御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
以前に、プラユキ・ナラテボーさんの本「仕事に効く!仏教マネジメント」をお伝えした時に、「マンペンライ」という言葉を取り上げました。
「マンペンライ」とは、タイの言葉で「大丈夫」「心配しなさんな。」という意味で、タイではよく使われる言葉だそうです。
「マンペンライ」は、「ペンライ」が心配事や悩み、問題や課題という意味であり、それに否定・打ち消しの言葉「マン」がついているという構成です。
「ペンライが無い」と言う事は、つまり「心配いらない、大丈夫」という事ですね。
この「マンペンライ」は、文脈や場面によって、色々な意味を持つそうです。
一方、この反対の意味として捉えられる言葉に、「クリアット」も、以前にお伝えしております。
「クリアット」とは、「心配しすぎ、気にしすぎ、悩んでいる」という意味の言葉です。
最近、その事について知る御縁を頂きましたTwitterでのつぶやきや、現地で働く人のブログを読む御縁も御座いましてね。
そのような御縁を頂いたことにより、改めて「マンペンライ」と「ペンライ」「クリアット」のバランスや、「ペンライ(心配事や問題)」との接し方、在り方を考えるに至りました。
Contents
「マンペンライ(大丈夫)」から、今回の話を書くきっかけとなった話
今回、改めてプラユキ・ナラテボーさんの「仕事に効く!仏教マネジメント」で学んだ、タイの言葉と在り方「マンペンライ」と「クリアット」について考えるきっかけとなったのは、このつぶやきです。
朝食の時間ですよーの鐘が今なったけれど、今日は私のタンブン(徳積み)は間に合わないなあ。残念だがこれもまた、マイペンライ(大丈夫)なタイ。できない時はできないで無理しない。それを誰からも責められることもない。また明日準備してできるだけのものを、心を込めて捧げる。ただそれだけ。
— 浦崎 雅代 (@uramasafaa) 2017年6月5日
これは、浦崎雅代さんという方のつぶやきです。
浦崎雅代さんは、タイで翻訳や著述の仕事をされている方で、その様子をnoteやTwitterで紹介して下さっています。
また、2016年に他界されたカンポン・トーンブンヌムさんの本を、プラユキ・ナラテボーさんと翻訳された方です。
私も、カンポン・トーンブンヌムさんの「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」を購入したのですが、まだ全部読めておらず、読了したら、感想文と共にお伝えする予定です。
浦崎雅代さんは、スカトー寺のお坊さんの説法を翻訳されている事もあり、仏教とも非常に接点が多く、深い方でもあります。
Twitterでのつぶやきにも、その事が垣間見られます。
今回の浦崎雅代さんの「マンペンライ(大丈夫)」というつぶやきの御縁から、今回の「マンペンライ」と「クリアット」の上手な活かし方による「ペンライ」への取り組みを、考える事となった次第で御座います。
「マンペンライ」一辺倒、「大丈夫、なんとかなるさ」だけでは具合が悪い
「マンペンライ」は、「大丈夫」「心配無いさ」という意味であると言う事は、以前からお伝えしております。実は、場面や文脈においては、その限りではありませんが、この「マンペンライだよ、大丈夫だよ」という在り方は、タイでは広く使われている事で、国民気質にも感じる、という現地で働く人からの報告が御座います。
このことを、ブログで紹介して下さる方がいらっしゃいますよ。
『マイペンライ(?????????)』を正しく理解するものはタイを制す https://t.co/Vve2kCmAoR
— ひろさん@????????? (@i_am_bomp) 2017年6月5日
この方は「ひろさん」と仰る方でして、仏教的人生学の書生の方らしく、仏道を歩む実践者であり、タイで仕事をする日本人だそうです。
つぶやきに貼ってある記事のリンクがありますが、その記事を読んで頂ければ分かりますが、タイでは「マンペンライ気質」を感じる、との事。
「マンペンライ」は、決してただの無責任な楽観主義としての言葉ではなく、「目の前の為すべき事を、一所懸命に為す」という意味で使われます。
つまり、起こったペンライ(課題や問題、トラブル)に囚われる事無く、「大丈夫、まずは落ち着こう、そしてやるべき事をやりましょう」という智慧の言葉としても使われる、私はそのような頂き方をしております。
ただ、それゆえに、この記事の中に貼ってある「タイ人に教えて貰った人生を楽しく生きる為の2つのヒント」という記事を読も、注目して欲しいところです。
参照先:「タイ人に教えて貰った人生を楽しく生きる為の2つのヒント」
日本でしたら、記事にある様な大きなトラブルに見舞われたとき、「マンペンライ、心配無い、大丈夫だよ」と言われても、「何が大丈夫なんだ!」と、怒り心頭ともなりましょう。
「へらへらするな!」とか、そんな怒られ方をしそうですね。
それに、「マンペンライが大切だよ」と、言語的に言われたところで、はいそうですか、と、素直に変化出来るかというと、そういう人ばかりで無い事もあり得ましょう。
確かに「マンペンライ」は、有用な在り方であり智慧の言葉だと私ハ頂いておりますが、日本においては、「マンペンライ」だけでは、どうも具合が悪そうです。
「ペンライ」に囚われて「クリアット」になりすぎるのも考え物
「マンペンライ(大丈夫)」の反対とも言えるタイの言葉に、「クリアット(心配しすぎ、気にしすぎ)」があります。「仕事に効く!仏教マネジメント」でも、タイの人から観ると、日本人の気質は真面目で良い部分や見習う所もあるけれど、その真面目さが行き過ぎて「クリアット」になっている事も見受けられる、と紹介されています。
確かに、これは私自身も自覚していることで、私は子供と呼べる年頃から「真面目な奴だな」と、時にはからかうような言われ方をしたものです。
生真面目な性格も、私が睡眠障害やうつ病等の症状と縁を深めた一要素ではありましょうし、それは自覚しております。
仕事をする上では、この生真面目さや「クリアット」は慎重さにもなり得ますし、用心して物事を進める事にも繋がります。
ただ、「クリアット」だけで働くという在り方は、行き過ぎるとうつ病等の症状を持つに突っ走る危険があります。
クリアットはクリアットで、これまた偏ると具合が悪いものです。

「マンペンライ」と「クリアット」のバランスを取る仏教の智慧:今、ここでどうするか
この「マンペンライ」とクリアット」は、どちらか一方だけに偏るのは、日本の現代社会においては、具合が悪そうです。何事も全て「マンペンライマンペンライ♪」だと、周囲との軋轢になったり、「あいつは不真面目だ」と言われかねません。
かといって、「クリアット」だけでしたら、私の様にうつ病まっしぐら、なんて事になりかねません。
では、どうすれば良いのか。
ここで、仏教が説く「中道(ちゅうどう)」という、両極端を知った上で、良い塩梅、バランスの良い一を探りながら実践する智慧が、ヒントとなりそうです。
と、偉そうに言うてはおりますが、私も現在、仏道を歩みながら探っている最中ですがね。
概念としては、このように考えております。
そして、このことは「マンペンライとクリアットの使いどころ」という一文が、大きなヒントになり得るであろうと、私は仮説を立てております。

目の前の課題解決は「マンペンライ」と「タムレンレン」で
では、「マンペンライ」と「クリアット」の使いどころとは、どのような事なのか。このことについて、上で紹介しましたひろさんの話が智慧の宝庫であり、非常に肝要なヒントが沢山御座います。
タイの人達は、トラブルや問題に見舞われても、「マンペンライ」と仰るそうです。
生真面目な日本人からすると、「大丈夫じゃありませんよ!」と、沸騰しそうなものです。
でも、この「マンペンライ」は、仕事の放棄をするという意味ではありません。
ひろさんのブログにも、このように書かれております。
『どうにかなるだろう』という他力本願の意味で使っていると勘違いしていたのです。
この時にタイ人が使ったマイペンライはどうにかなるさという他力本願的な意味のマイペンライではないのです。
大丈夫。今やれる事だけをしっかりやろうっていう意味で使っていたんです。
※「タイ人に教えて貰った人生を楽しく生きる為の2つのヒント」より引用
「マンペンライ」は、決して無責任に仕事を放棄するような、また、現代的な意味の「他力本願」、つまり「他人任せ、運任せ、俺は知らない」という意味ではない、ということです。
(私は念仏者の自覚がありますが、ここでは「他力本願の意味論争」は致しません。そういう場ではありませんからね。)
問題が起きて、トラブルに見舞われた時、もしも「クリアット一辺倒」の人は、どんどんと問題を大きくするような妄念に囚われがちです。
そして、冷静な判断も出来なくなり、更に問題を増大させてしまうおそれもあります。
もちろん、心配する事や適度な緊張感を持つ事は大切ですが、クリアットに囚われすぎると、身動きが取れなくなり、どんどんと問題が膨れあがります。
そのような事に陥らぬぬよう、「今、ここで最大限の事をする、動けるようにする」という智慧が「マンペンライ」である、と、私は頂いております。
「今、ここ」の問題解決は、「マンペンライ」なる在り方で動く。
そして、それは適度な緊張感を持ちつつも、悲壮感を持ってではなく「タムレンレン(遊ぶ心を持って、心に余裕を持って)」という在り方で行ずる。
なんらかの問題や課題、トラブル解決の在り方として、ヒントとなる在り方となろうかと存じます。
起こった「ペンライ(問題・トラブル)」の解析と改善は「クリアット」も活かす
仕事や日常生活の中で、問題なりトラブルに見舞われた、つまり「ペンライ」と遭遇した時、問題解決に至るまでは「マンペンライ」で執り行う、という智慧が御座います。では、「クリアット」は完全に悪者かというと、私はそのようには頂いておりません。
実は「クリアット」も使いどころがあると、私は見出しております。
例えば、なんらかのトラブルに見舞われて、それを「マンペンライ」の智慧によって解決したとしましょう。
「クリアット」が活躍する場は、ここからです。
日本の社会において、特にビジネスシーン(仕事の現場)においては、「改善」という概念が大切にされております。
いわゆる「アップデート」は、改善と言い換えても差し支えありますまい。
色々なソフトウェアも、日夜アップデートがなされておりますからね。
私は、こうして文字を打ち込む際、ATOKを使っておりますが、ちょくちょくとアップデートの通知が来ていて、その事を改めて観じます。
「ヒヤリハット」も、「ひやりとした、はっとした、その事を踏まえて、「ヒヤリハット」の場面を減らすための改善をする」という事がセットになっている事と存じます。
この「改善」を踏まえて。
なんらかのトラブルなり問題が起こった場合、問題解決した後に「また同じ問題が起こらないように、改善点を洗い出して改善していく」という仕事をしたことがある人も、いらっしゃるかと存じます。
ここで肝要は、「同じ過ちや、同じトラブル・問題が発生しないために、問題解析・分析と、対処法を考え抜くこと」です。
その時に、「クリアット」をバランス良く使う事です。
私、口では簡単に言うておりますが、これがなかなか言語通りに行かぬ難しさも、もちろん考慮しておりますがね。
ただ、これは訓練し続けると、使いこなせていくものではないかと、仮説を立てております。
仏教の「毒矢のたとえ」:マンペンライとクリアットの具体例
ここで、具体的な例として、仏教の「毒矢のたとえ」を使って、マンペンライとクリアットの使いどころを探ってみることに致しましょう。あなたも、お坊さんから「毒矢のたとえ」を、聞いた事は御座いませんかな。
この話は、「無記」であったり、問い方や問いそのものを問う、という事を教えて下さる話ではありますが、今回は「マンペンライ」と「クリアット」に活かすという文脈で話を進めます。
「毒矢のたとえ」の内容は、こんな感じです。
あるところに、毒矢を射られた人がおりました。
そして、それを観た周りの人達が呼んでくれた医者がやってきて、治療のために毒矢を抜こうとします。
すると、毒矢を射られた人は、「いや、この毒矢を射った人はどんな人?名前や体格は?住所は?それらの事が判明するまでは毒矢を抜いてはいけない、自分はまずそれを知りたい」と、言います。
おたくはしょーもないトレンドアフィリエイトブログの記事タイトルかいな、と突っ込みたくなるような事を言って、毒矢を抜かせてくれないから、治療が出来ません。
そんな事をしている内に、毒が回って他界してしまいますがな、ってなもんです。
これ、娑婆世界でもよくみかけることですよ。
こういう場面に、あなたも遭遇したことはありませんか?
何かの問題やトラブルが起こった時、「なんでこうなった!理由を言ってみろ!なんでそんな事するの!」と言う文言とセットで怒鳴り散らす人とか、ね。
これはまさに、毒矢のたとえの現代版と言えましょう。
いや、まあ、爆発してしまうのは感情がある人間である以上、わからんでもありませんがね。
ただ、そこはまだ怒る場面じゃござんせんし、怒る場合は「叱る」という形に変える事が望ましい事でありましょう。
ここで肝要な事は、今まさにトラブルが起こっている現場では、「今、ここで全力で、まずは問題解決・トラブル解消」を為すことです。
「どうしてこうなった?その原因を突き止めた上での解決策はどうしよう?」というのは、まずはトラブルを解決してからです。
この譬え話を使うならば、まずは毒矢を抜いて治療をして、生命の安全を確保する事です。
目の前で起こっている問題・課題を、「今、ここ」で解決する事が先決です。
その上で、毒矢を射られないための解決策や、射った人を探して「人に苦を与える事をしちゃいかんでしょう」と注意申し上げれば宜しい事です。
問題・トラブルと遭遇した時は「マンペンライ」で、早急に「今、ここ」でトラブル解決に行動を尽くす。
その後で、同じ「ペンライ」に見舞われないよう、また、万が一同じペンライに見舞われた時の最善解決策を、塩梅宜しい上手な「クリアット」によって智慧を尽くす。
「マンペンライ」と「クリアット」の使いどころは、このようなところに落ち着くのでは無かろうかと、仮説を立てた次第で御座います。

「マンペンライ」と「クリアット」の上手な活かし方の智慧にて、仕事や働き方に活かす
今回は、浦崎雅代さんとひろさんのつぶやきやブログ、そして、プラユキ・ナラテボーさんの「仕事に効く!仏教マネジメント」から、「マンペンライ」と「クリアット」の中道的な塩梅を模索致しました。私もまだまだ模索中、仮説を立てた段階での修行中の身であります。
ただ、今回の話は、改善やアップデートを日常的に執り行う日本社会においては、なんらかのヒントにもなるかと存じます。
また、心配性であったり、私の様に生真面目な性格な人にとっては、「クリアット」に毒されず、「マンペンライ」と「クリアット」を良い塩梅で頂くヒントにもなりましたら、嬉しゅう御座います。
尚、今回学びました「クリアット」と「マンペンライ」については、「仕事に効く!仏教マネジメント」を紹介した話で、復習することが出来ます。
参照記事:「「仕事に効く!仏教マネジメント」(プラユキ・ナラテボーさん著)はビジネスと人生の妙薬書|一項目だけ紹介します」
キーワード、鍵となる一文は、次のようにまとめられましょう。
「問題解決はマンペンライで、それをタムレンレン(遊び心の如く、心に余裕を持って)」
「改善策と問題が起こったときの事前解決策やトラブルシューティングはクリアットで」
あなたにとって、仕事に効く智慧となりましたら、嬉しゅう御座います。
合掌、礼拝