が、日本にいる人達の元に届くようになったことは、大変有り難き仏縁で御座います。

プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんという訳者の御縁に、感謝申し上げる次第です。



カンポン・トーンブンヌムさんについて、彼の本や説いて下さる教えや話は、現在はこの本以外にも、Amazonで購入出来る電子書籍にもなっています。

カンポンさんとスカトー寺のご住職、パイサーン・ウィサーロ師との共著が、Amazonで購入出来るようになっておりますよ。

この本の翻訳も、浦崎雅代さんが担当されています。



その他には、浦崎雅代さんのnoteや、関連する活動にて、カンポンさんにまつわる話を頂く機会も御座います。

直近ですと、2017年6月24日には、カンポンさんとも親交があった、スカトー寺のスティサート・パンヤーティポーさんが、沖縄にて講演会が御座います。



スティサート・パンヤーティポーさんは、カンポンさんの最後の授業ににいらっしゃり、カンポンさんの最期を看取られた善友であられる方です。

プラユキ・ナラテボーさんの善友でもあり、同じスカトー寺で修行をなさっている方でもありますよ。



カンポンさんが伝え残された事、この先も受け継がれて、苦しまない生き方の歩みをなす人が増えましたら、嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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