マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2017年4月23日(日)は、プラユキ・ナラテボーさんの「マインドフルネス気づきの瞑想会」が、「善き縁ネット」の協力の下、行われました。
私は、今回のマインドフルネス瞑想会で、プラユキ・ナラテボーさんから直接伝導を頂くのは、2回目で御座います。



この寺院(ブログ)で、プラユキ・ナラテボーさんについては何度か解説しておりますが、改めて解説致しますと。

プラユキ・ナラテボーさんは、タイのスカトー寺というお寺の副住職をされている比丘(僧侶、お坊さん)であり、日本とタイを行き来して活動されています。

著書も幾つか出版されており、この寺院(ブログ)でも、「自由に生きる」や「悟らなくたって、いいじゃないか。」(魚川祐司さんとの対談共著)を紹介しております。



今回の話は、日本に帰国されている間に、有志がプラユキ・ナラテボーさんをお招きして行って下さる、マインドフルネス・手動瞑想などの瞑想伝導をして下さる講座についてです。

今回の、プラユキ・ナラテボーさんから伝導して頂いた、マインドフルネス瞑想での智慧の数々、非常に学べる内容で、幾つもの気づきを頂いて参りました。

仏教の瞑想、仏陀の智慧やマインドフルネス瞑想に興味はあるけれども、実際にどのような講座があるのだろう、という関心のある方は、私の体験談を参考にして頂ければ、嬉しゅう御座います。



私個別における、体験した者として言える感想としましては、改めて「瞑想初学者、これから瞑想をやってみようという人には、有り難い善き縁なり」という結論を持っております。

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プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会体験談:この日の大まかな内容

プラユキ・ナラテボーさんから、直接、仏法と瞑想(呼吸瞑想、手動瞑想、歩行瞑想など)を学べる、今回のマインドフルネス瞑想会。



この日に私が実際に体験したカリキュラム、内容について、大まかに羅列しておきます。

私が個別に気づいた事柄や、学ばせて頂いた事柄につきましては、その後でじっくりとお伝え致しましょう。



まず、9時20分にマインドフルネス瞑想会が開始。

今回は、座学による仏教講座は、適宜補足的に行うという形式で進められて、前回よりも瞑想実践の時間が、より多い日となりました。



まず、午前中は呼吸瞑想「アーナーパーナサティ」を直接伝導して頂きながら実践。

これについては、「自由に生きる」という、プラユキ・ナラテボーさんの、現段階における集大成的名著を参考に、行われました。

呼吸瞑想の実践では、適宜プラユキさんの指導・伝導を頂きながら、皆さんと共に、呼吸瞑想を致しまして。



昼食時は、前回と同じく「食事瞑想」を体験しつつ、食事を頂くことに。

実は私、この「昼食時・食事瞑想」の時に、大いなる気づきと学びを頂くに到ります。



午後は、午後から参加する方々も来られて、適宜座学的な仏教講座を補足的に途中で行いつつ、手動瞑想を実践。







基本的には、このように手を「ぱっぱっ」と動かして、その都度、その瞬間瞬間に気づいていく、という瞑想です。



手動瞑想は、「気づきの瞑想(マインドフルネス瞑想)」としても活用出来る方法であり、また、集中瞑想(サマタ瞑想)にする事も出来ます。

今回は、「気づきの瞑想・マインドフルネス瞑想」を主に教わりましたが、途中で少しだけ、「サマタ瞑想的・集中瞑想としての手動瞑想」も、新たに教わりました。

やり方は、「ぱっぱっ」ではなく、動かしている手に「ぐーーーーっ」と、集中して続ける、というものです。



手動瞑想の伝導が終わってから少し休憩を取り、その後は、施設内で歩行瞑想を練習してから、外に出て快晴の下で歩行瞑想を実践。

戻ってから、再び手動瞑想をして、最後はシェアリング・講座で気づいた事や質疑応答の時間となり、お開き。



17時からは、前回と同じく、喫茶店に移って懇親会を開いて頂きまして、そこでも色々と、専門的な話や深い話を集った皆さんから頂く良縁を頂きました。

マインドフルネス瞑想会の気づき体験談:瞑想難民にならぬための智慧

今回の、マインドフルネス瞑想で気づかせて頂いた事は、幾つもあるわけですが、ここではその中から特に「これは!」と思うた事に絞って、お伝え致します。



まずお伝え致しますのは、改めて「瞑想難民」にならないための智慧を頂きまして、これは伝えておいた方が良いであろうと、私が感じた事に御座います。



これは、あくまで私個別の感覚ではありますが、瞑想が市場に乗せられていると感じる事もあるという現状が関係しています。

人によっては、瞑想をするとき「瞑想にゲイン(得られる事、得する事)を求めすぎてしまう事」が御座います。



例えば、某IT企業も「マインドフルネスで企業革命だ」的な表題で書かれている本があり、それに引っ張られた形で、瞑想に興味を持ったり、瞑想をし始める、といったケースに観られる話です。

それはそれで、確かに学べる事も御座います。

Twitterで、プラユキ・ナラテボーさんも「とっかかりや、瞑想に触れるきっかけとしては、一つの在り方」と仰っている通り、それ自体を無下に否定する事は御座いません。



ただ、「瞑想をすると、こんなに仕事が出来る状態になるはずだ!」とか、そういう「ゲイン執着状態」で瞑想をすると、「あれ、こんなはずじゃ・・・」という具合になってしまいます。

そして、そこから「瞑想が間違っているのかな。」「こんな事も出来ない自分はダメだ。」という自己否定や疑心暗鬼が深まり、瞑想難民の出来上がり、という事態になることもあります。

実際に、このような状態に陥った瞑想難民と言われる人達と、プラユキ・ナラテボーさんは何度も出会われたというお話しも伺っております。



このような状態に陥る原因を、今回はプラユキ・ナラテボーさんから「状態を求めてしまう事」と、教えて頂きました。



典型例としては、「瞑想をすることで、人格者的な状態になれる」「良い状態になれるはずだ」というように、状態を求める事です。

瞑想とはそういうものではなく、「ただただ、観る」事が肝要で御座います。

初めて参加される方も多い中、先にこのように注意点を伝えて頂けたこと、瞑想難民にならぬ智慧を頂けたことは、有り難き良縁なり。

私も、改めて、別の表現で学ばせて頂いた次第で御座います。



また、瞑想の妨げとなる五つの蓋「五蓋(ごがい)」についても、新しく教えて頂きました。

サクッと羅列します。



1:眠気

2:五感の執着・感覚的な渇愛

3:感覚的なものに対する不快感(2の逆)

4:散乱心(こころがざわついている感じ)

5:疑心・疑念



瞑想をする時、瞑想を妨げる蓋となる、この五つの事にはまり込まずに、「ただ、ただ、観る」事です。
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マインドフルネス瞑想会での体験談:瞑想の五力(ごりき)と、私の頂き方

マインドフルネス瞑想会では、瞑想を実践するに辺り、ホワイトボードを使って補足的な仏教講座もありまして、その時に頂いた話に「五力(ごりき)」が御座います。

「五力」とは、次の五つのことです。



1:信頼力「信」

2:精進力「勤」

3:覚醒力「念」(気づく力)

4:受容力「定」

5:洞察力「慧」(理解する力)



これは、手動瞑想を一度練習して、その後にプラユキ・ナラテボーさんが一旦補足的な解説をして下さった時に、伝導して頂いたブッダの智慧に御座います。

今回は、特に3の「覚醒力、気づく力」と、4の「受容力」について、特に丁寧に教えて頂きました。



その上で、私は帰宅してから復習して(復習しながら、この文章を執筆しているのですがね)、2の「精進力・勤」に注目しております。



一体、どういうことか。



よく「精進します」と言いますが、精進する事は努力する事と同義と考えても、現代社会においては差し支えない事で御座いましょう。

それを踏まえた上で、「精進力」を「勤」ともされているところで、私は「勤行・お勤め」という事を考えた次第で御座います。



私は、浄土宗の勤行、毎日のお勤めを朝と晩にさせて頂いております。

つまり「勤」とは、毎日行う事であり、日々の習慣でもあるのです。

瞑想も「勤」と言う事は、リトリート(瞑想や仏道修行のために集まる事、集まり)や、特別なマインドフルネス瞑想会だけで終わるのが瞑想ではない、という事も、同時に見出しました。



「精進」とは、「一心に仏道修行にはげむ事」です。

そしてそれは、一日二日で終わること、その場限りのことではありません。

「精進します」と言っておきながら、言ったその場だけしか努力しない、勤めない、なんてことは、精進とは言えないというのは、把握して頂けるかと存じます。



仏教において「精進」と言うと、「四諦八正道」「八正道」に御座います「正精進(しょうしょうじん)」を連想する人もいらっしゃるかと存じます。



「正精進」とは「正しい努力精進(この場合の「正しい」は、仏教において)」という意味です。

そしてそれは「一時的、一時だけのこと」ではなく、その場限りのことではなく、続ける事が前提としてある、だから「勤行」の「勤」を内包している。

私は、このような頂き方をするに到りました。



そういえば、八正道にも「正精進、正念、正定」まで調って智慧に繋がるわけですから、「五力」は「八正道」とも共通している御教えですね。

それを考えると、プラユキ・ナラテボーさんが伝えて下さった「五力」は、この順番もとても大切である、そのように私はお味わいを頂いております。

マインドフルネス瞑想会の体験から学び気づいた事:「五力」は、次の二つの力に繋がる

今回のマインドフルネス瞑想会で、プラユキ・ナラテボーさんから教わった事の中で、特に大きかった「五力」の御教え。

私は、この「五力」が備わってくると、私が勝手に考えました、次の二つの力にも繋がり、備わるのではないか、という事を考えました。



一つ目は、「共感力」です。



共感力とは、読んで字の如く、共感する力の事であり、他者への共感の事ですね。

この場合、「勉強の哲学」での文脈における「他者(非自己存在全て)」と捉えて頂いても宜しいかと存じます。

参照記事:「「勉強の哲学」(千葉雅也さんの本)の読書感想文|言語そのものと学習者が辿る過程が考察された良書」



五力にある5番目の力「洞察力」は、理解する力でありまして、瞑想して気づきの智慧によりて自己を理解する事です。

そしてそれは、「相手を、他者を理解する力」にも繋げる事が出来ます。



プラユキ・ナラテボーさんは、「洞察」を「penetration」と解説して下さいました。

「洞察」の英語は、他にも「insight」があると、懇親会で参加された方から教えて頂きましたが、どちらにも「看破、眼識、洞察(力)」という意味が御座います。



自己を洞察・看破し、その事により、苦の因や、どのように念が継がれていったり苦が増大するか、などを観察して現象をきちんと知って理解する事。

自己を理解する事はもちろんの事、自己の理解が深まれば、相手を理解するという力にも繋がります。



ここで肝要な事は、プラユキ・ナラテボーさんが大切に説き続けられる「自他の抜苦世楽」を前提とする事です。



「自他の抜苦世楽」を前提として、五力を養っていくことで、自身を観察(かんざつ)する洞察智も育まれると共に、他者への洞察智も育まれる事に繋がります。

これは、仏教の基本的な概念や教えに御座います「慈悲と智慧」の話にも関わってきます。

「慈悲と智慧」は、セットにして説かれる事が多く、浄土宗でも慈悲と智慧の観音が、阿弥陀仏の左右におわします。



洞察力は「智慧と慈悲」「自他の抜苦世楽」を前提として育む事で、他者を智慧と慈悲をもってして洞察する。

その事が、例え完全にはわからなくても(原理的に不可能であるということも、智慧により観ずる)、相手の感じている事等を共にする慈悲をもって接する。

これすなわち「共感力」である、と私は考えるに到りました。



気をつけなければならない事は、同じ体験をしたからといって、全く同じ事を感じるとは限りませんし、真逆の感想を述べる事は、確かにあり得ます。

この辺り、現代文・小論文講師であられる、出口汪さんの仰る「他者意識」を持つ事が肝要です。

それを踏まえ、そこから「この体験をしたからと言って、他者も同じように感じるとは限らない、でも、共通する部分や共感する部分もあるのではないか。」と、体験したからこそわかる事も御座います。

そこで大切な事が、「自他の抜苦世楽」を前提とした「洞察力」です。

これを育めば、他者への配慮を忘れない智慧をもってして「共感力」を使う事が出来る、と私は考えます。



そして、この「共感力」が、二つ目の力に繋がります。



それは「救済力」です。

この「救済力」と、この力を育んで行われる事は、まさに「自他の抜苦世楽」の実践です。



もちろん、救済する実力があるかどうかは、実力を付ける必要はあります。

ただ、洞察力を磨き、そこから「共感力」も養う事により、他者の救済をする方向を見出すことは出来ましょう。

その方向を間違えずに、自他の抜苦世楽を実践出来る力は、「救済力」と表現しても宜しいかと存じます。



瞑想により気づきの智慧を頂く事で、五力を磨いたら、更にその先にある「抜苦世楽の実践」として、「共感力」と救済力」もあろうかと言うのが、今回のマインドフルネス瞑想会で考えました、一つの仮説で御座います。



ちなみに、今日の帰り道で途中までご一緒させて頂いた参加者の方から、プラユキ・ナラテボーさんに、スカトー寺にて共感と救済を頂いた、という話を聞かせて頂きました。

ゆえにこの話は、プラユキさんの共感力と救済力により、抜苦世楽がなされたという実話を頂いた上での話です。

30年の瞑想修行により、五力を磨き、相談に来られる方に、智慧と慈悲をもって洞察した上で共感し、そこから救済をされたという体験談を頂き、このような仮説を立てるに到った次第で御座います。

プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会での最大の気づき:日常での瞑想

今回の、プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会にて、最大の気づきとも言える話は、「日常生活における瞑想」についてです。



この話は、以前にも私が日常生活の場で、実際にやってみた事がありますから、併せて読んで頂くと、より理解が深まりましょう。

参照記事:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」



マインドフルネス瞑想を、日常生活の場に取り入れる事で、丁寧な暮らしが実現しやすくなる、という話をしております。

それが「おもてなし」であったり、所作を調える事にも繋がります。



その事に気づかせて頂いたのは、昼食の時です。



昼食時には、「食事瞑想」をする事になったのですが、解説を頂くときに、以前クーリエ・ジャポンに掲載されたプラユキ・ナラテボーさんの記事の引用がありましてね。

参照記事:「下手なダイエットプログラムより仏教の智慧|身心とお金を消耗しないプラユキ・ナラテボーさんによる食の教え」



それに加えて、浦崎雅代さんが翻訳された、パイサーン・ウィサーロ師の説法の内容も教えて頂ける機会があり、この説法の内容が、「日常における瞑想」の気づきに繋がりました。

やっていることを一つ一つ、気づきを持って行う。

ご飯を食べる時は、食べることに気づいていく。

破を磨く時には、破を磨くことに気づいていく。

※浦崎雅代さん翻訳、パイサーン・ウィサーロ師の説法より引用

歯を磨くという事は、あなたも何気なくやっている事ではなかろうかと存じます。

私も、ついついいつもやっている事、意識しなくても出来る事故に、「意識的に歯を磨く、歯を磨いている自分に気づく」という事が、疎かになりがちです。

ご飯を食べるときも、そうですね。

私はスマートフォンを持っておりませんから、原理的に出来ませんが、ついついLINEをやりながら、食事していませんかね。



このように、漫然と動作する、何かを漫然と流れ作業でやるのではなく、「一つ一つに気づきを持って行う」ということが肝要です。



私の場合でしたら、「珈琲を入れる」という事を、「珈琲豆の入った瓶を戸棚から出す、というところから、一つ一つの動作に気づきながら行う」ということをやりました。

今回はプラユキ・ナラテボーさんからも、「お茶を支給する時も、瞑想の場とする事が出来ますよ。」と教えて頂きました。



職場であったり、家にいるときに、あなたに「お茶を入れてくれ」と頼まれた時、ただ漫然と「面倒だなあ。」と、イヤイヤお茶を入れるか。

それとも、「お茶を入れる」というその行為を、「一つ一つの動作・所作に気づきながら、終始瞑想的にお茶を入れてみる」とするか。

お茶を飲む側も、ただ漫然と、また片手間にお茶を飲むのか。

それとも、一つ一つの動作を丁寧に観察(かんざつ)しながら、瞑想修行の場として、五力を養う善き機縁とするか。



瞑想を日常に取り入れてみたい、という方は、今回のプラユキ・ナラテボーさんから頂いた智慧を参考に、少しずつ始められてみるのも宜しかろう、そのように思うところに御座います。



今回、私が体験させて頂きました、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想についての話、マインドフルネス瞑想会に関連した話は、こちらでも記載しております。



参照記事:「不安解消に効果があるマインドフルネス瞑想を体験してきました」

参照記事2:「マインドフルネス瞑想の簡単な方法|プラユキ・ナラテボーさんの手動瞑想と応用」

参照記事3:「マインドフルネス瞑想入門にプラユキ・ナラテボーさんの本や講座が良い2つの理由」



また、まずは本・書籍から学んで予習してから、近場でプラユキさんのマインドフルネス瞑想会が開催されたら行ってみたい、という方には、こちらで本の内容にも触れております。

参照記事:「マインドフルネス瞑想をするなら読んでおきたい3冊の本」

参照記事2:「「悟らなくたって、いいじゃないか」という本は、コンサルタントや教育者の必読書」



参考にして頂ければと存じます。



今回も、プラユキ・ナラテボーさんから幾つもの大切な智慧を頂き、色濃い学び多き貴重な時空間を共有させて頂きました。

有り難き善き縁なり。



最後の最後に、余談的な話をば。



私、プラユキ・ナラテボーさんのTwitterでの説法「辻ッター」で、説法にリツイートしながらコメントしていたためか、知らぬ間に、幾人かの方々に知られておりました。

なんとも嬉しい御縁の結び、有り難や、有り難や。



合掌、礼拝

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