NHK・Eテレ「こころの時代」プラユキ・ナラテボーさんの回を視聴|気づいた事など視聴後感想文

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2018年10月28日(日)に放送されたNHK・Eテレ「こころの時代」にて、プラユキ・ナラテボーさんが出演されています。






プラユキ・ナラテボーさんにつきましては、瞑想会に参加する度に、このブログでもお伝えしてきております。



この日は、私は近場のお寺さんで仏教講座がある日であり、そこに行く前に本放送を視聴することが出来まして、手動瞑想の動きを伴って、プラユキ・ナラテボーさんの話を視聴しておりました。

今回は、視聴する中で気づいた事などをお伝えすることと致します。



また、近場での仏教講座でも、繋がる気づきがありましたから、そのことについても述べてみようかと存じます。



ちなみに、最後辺りで申し上げますが、再放送は「原則当週土曜日13:00から14:00」というのが公式の発表です。

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まずは「こころの時代」プラユキ・ナラテボーさんの話を大まかに

以前から何度か視聴しております「NHK・Eテレ:こころの時代」。



今回は、私も度々お会いしておりまして、手動瞑想を直接教えて下さっている、タイのスカトー寺の副住職であられる、プラユキ・ナラテボーさんの回です。

収録現場が、京都の浄土宗寺院ということで、南無阿弥陀仏と御縁があるなあ、と、お念仏し続ける私個人としては、なにやら趣を感じた事に御座います。

確か、長栄寺というお寺さんです、収録現場。



番組の内容を、大まかにまとめますと。



まず、スカトー寺に来られる人達の話から始まり、プラユキ・ナラテボーさんの人生を辿りながら、プラユキさんの宗教観のベースとなる事柄の話や、何故仏教に興味を持たれたのか、等をインタビュアーが聞かれて、それにプラユキさんが答えられる、という感じで進みます。

最初の辺りでは、「無明」という仏教の言葉を紹介されて、仏陀が明らかにされた苦について話をされています。

ここで、著書でも説かれている「反応ではなく対応」ということを教えて下さいました。



また、途中ではプラユキ・ナラテボーさんが九州で瞑想会をされたときの様子が紹介されています。

プラユキさんの瞑想会に参加された方にとっては、「そうそう、こんな感じ」ということで、観られていたのではなかろうかと存じます。

瞑想会の様子は「行学二道」を大切に説かれるプラユキさんらしく、法話と手動瞑想と歩行瞑想の場面が放送されていました。

そして番組の後半では、聞き手の方と共に手動瞑想をされていて、私もテレビジョンの前で一緒に手動瞑想を致しました。



番組の後半、終わり辺りでは、プラユキ・ナラテボーさんが瞑想会等で大切に説き続けていらっしゃる「よき縁をなし、よき縁となり、よき縁となる」に繋がる話もされています。

この辺り、聞き手が上手く引き出されたと観じたことでありました。



内容は、大まかにはこのような感じで御座います。

プラユキ・ナラテボーさんの仏教に触れるきっかけの話から、自身を振り返る

プラユキ・ナラテボーさんは、番組の前半で、仏教に触れたきっかけについて、話をされていまして。



プラユキさんは、母親がきっかけという話しでありました。



この辺りの話を聞いた時、私はふと自身のことを振り返りましてね。



私が仏教に触れた初の体験と言いますか、きっかけと言える出来事は、祖父の葬儀でした。

その時に、私は初めて「南無阿弥陀仏」とであいまして、いや、出会わせて頂きまして、そこから「仏教は南無阿弥陀仏」ということがインプットされました。

色々な御経や行為様式が仏教には御座いますが、私が一番しっくりくるのがお念仏というのは、こういうルーツがあります。



プラユキさんが母親から仏教の御縁を頂かれたように、私の場合でしたら祖父の葬儀が南無阿弥陀仏と仏教に出会わせて頂く御縁となったように、これを読んでいるあなたご自身の宗教のルーツを辿ってみる機会としては如何でしょうか。



ご自身の宗教についての原風景といいますか、そういったものがみえてくるやも知れませぬ。


プラユキさんがタイで観られた「自然と共存して生きていく」というスタイル:「対応」するということ

私が、「こころの時代」でプラユキ・ナラテボーさんの話の中で、改めて考えたことが御座います。

それは「自然と共存して生きていく」ということです。



番組の前半で、プラユキ・ナラテボーさんが青年期にタイの農村に滞在されていた時、自然と共存して生きていく人々の生活と触れたということを話されまして。

この話を視聴したとき、私は「自然には勝てない」という言葉を聞いたときに、咄嗟にこんなことを言うたことがありまして。



「勝たんでよいのではなかろうか。」と。



そもそもとして、自然に対して勝った負けたというのは、何かこう、違和感があったのです。



そりゃあ、雨が降ったときに傘をさしたら、雨に濡れなくなったからこれを勝ったという、等々、勝手に定義することはできましょう。

ただ、私は大きな自然現象に見舞われるたびに「自然には勝てない」という言葉を聞くと、もやもやとしたものです。

だって、大きな自然現象には、人力ではどうしようもなくなるということは、長い歴史の中で度々起こっておりましょうし。



こういうもやもやがある中、プラユキ・ナラテボーさんがタイで観られた「自然と共存して生きていく」という話と、プラユキさんが大切に説き続けられる「反応ではなく対応」という話と、がちっと結びつく気づきがあったのです。

雨が降ったら傘を差したり雨宿りするか、「雨が降った!気に入らない!」と怒り狂うか

自然と共存して生きていく、という生き方。

身近な例を使いますと、雨の話をしてみましょうか。



「自然を支配して手前勝手に操作する」というやり方だと、どういうことになりましょうかな。

おそらくは、雨そのものがいつ降るかということ、雨が降るという現象そのものを、自身の都合で支配・コントロールすることではなかろうかと存じます。



現在でしたら、私も雪山で生活していた時期にお世話になった装置がありますが、雪を降らせる大型機械がありますね。

でも、降雪機械できることは、既にある雪を移動させるということくらいで、雪そのものを降らせるということは出来ません。

雪雲を作り出すわけではありませんでしたから。



雨も似たようなものでありましょう。

まさか、自然を手前勝手に支配しようとして、雨に対して「これから私の言うとおりに降ったりやんだりせよ、なさねば罰を与える」なんて言って、雨側、天候側が、はいそうですか、と了承してくれるようなことはありますまい。



現代では、ある程度の天候予測はできましょうが、あくまで予測が出来るだけで、「いついつにどこどこに雨よ降れ」といって、その通りに操作できる段階ではありません。

雨が降ったら、濡れたくなければ傘を差すか雨宿り出来る屋根のあるところに走るだけです。



ここで、「自然と共存して生きていく、反応ではなく対応」の話です。



急に雨が降った場合、場合によっては「全く予期せぬ雨が降ってきた、むかつく、むきー!」と、怒りの感情が起こることもありましょう。

折角気持ち良く買い物をしていたのに、急に雨が降り出したことによって、買った物が濡れたりしたら、そりゃ怒りもわきましょう。

家電製品でしたら、そのせいで故障の恐れもありますから、天気に、雨に起こりたくなるのも、私だって体験がありますからわからんでもありません。



しかし、ここで「雨むかつく!」と雨の中に濡れながら怒り続けるという反応をするか、「雨に濡れないようにしよう」と、傘を差したり雨宿りするために走るか、という対応をするか。

咄嗟に反応になっても、その反応に気づいて「いや、まずは雨に濡れぬ対応をば。」と、気づくことが出来るか。



プラユキ・ナラテボーさんの「タイの農村で観た自然と共存する生き方」の話と、「こころの時代」の中でも仰った「対応から反応へ」の話とが結びつきまして、私はこのようなことを考えた事に御座います。

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仏教の有名な話「毒矢のたとえ」を使ってこんなことを考えた

私は、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「自然と共存して生きていく生き方」と「反応から対応へ」の話を視聴したとき、もう一つ思い出した話がありまして。

それは、仏教の有名な話(有名だと思うておるのは私だけやもしれませぬが)、「毒矢のたとえ」です。



「毒矢のたとえ」については、検索して頂ければすぐにヒットしましょう。

(ちなみに、もしかしたら検索したらこちらもでるかもしれませんが、マタイによる福音書には「毒麦のたとえ」があるそうです。キリスト教を学んでいる人でしたらご存じの話やもしれませぬ。)



この「毒矢のたとえ」は、マールンクヤという人にブッダが説いた話として紹介されている話でして。

語られる場面は、「死後の世界はあるか否か」というマールンクヤの問いにブッダが答えるという場面です。

故に、今回の話と文脈や場面が違ってはおりますが、私が共通する部分を勝手に見出して、ふと思い出しましたから、その辺りご勘弁頂ければと存じます。



「毒矢のたとえ」を、簡単にだけお伝えしておきますと。



ある日、どなたかが毒の矢を食らったのですが、その人は「誰が毒の矢を私に放ったのか?そやつの名前は?背丈は?それらの疑問が解消するまで矢は抜かん。」と答えます。

我利我利亡者のトレンドアフィリエイトブログの記事タイトルじゃないんだから、と、突っ込みたくなるような疑問符の嵐です。



それはさておき、恐らく私以外の人も、このような突っ込みを真っ先に入れられたのでは無かろうかと存じます。

「いや、まず毒矢を抜いて治療しろよ。」

ごもっともです。



今回の話におきかえると、こんな感じになりましょうか。

「うお、雨が降ってきた。誰がこの雨を降らせたのか?名前は?住所は?電話番号は?彼女か彼氏は?それがわかるまで傘も差さないし雨宿りもしない!」

これを実際にやったら、「この人は何を言っておるのであろうか?」と、首をかしげられるかもしれません。



雨が降ってきて、濡れたくなければ、傘を差すか、持っていなければ雨宿り出来るところまで走るか、です。

ごちゃごちゃ反応しておらず、対応しましょうって話です。



「こころの時代」で、プラユキ・ナラテボーさんの話から、このようなことを考えた次第で御座います。

雑念がわいたら気づく、を繰り返す

Eテレ「こころの時代」にて、プラユキ・ナラテボーさんは、手動瞑想を実践・解説されているときに、「気づくこと」について伝えて下さっています。

「気づく」ということについては、番組が始まって37分か38分かのところで、「気づく=サティ」という言葉と共に、気づきの智慧について伝えられています。

(そのすぐ後の「一夜賢者経」を、知っている人もいらっしゃるやもしれませぬ。)



そして、この気づきの智慧、ぱっぱっぱっぱと気づくことについて、丁度、この日の午前中に受講した近場の寺での仏教講座にて、関連する教えを頂きまして。

テーラワーダの、タイのスカトー寺の教えと、日本の浄土宗寺院でのお念仏を頂きながら学んでいることとリンクするとは、仏縁有り難し。



浄土宗の秋と言えば、「十夜法要」という仏事が御座いまして、私が通うお寺さんでも、十夜にまつわる仏事をたた開いて下さっています。

そのことを盛り込んだ今回の仏教講座では、集った人達と共にお念仏を称えたのですがね。



そこでご住職が、「念仏中に雑念がわいても、気づいて念仏に戻ればいいですよ。」と言って下さいました。

このことを教わったときに、朝に視聴した「こころの時代」でプラユキ・ナラテボーさんが仰ったことを連想し、「繋がった!」と直観したものです。



手動瞑想でも、今、ここで動いている手に気づき、また雑念がわいてきても、そのことを否定せずに「ああ、わいてきたなあ。」と受容し、また気づいて手の動きに戻る、の繰り返しです。

お念仏も、お念仏から離れて色々考えてしまうことが多々御座います。

そういうときも、「ああ、何か考え事してたなあ。」と気づいて、またお念仏に戻る、この繰り返しです。



以前の私は、お念仏をしていて、雑念がわいたり、時にはお念仏で競っている自身に気づいた時に、「私はなんて駄目な奴なんだ。」と、自己嫌悪さえあったものです。

今でも、そういう自己嫌悪を感じる事はありますが、そんなときも「ああ、自己嫌悪だなあ。」と、その苦に気づいて、観て、またお念仏に戻る、ということも、出来るようになって参りました。



「こころの時代」と、朝の仏教講座にて、連続して気づきの智慧を頂けた事、有り難く思うところに御座ります。

最後にお知らせをば:「こころの時代」の再放送と、プラユキ・ナラテボーさんの本や瞑想会について

今回は、NHK・Eテレ「こころの時代」にて、プラユキ・ナラテボーさんが出演されて、話されたことと共に、私が気づいたり学んだことをお伝え致しました。



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に参加されている方にとっては、おなじみの話もあったことかと存じます。

ただ、おなじみの話も、「こころの時代」を視聴するに至るまでの間に、様々な体験をしたことによって、頂き方も変わっているということもあるかと思うたものです。





最後に、再放送やプラユキ・ナラテボーさんの情報をお伝えして、締めくくると致しましょう。



まずは再放送のお知らせから。

Eテレ「こころの時代」の再放送の公式アナウンスは「毎週土曜:午後1時」です。

つまり、「2018年11月3日の午後13時(午後1時)」です。(何らかの放送予定変更が無ければ。)





プラユキ・ナラテボーさんの本については、以前にも色々と紹介しております。

参照記事:「自灯明は法灯明とセットで|プラユキ・ナラテボーさんの本「『気づきの瞑想』を生きる」の不放逸の教えに学ぶ」

参照記事2:「「仕事に効く!仏教マネジメント」(プラユキ・ナラテボーさん著)はビジネスと人生の妙薬書|一項目だけ紹介します」

参照記事3:「「脳と瞑想」から「意味付けの中継地点」を学ぶ|自己啓発の不十分な点を補うプラユキ・ナラテボーさんと篠浦伸禎さんの良書」

参照記事4:「マインドフルネス瞑想をするなら読んでおきたい3冊の本」

参照記事5:「「悟らなくたって、いいじゃないか」という本は、コンサルタントや教育者の必読書」



そういえば、2018年10月後半に、新しく共著本が出ておりますね。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

仏教サイコロジー 魂を癒すセラピューティックなアプローチ [ 藤田一照 ]
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「仏教サイコロジー」という、禅僧・藤田一照さんとの共著本ですが、私はこの文章を書いている日の午前中に、ポストに届きました。

これから読み進めるとします。



また、番組内で聞き手が仰る「瞑想のエッセンスを日常や仕事で」という事柄については、こちらで私も実践してみたことをお伝えしております。(番組の50分過ぎ)



参照記事:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」





そのほか、瞑想会も東京と大阪、仙台と札幌でも今年中には行われる予定だとか。

詳細は、こちらの「よき縁ネット」にて、確認できます。



プラユキ・ナラテボーさんの予定が分かるサイト:「よき縁ネット」



瞑想会はどんな様子か、ということを知りたい方には、瞑想会に趣きたびに、少しだけかとは存じますが、それを垣間見られるような話をしております。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会・新春の瞑想と対話の会@京都|参加体験談」

参照記事2:「プラユキ・ナラテボーさんの春の関西瞑想会in京都2018に参加して体験談|午前中の仏教講座と繋がった話」



さて、これからポストに届いた新刊「仏教サイコロジー」を読み進めると致します。



合掌、礼拝

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