瞑想と仏教の戒律|マインドフルネスと「次の一歩」を導く智慧

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは「瞑想」と聞くと、仏教の戒律や宗教的な事柄を、同時に連想されるでしょうか、また、現役で瞑想を実践されているでしょうか。

私は現在、朝と夜に坐禅と瞑想、瞑想はプラユキ・ナラテボーさんから直接教わった「手動瞑想」を中心に行じております。

それと共に、浄土宗の勤行も、朝と夜に行じております。

このような日暮らしゆえに、瞑想の実践方法も、その背景にある教学といった知識的や戒律の話も、仏教が軸と言いますか、根底にあると言えましょう。



最近は、瞑想やマインドフルネスというと、宗教性・宗教色を薄めたり、完全に取り払った様式で行ったり、教えているところもあるそうです。

私の実践している瞑想は、仏法・仏教の教学なり、浄土宗の生活様式や法然上人の御教え、また、仏教の戒律がセットでありますから、それらとは違うスタイルと言えましょう。

このスタイルで、瞑想や仏教の行為様式を毎日行う中で、私は「瞑想と仏教の戒律」について考えたり、私が実践する上で頂くに至った効果や智慧を、実感するようになりました。



なぜ、私が瞑想と仏教の戒律を、セットで行じ続けているのか。

これは、マインドフルネス瞑想、マインドフルになった後にある「次の一歩」に、深く関わることであります。



今回は、「マインドフルネスの次なる一歩」と、瞑想と仏教の戒律の関係について、私なりに至った事、頂くに至った味わいを、お伝え致します。

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マインドフルネスの流行:宗教性・宗教色や戒律と瞑想の話

マインドフルネス瞑想と言うと、現在は、本屋に行けばビジネス書のコーナーに、「これであなたもマインドフルネスが出来る!」と言うような表題で、関連の本が並んでいる光景を目撃しやすい現状が御座います。



最も有名なマインドフルネス瞑想の本と言えば、某海外の巨大IT企業である、検索エンジン大手Googleの名前がついている本でありましょうかね。

Google社内のマインドフルネスについて、その方法やカリキュラム、実践内容について詳しい、同志社大学の先生から聞いたところ、しっかりとつくられているそうですよ。

ただ、その落とし穴と言いますか、改善点も色々と見受けられる、ともおっしゃっていました。



現在、マインドフルネスという概念や、マインドフルネスになる事を目的とした瞑想は、色々なやり方が流布されており、講座も充実してきております。

中には、「マインドフルネスは宗教ではないから怪しくないから大丈夫」だとか、「瞑想は宗教ではない」という言説も御座います。

「宗教ではないから怪しくない」という言い回しが、すでに「宗教=怖いもの、怪しいもの」と、何となくディスられている気配も、感じるところもあるものですがね。

どうも、某宗教団体による反社会的な事件が、そのまま宗教の印象となってしまい、そのことが「宗教性・宗教色のないマインドフルネス瞑想」の流行の一要因ではなかろうか、という推論も持っております。



ともあれ、現在は「宗教性・宗教色のないマインドフルネス」や、瞑想の類いは、探せば色々と出て来ます。

宗教性・宗教色のないマインドフルネス瞑想の需要は、わからなくはないが・・・

宗教性、宗教色を取っ払った、マインドフルネスの講座や瞑想講座が色々と増えている背景には、その需要もあるのでありましょう。

マインドフルネスと言う表題、タイトルに「1分間で出来るマインドフルネス」だの「マインドフルネス瞑想」だのとついている本が、ビジネス書コーナーに置いてあるのも、その需要が窺えます。



ビジネス書に陳列してあると言う事は、ビジネスパーソン向けであり、ビジネス・仕事に「直接的に役立つ」という雰囲気・ニュアンスも感じます。

極論を言えば「マインドフルネスによってお金が稼げる」という、ゲイン(得する事)という煩悩を満たしてくれる魅力がありそうだ、という事も見出すことが出来ます、邪推かもしれませんがね。





この現状は、宗教性・宗教色を無くす事によって、宗教に対して「怪しい、怖い」という印象を持っている人も、手に取りやすいという状態と言えましょう。

この現状から、「マインドフルネス瞑想」というと、「宗教ではなく、ビジネス・仕事において、日常生活において、精神面を支えるツール(道具)」という顔も、見出すことが出来ます。



宗教に馴染みがない、あるいは自覚的ではない、また、宗教について宜しくない印象・ネガティブなイメージを持っている人にとっては、こういう「宗教性・宗教色のないマインドフルネス瞑想」は、確かに取っつきやすいというのは、一理あります。

私も、それを否定する事は有りませんし、そこから広がる仏法なり、良い方向への導きになる事もあるだろう、とは思うております。



ただ、宗教性・宗教色のないマインドフルネス瞑想の需要は、それはそれでわかるのですがね。

これは、未だに上手く言語化出来ませんが、その事の落とし穴であったり、また、私個別には「少々、勿体ない部分もある」という考えが御座います。



もちろん、宗教ゆえの怖さであったり不具合も、あるといえばあります。

反社会的な活動に突っ走る宗教団体があった歴史が、その最たる事例でありましょう。

「仏教のヤバさ」ってのもあるわけですから、「宗教性・宗教色のないマインドフルネスは駄目だ」と、一方的に否定は致しません。



その辺り、未だ自身を使って研究中・実践中ではありますが、私は瞑想をするに辺り、マインドフルな状態の時に、ある種の宗教性であったり、仏教の戒律や善知識の御教えに、方向を示して頂いて居る事を実感しております。

ゆえに、「宗教性・宗教色や仏教の教義教学などが無いマインドフルネスや瞑想は、勿体なさも垣間見ている」という状態です。



うーん、うまく言えないこの自覚。
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瞑想と仏教の戒律を同時に実践する中で実感している事

私は毎日、瞑想を行じておりますが、仏教の勉強、仏教の戒律や善知識、私の場合は浄土宗の法然上人が最も多く触れている善知識の御教えですが、同時に実践しております。

善知識の御教えの実践とは、毎日の勤行で、御消息や偈文、また、仏教の戒律を読み上げて実践する、ということです。



プラユキ・ナラテボーさんから教わった仏教・仏法の座学的な御教えも、瞑想を実践するに当たっての良縁であります。

プラユキ・ナラテボーさんも、私にとっては瞑想の先生であり、善知識で御座います。



そして、私は瞑想と仏教の戒律を同時に実践する中で、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる事との繋がりを自覚した時、ふと、「ああ、なるほど!」と実感したことがありました。

マインドフルネス・瞑想で「今、ここ」に気づいてからの「次の一歩」をどうするか?

マインドフルネスの講座や、色々な瞑想の実践教室などで、よく言われる事が「今、ここに気づく」という事です。



そもそもとして、マインドフルネスには、「今、ここ、つまり現在において起こっている事柄(内面的な経験と外的な経験の両方)に、注意を向ける心理的な過程」という定義があります。

つまり、「現在の心理状態や、現状について気づきを満たす事が「マインドフルネス」」と、マインドフルネスを一言で訳せましょう。

「マインドがフルな状態」ですな。



また、それと同時に、「その今、ここで起こっている事を、あるがままに受容する」というのも、セットで教わる事も多いかと存じます。

私は、「あるがまま」と同時に「ないがまま」も、きちんと伝えて欲しいとは思うのですがね。



この「今、ここに気づいて受容する事」は、肝要な事で御座います。



その事を訓練する事が、「マインドフルネス瞑想」と言われる手法であり、また、「気づきの瞑想」です。

手動瞑想や歩行瞑想は、マインドフルになる事、気づくための訓練方法というわけです。



その上で、「今、ここにありのままに気づく」という事は、外すことの出来ない御教えではありますが、私はこれだけでは不十分である、と言う事に思い至りました。



どういう事かと申しますと。

「今、ここ」に気づいたとして。



「気づいた後」にある事柄、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「今、ここ」に気づいて受容し、その後にある「次の一歩」の方向について、語られていません。

この「次の一歩と、その一歩の方向」が語られていない事に、気がつきました。

要するに、「今、ここに気づきました。」で、終わっているのです。



プラユキ・ナラテボーさんは、瞑想会で歩行瞑想を伝導して下すった時に、「今、ここに気づけば、次の一歩を自由(自らに由る)に決められる」と伝えて下さいました。



参照記事:「マインドフルネス瞑想の効果|日常で活かされた3つの体験」

参照記事2:「プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画から学ぶ|自己啓発で消耗している場合ではない」

参照記事3:「手動瞑想を続ける日常生活での実感|「気づきの瞑想」の効果を頂ける日暮らし」



そして、この「次の一歩を自由に決める時」に、仏教の戒律が智慧となり、方向を示してくれるのです。

これは、プラユキ・ナラテボーさんが実践中心の瞑想会でも、必ず要所要所で戒律の話や「戒・定・慧」について、また、仏教・仏法の教学についても最低限話して下さる事にも、繋がっております。

この辺り、瞑想指導者と縁を結ぶ際の指標にもなりましょう。

瞑想で「今、ここ」から「次の一歩」の方向を示してくれる道標としての戒律と仏法

マインドフルネスや、気づきの瞑想をして、「今、ここの状態に気づいて、受容する」まで、行ったとしましょう。

大抵の瞑想会やマインドフルネス講座では、ここまで教えてくれるかと存じます。



ただ、宗教性・宗教色を取り除いたり、仏教の色を薄めていたり無くしている瞑想指導やマインドフルネス講座では、果たして仏教の戒律や仏法について、どれだけ教えてくれるでしょうか。

こういう「宗教性・宗教色のないマインドフルネス講座」や瞑想会において、「戒・定・慧」という言葉と概念について、解説しているところって、どれくらいありましょうかね。

「マインドフルな状態になった後や、今・ここに気づいた後にある「次の一歩」」まで、きちんと言及してくれるかどうかも、注目したいところです。



マインドフルな状態になり、今・ここに気づいても、それで終わりではありません。

気づいた後に「次の一歩、次の一手」へ進む段階が御座います。



では、あなたに問います。



マインドフルネス瞑想や気づきの瞑想によって、次の一歩を出す段階へ来たとします。

その「次の一歩、次の一手」は、どこを向いているでしょう?

そして、その方向付けをしている土台、背景にあるのは、なんでしょうか?



自己啓発系やビジネス系のマインドフルネス瞑想は、「次の一歩」は、ビジネスやお金儲けに直結する一歩を踏み出す様相ではありませんかね。

「今、ここに気づく→次の一歩はお金を稼ぐ、ゲインを得るための一歩にする」とか、ね。



ここで、宗教であったり、仏教・仏法の戒律といったブレーキがなければ、極端な話をすると、「マインドフルに詐欺をする」なんて事にもなりかねません。

また、歩行瞑想中に、方向を示す道標が無い場合、これまた極端な話をしますが、歩行瞑想をしている時の「次の一歩」は、前を歩く人を蹴り飛ばす一歩にする事にだって繋げる事が出来るのです。



これはあくまで極端な例ではありますが、やろうと思えば、こういう「苦に繋がる次の一歩」を繰り出すことだって、出来てしまいます。



そのような、自他にとって苦となる一歩を踏み出さない、そういう苦の方向に突っ走らない道標となるのが、「宗教」であったり、仏教・仏法であり、戒律で御座います。



ここには、私が毎日頂いております、法然上人の御教えであったり、様々な宗派の御宗祖が伝えて下さった教えも御座います。

もちろん、私の場合は、プラユキ・ナラテボーさんや、私を救って下すった浄土宗のお坊さん方から頂いた御教え、仏法も含まれます。

瞑想と仏教の戒律と:私の場合は法然上人の御教えも方向を整えて下さる道標です

プラユキ・ナラテボーさんは、マインドフルネス瞑想会で、呼吸瞑想や手動瞑想、歩行瞑想を教えて下さる時、同時に座学的な仏教の話や教学も伝えて下さいます。

時には、瞑想実践が中心であり、座学的な話をしないというマインドフルネス瞑想会も実施されますが、それでも要所要所で最低限の仏法解説や、戒律の話をして下さいます。

その時に、「自他の抜苦世楽」や「善き縁」の話を、とても丁寧に、そして大切に教えて下さることが印象的です。



この「自他の抜苦世楽」が、「次の一歩」を、前の人を蹴り飛ばす一歩ではなく、「自他共に善き縁となる一歩となる方向」を、示して下さっているのです。



仏教の戒律の話をしますと、「不偸盗戒」や「不綺語戒」「不妄語戒」が、次の一歩、次の一手を示してくれることは、これまでの話で自ずと分かるのではないかと存じます。

私が、「マインドフルネス瞑想、数多の瞑想に共通する事として、次の一歩を方向付ける道標として、宗教的な話や戒律は、セットである方が、より迷い無く道を歩める」と考えるのは、ここにあるのです。



瞑想によって気づき、マインドフルな状態になった次の一歩を、「自他の抜苦世楽」を前提として、戒律という道標を有り難く頂きながら、しっかりと踏み出す。

マインドフルネスが流行している昨今の娑婆世界において、肝要な事であろうかと思う今日この頃に御座います。



合掌、礼拝

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