「実践!!瞑想の学校」読書感想文|仏教の気づきの智慧と日常生活の送り方を考える

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、歩いて本屋まで行って購入した「実践!!瞑想の学校」を読み終えました。



この本については、プラユキ・ナラテボーさんのTwitterによる情報で、知る事となりましてね。



「実践!!瞑想の学校」は、ドイツ人僧侶のネルケ無方さん、プラユキ・ナラテボーさん、藤田一照さん、島田啓介さんと宮下直樹さんの対談、井上ウィマラさんが、瞑想について解説して下さっています。

仏法と共に、坐禅と瞑想についても学べるという、内容も講師役も充実していると言うお味わいを頂ける一冊で御座いました。



挿絵も入れてあり、瞑想の実践法についても詳しく書かれておりますから、わかりやすくて有り難し。



この本をつがいにして、興味が沸いたお坊さんや瞑想教室・リトリートの運営者に目を付けられたら、実際にそのお坊さんが主催の講座なり瞑想会に行かれると宜しいかと存じます。

何度も申し上げておりますが、本で読んだり動画も結構ですが、実際にきちんと直接指導・直接伝導頂く方が望ましい事でありますからね。



そのような事を冒頭にて踏まえて頂いた上で、今回は、「実践!!瞑想の学校」の読書感想文と題しまして、私の味わいと気づいた事、改めて学んだ事をお伝え致します。

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「実践!!瞑想の学校」の読書感想文:全体の話

「実践!!瞑想の学校」を読み終えて、その読書感想文として、まずは全体の話と言いますか、全体でどのような本でるか、と言う事の解説を交えて、お伝えしていきます。



「実践!!瞑想の学校」は、表題・本のタイトルにある通り、瞑想を実践出来るように伝えられている本です。



瞑想とありますが、解説して下さる講師役の一人目として本書に登場するネルケ無方さんは、瞑想と坐禅について、英語を使って解説されています。

ここからもう、私としましては、興味引かれることでありました。



「瞑想はmeditation、坐禅はJust-sitting」



この話を持ち出してくるのが、果たして的確かどうかは分かりかねますが、映画「Zen」で、道元禅師の「ただ、坐ることに御座います」という台詞を思い出しました。

何か状態を欲して坐るのではなく、お金持ちになるために、ビジネスで成功するために、という目的有りきで坐るのではなく、「ただ坐る」。

このような、瞑想会や坐禅会では、座学的・教学の話と共に、絵を使った坐禅や瞑想のやり方についても、各話で詳しく解説されています。



今回、第2部のプラユキ・ナラテボーさんは、Twitterでも色々と情報を学ばせて頂いている、コマメさんという法友とプラユキ・ナラテボーさんの掛け合いにて、仏法と瞑想の方法が解説されています。

今回も、手動瞑想と歩行瞑想について解説されており、手動瞑想は絵入りでわかりやすくかかれております。

後ほどお伝えする内容と関わりますが、78ページの「どうやって、日常生活に瞑想を取り入れるの?」は、必読の部分です。

「瞑想は、リトリート・瞑想道場や瞑想会でだけしか出来ないもの」「そういったところだけでやっときゃいいや。」という先入観を持っている人には、是非とも読んでおいて欲しい箇所です。



この後も、藤田一照さんが、屍のポーズを絵入りで詳しく伝えて下さり、後ほどお伝え致しますが、大切な事を説いて下さっています。



島田啓介さんと宮下直樹さんの対談では、ティク・ナット・ハンさんというベトナムの高僧についてと、その瞑想法やリトリートについて解説して下さっています。

時代に合わせて作られた偈頌(げじゅ:ガーター)は、仏教の柔軟な説き方を垣間見たもので御座います。



最後の書き下ろし部分、井上ウィマラさんの箇所では、サマタ瞑想とヴィッパサナー瞑想について、そして「智慧と慈悲」について解説して下さっています。

その他「四苦八苦」や「無常・苦・無我」「初転法輪」といった仏教の基本的な事柄と、瞑想の妨げとなる「五蓋(ごがい)」についても触れています。



このような内容で「実践!!瞑想の学校」は、私としては講師陣も豪華で、学び多き良書というのが、率直な読書感想です。



最後まで読み終えてみて、「仏法と瞑想の実践を一冊でかなり学べる、なんとも有り難き本であろうか。」と、頂いたもので御座います。

「実践!!瞑想の学校」を読んで、気づき学んだ事を二つに絞って紹介致します

ここからは、「実践!!瞑想の学校」を読み終えて、そこで気づいた事や学んだ事を、お伝え致します。



気づいた事や学んだ事は色々とあるのですが、あまりにもつらつらだらだらと述べても、消化不良になりましょう。

ここは、二つの事柄に絞ってお伝え致します。

その中でも、各話に共通する事柄、通底する事に絞ってお伝えすることと致しましょう。
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「実践!!瞑想の学校」各話に共通する事柄1:気づく事の大切さ、自覚的に生きる事

「実践!!瞑想の学校」各話に共通している、私が味わい学んだ事の一つ目。



「気づいて自覚的に生きる事の大切さ」



ともすれば、人という生き物は、易きに流れやすいものです。

自動化できることは、効率が良いと言う事もありまして、なんでも自動化されていく流れが御座います。

人の反応も、その流れで自動化されている、なんてこともありましょう。



そうなると、いちいち気にしたり「自覚的になる」という必要もなくなってきて、更に流されて生きるという循環の出来上がりです。



わかりやすい例を挙げるならば、食事の時間がそうではありませんかね。

例えば、こんな人は周りにいませんか?

また、ご自身は「あ、俺もやってしまっている。」と、日常生活を思い出してみたら、改めて自覚するに到る事も、あったりしませんかね。



会社の食堂にテレビがあったとしたら、それをぼへーっと眺めながら、せっせと口に食物を運ぶ。

帰宅してからの夕飯も、反射的にテレビを付けて、ぼへーっと画面を見ながら、せっせと口に食べ物を運ぶ。

そして、「昨日の昼、何を食べましたか?」「昨夜のメニューを教えて下さい。」と問われると、「昨日、何食べたっけなあ。」と、なる始末。



これくらいであれば、まあ、笑い話で済ませることも出来るかも知れませんがね。

無自覚に生きる、自身の状態や行動を全く自覚せずに生きるというのは、私としてはなんだか味気ない気がします。

食事の例を挙げたからというわけではありませんが、きちんと目の前の食べ物を疎かにした状態で食べていると、読んで字の如く「味気ない」となってしまいます。



また、自身の状態や行動、その他に周囲のことや他者についても、無自覚で流されるままに生きていると、要らぬ衝突も招きかねません。

もちろん、きちんと気づいて行動したとしても、それで怒りを買ったり、衝突する事も有るのが娑婆世界・忍土です。

しかし、自覚してのことであるか、無自覚で流されての行いであるかで、次の対応や「脚下照顧」に繋げられるかが、随分と変わってきます。



無自覚に行った事でトラブルを招いた場合、「なんでこんなことになったんだろう?」と、右往左往します。

自覚的な活動によって生じた不具合ならば、「ああ、あの場面でこうしたからだろうな。」と、すぐに修正できます。



これはあくまで一例ではありますが、気づく事の大切さ、気づいて自覚的に生きる事の大切さを、「実践!!瞑想の学校」にて、改めて考える事となりました。



私も、ついつい「ぼへー」っと、無自覚になる事ばかりですから、改めて、日常の中で瞑想を続け、集中的に瞑想をする時間も設けて、お念仏にも励むべし。

雑念・妄念や感情の生起を悪者扱いしない事

気づきの大切さ、気づいて自覚する事の大切さについて学ぶ事となった「実践!!瞑想の学校」。

この本では、気づきの智慧を養う瞑想を実践する上で、瞑想中に沸いてくる「雑念・妄念」についても、詳しく書かれております。



瞑想中の雑念や妄念と言うと、悪者扱いされがちな印象が御座います。



悪者扱いされやすい「雑念・妄念」は、じーっと坐っていたり、瞑想をしている最中に、ふつふつと内側から沸いてくるものです。

熟練者であったり、素養のある人はその限りではないのでしょうが、瞑想を始めたばかりの人は、特に雑念や妄念が湧いてくるかと存じます。



ちなみに私も未だに、手動瞑想中にふつふつと雑念なり妄念が沸いてきますが、現在は「気づきの装置の一つ」として頂き、気づいて、また手の動きに戻る、と言う事を繰り返しております。

歩行瞑想ならば、気づいて次の一歩に、という感じですね。



この時、「雑念・妄念を悪者扱いせず、ただただ気づく・観る」という事が肝要です。

このことについては、プラユキ・ナラテボーさんが83ページで、井上ウィマラさんが212ページから解説して下さっています。

また、私はプラユキ・ナラテボーさんからマインドフルネス瞑想会にて、直接伝導して頂きました事柄でも御座います。



プラユキ・ナラテボーさんは、雑念・妄念を「雑念とは、まだその価値が発見されていない思考である」と定義されています。

その上でプラユキさんは、瞑想をするにあたって、「構えを作らずに、オープンハートで」と仰います。



瞑想を始めるにあたり、「雑念・妄念=悪」という図式を持ってして構えて始めると、瞑想中に雑念が湧いたら、「雑念が湧いた、自分は出来ない、もう駄目だ」と、自己否定をしてしまう事に繋がります。

「構えを作らず、オープンハートで受容する」という智慧は、「雑念=悪→雑念が湧く自分は悪」という短絡的な思考による自己否定から始まる瞑想難民化を、とめる機能もあります。

「雑念は悪ではない、沸いてもオッケー」と受容する事もセットで教えて下さることには、そういった意味もあるのです。



また、井上ウィマラさんは雑念について「雑念は、本当の自分への入り口を示すサインである」と仰います。



お二方の言説から、私は「雑念・妄念は、気づくための養分として味わう事が出来る、気づきの要素として頂く事が出来る」という事に気がつきました。



「雑念=悪」ではなく、お二方が伝えて下さる「気づきの要素」として頂く事が、瞑想を進めていく上で、瞑想難民化しない智慧ではなかろうかと存じます。

「実践!!瞑想の学校」各話に共通する事柄2:日常生活について・坐禅や瞑想以外の時間を疎かにしない

「実践!!瞑想の学校」で、各話に共通する話であり、学ぶ事となった事柄の二つ目。



「日常生活を瞑想と切り離して疎かにしない事」



このことについては、以前も似たような話を、このブログ(寺院)でもしております。

今回、「実践!!瞑想の学校」を読み終えて、改めてその事に気づく事となりました。



坐禅や瞑想というと、あまりよく知らない、全く触れた事が無いという人は、お寺や瞑想道場、リトリートや瞑想教室だとか講座でやるもの、というイメージをお持ちかと存じます。

もちろん、そういった場で教わりながら行う事もありましょうし、まずはきちんと教わることの大切さは私も何度も申し上げている通りです。

ただ、特別な場、日常から離れた場で坐禅や瞑想を習い、その後、日常に戻ってからの事が、疎かにされていないか、という懸念が御座います。



このことについては、以前からプラユキ・ナラテボーさんからも瞑想会や講座で仰っていましたし、「実践!!瞑想の学校」でも、書かれておりました。



藤田一照さんは、114ページの「現代の八正道」にて、このように仰います。


坐禅以外の時間をほったらかしにしておいて、ほんのちょっとだけ坐る坐禅だけで、今よりましな自分になろうなんて、虫がよすぎます。

(中略)

坐禅を上手くやろうということだけに目が向きすぎていて、坐禅と日常生活との関連がほとんど考えられていないところが、僕は問題じゃないかと思います。

※「実戦!!瞑想の学校」114ページより引用



この事を、もの凄く大雑把に例えるならば、以下のような話です。



面白くてためになる話をしてくれるセミナー講師がいて、その講師が登壇するセミナーに行ったとしましょう。

そして、セミナー会場行って、講師の話を聞いて、家に帰ってから行うワークも教わったとします。

セミナーが終わった後、セミナー会場から出るときに、「ああ、いい話を聞いた。」と、思ったとして、その後の話ですよ。

結局、家に帰っても教わったワークをせず、「いい話だった。」で終わってしまうという始末って、ありませんかね。



学んだ事が、日常生活の中で全くもって活かされていないという典型的な事例です。

セミナーでは行儀良く聴いていても、終わって日常に戻ったら、元の木阿弥というやつですね。



坐禅や瞑想も、日常と切り離して、「坐禅会や瞑想会には参加するけれども、そこでだけやってりゃいいや。」という人は、このような状態ではありませんかね。

「坐禅の時だけ、瞑想中だけスターを獲得した無敵マリオ状態!」なんて、虫が良すぎること甚だしい。



このことを戒める、ウ・ジョーティカ師のつぶやきもありますよ。


坐禅や瞑想の現場だけではなく、日常生活から調える

坐禅や瞑想を体験して、日常に戻っても、きちんと日常を整える智慧や方法、日常生活からきちんと整える事については、「実戦!!瞑想の学校」でも教えて下さっています。



プラユキ・ナラテボーさんの項目では78ページに、島田啓介さんと宮下直樹さんの対談中では、158ページに「日常を瞑想の場に変えるプラムヴィレッジの実践」にて、詳しく書かれています。



また、私も以前に、日常を気づきの場、歩歩是道場という話をしております。



参照記事:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」

参照記事2:「手動瞑想を続ける日常生活での実感|「気づきの瞑想」の効果を頂ける日暮らし」

参照記事3:「日常生活の中で出来るマインドフルネス瞑想の方法|プラユキ・ナラテボーさんから教わった事」



「自分は時間を決めて坐禅や瞑想をしているから、他はどうでもいい」という思考に陥っているという自覚があるならば、今回の話は幾許かのヒントになろうかと存じます。



肝要は「実践!!瞑想の学校」にて。

「実践!!瞑想の学校」で学び、実践は各々が直接指導賜に行かれると更に宜しかろう

今回は、「実践!!瞑想の学校」について、読書感想文を綴ると共に、私が味わい学んだ事、気づいた事を二つに絞ってお伝え致しました。



色々と申し上げてきましたが、私という他者の話を参考にして頂くと凄く有り難いし励みになります。

その上で、今回の話から「興味沸いてきた」と思われたら、実際に立ち読みしてから購入するなどして、読まれると宜しかろうと存じます。

瞑想の一歩目としても、教学を学びながら瞑想を実践する本としても、良書であると、私は味わっております。



また、今回の話と、実際に読まれた上で、「このお坊さんに、実際に坐禅を教わりたい」「この人の瞑想会に参加してみようかな。」と思われたら、瞑想会の実施状況を検索して、参加するのも一つの道です。

もちろん、強制は致しませんが、坐禅・瞑想を学ぶならば、一度その道を歩み続けて、瞑想指導が出来る伝導者のもとで、きちんと教わる事が肝要です。

独りよがりの独学坐禅は「野狐禅」に、瞑想の場合は「瞑想難民」になりかねませんからね。



参照記事:「マインドフルネス瞑想を自力で始めると陥る危険な罠|私が直接指導・伝導や瞑想会を大切にする理由」



私も、一通り教わってはおりますけれども、定期的に瞑想会や坐禅会に参加して、定点観測と言いますか、修正なり踏み外さぬ智慧を頂きにいっております。



お念仏にしても、そうです。

別時念仏会に、定期的に参加させて頂いている事とも、この話は共通しております。



尚、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に参加してみたい方は、私は直接参加している経験がありますから、こちらが参考になりましょう。



参照記事:「マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編」

参照記事2:「不安解消に効果があるマインドフルネス瞑想を体験してきました|プラユキ・ナラテボーさんとの善き縁」



今回の話」が、あなたにとって仏法に触れる仏縁となり、よき瞑想の智慧の書となるきっかけになれましたら、嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝



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