お金に対する罪悪感は上手に持たないと詐欺師になるか生活出来なくなりますよ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。

あなたは、お金に対する罪悪感をお持ちでしょうか?
いきなり「お金に対する罪悪感とか言われても、なんじゃらほい?」と、思われるやも知れません。



現代社会、特にインターネットビジネス界隈では、お金に対する罪悪感は捨て去れ、なんて事がよく言われます。

お金に対する罪悪感、この場合は「お金を頂くことの罪悪感、商品を売ってお金を貰う事の後ろめたさ」という事を指します。

私も、お金に対する罪悪感を過度に持つ必要はありませんし、真っ当な商売をやっているなら、堂々と貰うべし、という在り方ではあります。



ただ一方で、そこは宗教という社会通念とは全く違う価値体系を持つ私でありまして、「お金に対する罪悪感(倫理観)も大切である」とも提言しております。

お金に対する罪悪感を敵視したりする人や捨てろという人は結構いますが、私は上手に持っておくべきと考えているのです。

スポンサーリンク

そもそも「お金」それ自体は善も悪も無い

お金に対する罪悪感を考える前に、そもそも「お金」とはなんでしょう。

「お金ってなんぞや?」と漠然と問われても、バシっと一発で答えられるかどうかって、実は意外と考えた事が無い人もいらっしゃるのではないかと存じ上げます。



お金については、私は仏教的な接触の仕方と言いますか、仏教思想や思考から観ております。

お金とは、私は「「人が規定した概念の一つ」という認識です。

例えば、福沢諭吉さんが描かれた、あの一万円札という紙がありますね。

紙切れ一枚、確か原価は20円かそこらだったと池上彰さんの番組を観てから記憶しておりますが、それに「これは1万円の価値がある」という約束事により価値を規定しています。

物質的には紙ですし、お金という概念がそこにくっついている、という解釈の仕方を、私はしております。



これについては、人ぞれぞれありましょうし議論もありましょうが、あくまで私のお金に対する解釈は、こんな感じです。



この「概念」も「紙」も、それ自体に善悪はありません。



よく「良い金悪い金」と表現されますけれども、あくまでこれは詐欺などで得た金は悪い金という言い回しなだけで、お金という概念や物質としてのお金それ自体に、善悪はござらんのです。

もっとも、衛生的に「汚い金」というのは、生物学的に分かりますけれどもね。

そして、お金を稼ぐことについても、お金を稼ぐことそれ自体に、善悪はありません。

あるとすれば、王法(法律のこと)や仏法、道徳や倫理に照らし合わせたとき、それに反する稼ぎ方をした時に、善悪が問われる、というだけの話です。



そういえば昔ありましたね、「お金儲けは、悪い事ですか?」なんて台詞。

あの場合は、報道のされ方が見せしめ的な部分もあったでしょうから、それで「お金儲けは悪い事」と、すり込まれた人もいらっしゃるやもしれませんが。



とにもかくにも、お金やお金を稼ぐ、仕事をしたり人の抜苦与楽を実現した対価として結果的に儲かるとか稼げたという事象それ自体は、悪ではありません。



私は仏教徒・仏教者の自覚がありますが、仏教徒だからといって、お金儲けだとかお金を悪だというと思ったら、ところがどっこいってやつです。

だいたい、釈尊の時代から、商う事や経済活動を在家の人がする事それ自体を、否定していませんし禁止していませんからね。

そもそもとして、修行する僧侶の集団、僧伽(さんが)というのですが、その人達を支えていたのは、仏教の教えを大切にしていた富豪であったり商人でしたから。

在家の商人で、菩薩達と互角以上に問答出来た維摩居士も、経済活動が上手な商人でしたし。



また、現在でしたら、仏教思想を大切にしながら商う企業も存続しております。

その代表的な事例が「近江商人」です。

近江商人は、浄土真宗の思想や阿弥陀如来を大切にしながら、商いでも成果を出している商人です。

篤い念仏者で商売上手な近江商人の事例は、確かに御座います。

仏教と商い・ビジネスは、両立するのだと言う事を、すでに歴史が証明しています。



お金に対する罪悪感を考える前に、まずはこれらのことを予備知識として知っておくと宜しいかと存じます。

お金に対する罪悪感と倫理観を完全に無くすと詐欺師になりかねない

仏教では、お金を稼ぐことや儲かる事自体、悪とはしておりません。

現代社会では、仏教思想をベースとしたり、仏教の思想を大切にしながらも、きちんと存続している企業もあります。

近江商人の例で言えば、高島屋だとか伊藤忠商事がそうです。



そのような事例や歴史もありますし、私は仕事や商いでお金を頂くことについては、悪だの善だの思うておりません。

時々「ビジネスは、お金を稼ぐことは善である」とか、極論を発する人がいますけれども、善悪を論じる前に、まずは善悪という価値概念を付随する前に一旦戻ってはどうかと、私は思いますがね。

このような極論を持っている人や、お金を稼ぐ事やお金は善だという人の怖いところは、「お金に対する罪悪感がなさ過ぎる」という部分です。



お金それ自体は悪ではありませんし、お金を稼ぐことそれ自体も、悪ではありません。

問題は、「お金の頂き方、お金の稼ぎ方、ビジネスや商いの仕方」です。



例えば、人を騙したり誇大広告で煽ったりして、お金をだまし取るというのは、最早ビジネスでも商いでもありません。

これは、「お金を稼ぐ」ではなく、「お金をだまし取る」という業(ごう)であり、完全なる詐欺です。



時々、道徳教育や倫理がお金に対する罪悪感を生み出している、お金の教育が出来ていない、という話を見聞き致します。

私もそれらは聞くべき意見ですし、確かにお金に対する罪悪感を持ちやすい教育やメディアの影響は、否定しません。



ただ、だからといってお金に対する罪悪感や、お金を稼ぐことの罪悪感を完全に取っ払ったら、詐欺師になったり、お金のためなら平気で人を騙せる我利我利亡者になる恐れもあります。

今回の表題で、「お金に対する罪悪感を上手に持たないと」と申し上げているのは、この部分の話があるからです。
スポンサーリンク

ネットビジネス業界や自己啓発系ビジネスの世界はお金に対する罪悪感がなさ過ぎる亡者が多すぎる

私は、お金に対する罪悪感は上手に、そして大切に持っておくべき、という立ち位置です。

お金に対する罪悪感がなさ過ぎると、詐欺師になってしまいかねませんからね。



そして、お金に対する罪悪感が皆無で、詐欺を平気でやらかし、詐欺をしている事にも気づいていないか、あるいは気づいていても知らん振りをしている輩は、特にインターネット上にウヨウヨいます。

いわゆる、ネットビジネス業界や自己啓発系ビジネスの業界は、そんな輩ばかりですし、やり方を観れば一発でわかります。



私は奴らを、「我利我利亡者」「多罪餓鬼なる多財餓鬼」と認識しており、人間辞めた亡者として、別の生物として認識しております。

時々届きませんか、頼みもしないのにぎらぎらした迷惑メールや、こちらの高揚感を煽ってお金を奪おうとするぎらぎらしたセールスレターとか。

「おめでとう御座います!あなたは当選しました!」とか、全くおめでたくありません、おめでたいのは貴様の頭の中だけだ、と、突っ込みたくなる迷惑メールマガジンとかね。



ああいうのを観れば、「うわ!お金の罪悪感なさ過ぎ!」と思いますし、反面教師として「こうはならないでおこう」と、身が引き締まる思いです。

ああいうぎらぎらした我利我利亡者になりたくなければ、お金に対する罪悪感を、上手に持つべきでありましょう。

かといってお金に対する罪悪感で縛られると生活出来なくなってしまう

では、お金に対する罪悪感、お金を稼ぐことに対する罪悪感を持てば良い、という結論に達するかという事になりますが、ここでまた注意しなければならんことが御座います。



それは、「お金に対する罪悪感を持ちすぎないこと」です。



お金に対する罪悪感は、確かに大切に持っておかないと詐欺師や我利我利亡者になりかねません。

しかし、かといってお金に対する罪悪感を強く持ちすぎると、今度は商いにしても仕事にしても、身動きが取れなくなってしまいます。



例えば、きちんとお客様にも世間様にも貢献出来た仕事をしたと致しましょう。

お客様にも喜んで貰えて、気持ち良く対価を頂戴できるときに、お金やお金を稼ぐ事への罪悪感でがんじがらめになっていると対価を頂く事に躊躇してしまいます。

ここで生真面目な人は、「私は、お金を頂いて良いのだろうか、やっぱり詐欺していないだろうか、頂く資格はあるのだろうか?」と、心配になります。

これ、浄土仏教者の感性からかもしれませんが、実は私も未だにこんな考えが浮かんで来ることがあります。



ここまでいくと、自分は詐欺をしていないかという不安が強すぎて生じる「詐欺師症候群」という現象です。

詐欺師症候群とは、詐欺師になりかけている人ではなく、「自分は詐欺をしていないだろうか」という懸念や不安が、極端に強い人の事です。

実は、これは上手に活かせば謙虚で奥ゆかしい人柄を育めるのですがね、それについてはこkでは省略致します。



お金を稼ぐことは善だと決定(けつじょう)している人は、恐らくこの部分を懸念して、仰っているのだと私は想像致します。

相手が気持ち良く、仕事への対価を支払って下さるのに、それを無下にすることは相手にとって無礼な行為にも捉えられますからね。



しかし、「自縄自縛(じじゅうじばく)」というレベルにまでお金に対する罪悪感が強すぎると、相手の行為を踏みにじる恐れが御座います。

相手の好意や、相手から頂くべき対価を頂かないという業は、それはそれでやはり具合が悪いものです。



更に、きちんと頂くべき対価を頂かないと、最悪の場合、生活出来なくなったり路頭に迷います。



娑婆世界、現代社会を生きる在家としては、慈善事業的であったり菩薩行も、精神面を支える教えとして持っておくべきですが、行き過ぎるのもまた具合が悪い。

お金に対する罪悪感、お金を稼ぐ事への罪悪感が強いと感じる人やその自覚がある人は、その感覚感性を大切にしながらも、和らげていく事が大切です。

お金に対する罪悪感や倫理観は過不足なくバランス良く上手に持つべし

お金に対する罪悪感や、お金を稼いだりビジネス・商う事の罪悪感や倫理観は、バランス良く上手に持つべきです。



確かに、勧善懲悪物のドラマなどで、お金持ちがばっさりやられるシーンは、庶民感覚が強くてお金持ちに嫉妬している人にしてみれば、気分爽快になりやすいことでありましょう。

そういうドラマが、未だに放送・再放送されるという事からも、一定の需要がある事が分かります。



一方で、お金という概念が一人歩きして、どうしようも無く無視出来ないほどに価値体系が確立されている以上は、お金を頂いて生きると言う事は、避けて通れません。

どうしても経済活動をせずに生きていきたいならば、それこそ出家して托鉢で生きられる世界で、在家の人に支えて頂くしか御座いません。

この文章を読んでいる人は、大体が現代社会、それも日本の経済社会に生きる人でしょうから、そのような生活様式は現実的とは言えないかと存じます。



だったら、お金に対する罪悪感を、倫理観や道徳も育みつつ、持ちすぎずに捨てすぎずに、程よいバランスで上手に持つのが、良い方向へ向かう智慧でありましょう。



よく、ネットビジネス業界やガリガリしたお金お金という世界では、お金そのものやお金を稼ぐ事への罪悪感を完全否定する人がいます。

言わんとしている事はわからんでもありませんがね、でもそれは詐欺師になりかねない言説ですから、私は完全同意は致しかねます。

かといって、お金に対する罪悪感が、生活の妨げになるレベルや詐欺師症候群レベルにまで持ってしまうと、身動きが取れません。



じゃあ、具体的にどうすんねん、という場合、歴史や先達の智慧と在り方が、ヒントを提示して下さっています。



倫理観や道徳を、宗教サイドから育みつつ、商い・ビジネスも両立させている事例は、近江商人や富山の薬売りなど、探せば色々と御座います。

近江商人の場合でしたら、「自利利他円満、三方よし」という仏教思想を元にしつつ、商いもきちんと成長しています。

ちなみに「三方よし」は、近現代の学者が定義した近江商人の商い・ビジネスの在り方であり、近江商人達が直接言った事ではないそうです。



宗教心と、そこから育まれる倫理観や道徳を大切にしつつ、でも商いもきっちり行う事例を学ぶ事は、上手なお金に対する罪悪感を育む智慧も育ちましょう。



お金に対する罪悪感で悩んでいる人にとって、今回の話が良き御縁となりましたら、喜ばしい限りで御座います。



合掌、礼拝

スポンサーリンク