NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



以前にお伝えした、「100分de名著:維摩経」が、2017年6月5日22:25から、放送開始されました。

以前も申しました通り、「維摩経」は歴史の授業にて聖徳太子・厩戸皇子について学ぶところで触れる経典です。

歴史の定期試験・テストにて、「三経義疏の著者を答えなさい。また、その三つとは何かを答えなさい。」と出題されて、答えたという人もいらっしゃるかと存じます。

歴史の授業で習う事もあるであろう「維摩経」は、日本仏教を学ぶ上でも、触れる事もありましょう。



しかし、「御経と言えば?」と問われたら、般若心経と応える人も多いかと存じますが、「維摩経!」と応える人は、どれだけいらっしゃいましょうか。

最も、維摩経を知っているからといって、通ぶるのもどうかと思いますがね。



今回は、この「維摩経」を、釈徹宗さんが100分で解説して下さる「100分de名著:維摩経」の、第1回・一週目の放送を終えて、その復習と感想文です。

今後、第2回、第3回、最終回と、復習に使って頂ける話を綴っていこうかと思います。

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100分de名著・維摩経:第一回放送の大まかな流れと維摩経の特徴

100分de名著・維摩経の第一回放送について、まずは大まかな流れから。



まずは、今回の名著、維摩経についての大まかなあらすじや特徴を、釈徹宗さんと司会者とのやり取りにて、解説されていきます。



維摩経が他の経典と大きく異なっているのは、主人公が在家仏教者であるというところに御座います。



御経というのは、多くが「ブッダはこう仰いまして、このように聞きました。」という始まり方をします。

ブッダから聞いた事の伝聞という形式が、良く知られております御経さんの形ですね。

例えば、浄土宗や浄土真宗が大切にしている御経さんに、「阿弥陀経」が御座いますが、これも「如是我聞」で始まります。

「如是我聞」とは、「我はこのように聞きました。」という意味です。



私、この「如是我聞」という言葉と出会い直してから、俳優の河相我聞さんの名前を、「仏教的な響き有り」という印象を持つようになりましてね。



維摩経は、このような御経とは違い、ブッダが仰った事を主軸として説かれる話ではなく、在家の仏教徒・在家仏教信者である維摩居士が主人公です。

在家の人が主人公というのは、当時の経典としてはなかなか珍しいという話です。



しかも、「維摩経」では維摩居士という在家者が、菩薩や仏陀の弟子といった出家者に教えを説くという構成です。

本来は、出家者が在家者に仏法を説くという形になるでしょうが、そこが逆転しています。



ちなみに、在家の念仏者を「妙好人(みょうこうにん)」と呼ぶのですが、在家の仏教者の在り方をもっと知りたい方は、一度読まれると宜しいかと存じます。



100分de名著の放送では、このような維摩経の特徴を釈徹宗さんにより解説を頂き、続いて仏教の流れが解説されておりました。



仏教は、ブッダの時代辺りを「初期仏教」とされていて、初期仏教の流れは、現在はタイやスリランカ等の「上座部仏教」として受け継がれています。

タイのスカトー寺で副住職をされている、プラユキ・ナラテボーさんも、上座部仏教を学び実践されている方ですね。



ちなみに、魚川祐司さんと、ミャンマーで修行されている日本人僧侶の方の話では、上座部仏教の僧侶となって10年、20年という経験を積まれた人は、20人いないのではないか、だそうです。



現在の日本仏教にも繋がる、ベトナムや中国などの仏教は「大乗仏教」です。

そうした仏教の歴史や伝来の流れについて、100分de名著・維摩経の最初の方で、釈徹宗さんと司会者のやり取りにて、解説して下さいました。

きちんと仏教の流れを、大まかではあるけれども、解説して下さるのは有り難し。



また、番組では仏教の基本的な事柄「智慧と慈悲」についても、「六波羅蜜(ろっぱらみつ・ろくはらみつ)」「四無量心(しむりょうしん)」「四摂法(ししょうぼう)」の解説と共に伝えて下さっています。

「六波羅蜜」と「四摂法」の最初が、どちらも「布施(ふせ)」というのは、なんとも興味深い。



この「智慧」と「慈悲」は、どこのどの仏教宗派にも通底していることで、言うなれば、仏教の基本理念・基本思想とも言える部分です。

こういった仏教の歴史と基本的な話が続き、そして、笑い飯哲夫さんによる朗読と共に、「維摩経」を読み進めていきます。



これが、「100分de名著・維摩経」第一回の放送の、大まかな流れです。

↑是は般若心経です。

仏教の歴史と仏教思想の大転換

仏教の歴史を、釈徹宗さんが解説されているところで、大乗仏教が出て来たところを、このように表現されています。



「仏教思想の大転換」



100分de名著・維摩経の第一回放送について、大まかな流れをお伝えした時にも、このように申しました。



「在家者が出家者に教えを説く構成」



この部分からも、仏教の一大転換が垣間見られます。



維摩経は、在家者である維摩居士が主人公であり、ブッダが主人公では無いと言うところと、しかも在家者が出家者に教えを説くという辺りが、在家者に焦点を当てた仏教・仏道の姿を見ることが出来るのです。



ここで、あなたの「仏教の出家と在家」のイメージは、どのようなものか、一度改めて考えて欲しいと思います。

世俗を離れて厳しい修行をする出家者が、仏教を知る者、仏道を歩む者としては偉い方なんだ、と言う印象をお持ちでしょうか。

(別に是が「善い悪い」という話ではありませんからね。)



初期仏教では、出家者しか悟る事が出来ない、解脱出来ない、という思想があったとされておりました。

それが、釈徹宗さんの御言葉を借りますと、「体系へのカウンター」が起こり、在家者も悟れる、という大乗仏教の思想が起こります。

今まで「解脱は出家者しか出来ない」とされていたものが、「いや、在家者もオッケー」と言うカウンターは、まさに仏教思想の大転換と言うても、過言では御座いますまい。



そもそも仏教には、ブッダが「体系へのカウンター」が起こるような装置を残しているから、このような事が起こります。

だからこそ、次々と体系が起こってはカウンターも起こり、「仏教はなんだか難しい」と言われるくらいに、広がりをみせたというのもありましょう。



それゆえに、魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」にあるように、ゼロポイントをきちんと抑えておくことが肝要ではなかろうか、とも思うたりするのですがね。
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第一回では第1章と第2章を解説

「100分de名著・維摩経」の、第一回放送では、維摩経本編については、1章と2章を学びます。



第1章「仏国品(ぶっこくぼん)」では、仏国、仏の国とはどんなものか、という事について、ブッダが語ります。

維摩経では、維摩居士が主人公ではありますが、最初の内はブッダと弟子達とのやり取りが中心です。

そして、実は第1章から、仏教の経典をよく読んでいる人にとっては、「お。」と思われる場面が垣間見られます。



仏陀の弟子に、「舎利弗(しゃりほつ)」という人がいらっしゃるのですが、この舎利弗さんはブッダの仏国についての話を聞いた後、異議的な事をとなえます。

そうしたらブッダは、「太陽や月は浄いか、不浄か。汚いと観るのは、それを映すあなたの鏡が曇っているからではなかろうか。」と、諭されます。

大雑把に言うと、「物事を、善いだの悪いだの、綺麗だの汚いだのというておるのは、君の物事の見方によるものだ。」という事を説いています。



維摩経の中では、ブッダの弟子代表格とも言える舎利弗さんが、この後もフルボッコ気味に扱われます。

後々の話にもありますが、維摩居士のお宅でも、天女にしてやられますからね。

舎利弗さん、浄土仏教が大切にしている「阿弥陀経」では、何度も「しゃーりーほつ、しゃーりーほつ」と名前が出てくるのですが、「維摩経」ではやられやく的な立ち位置にあります。

この辺りも、他の経典とは違いまして、興味深い部分でもあります。



続いての第2章は「方便品(ほうべんぼん)」です。

ここで、維摩居士が登場するわけですが、第2章では維摩居士のお人柄や、在家で有りながらブッダレベルの仏教者であるという紹介が為されます。



そして、維摩居士は病気になった、という話に続いて行きますが、ここで「方便品?方便なんだろ、つまり仮病か」と、思われる方もいらっしゃるやもしれません。

現在、方便というと「嘘も方便」という使われ方が一般的ですから、「方便=嘘」という覚え方をしている人も、多いかと存じます。

しかし仏教においての「方便」とは、「真実に導くための手法や過程・プロセス」の事で、嘘をつくための免罪符ではありません。



このことについては、以前にお伝えした事がありましたね。



参照記事:「「嘘も方便」とは言うけれど、「嘘」と「方便」は違います」



素人や物事をあまりよく知らない人を言いくるめたり、誇大広告でお金をだまし取るのは、方便ではありません、ただの嘘であり、ただの詐欺です。

「トレンドアフィリエイトの三種の神器を教えます」と広告していながら、「あれは集客用の言葉です」とかヌカした、コンサルタントを自称していた我利我利亡者なる詐欺師の「三種の神器」は、方便ではなく、嘘・詐欺です。



「方便品」において、維摩居士が病気になったとされていますが、釈徹宗さんは仮病ではなく本当に病気だった、と仰います。

ブッダは、自身が病気で苦しむ姿を、弟子達に観せて教えを説いた話がありますし、維摩居士の狙いも、教えを説くための方法であったのだとしても、頷ける話です。

病で床に伏せている自己をみせることによって、仏法を説く、教えを受け取って貰うということですね。



ちなみに、病気である事や、最期の瞬間をみせることで、「命の授業」として最後まで教えを説いて下さった方に、カンポン・トーンブンヌムさんがいらっしゃいます。

カンポンさんの最後の授業は、ドキュメンタリー動画としてアップロードされています。



こうして、方便品にて維摩居士が病の床に伏せていると言う話がなされます。



そうして次の章から、「維摩居士の見舞いに、誰が行くか」という話へ繋がって行きます。


100分de名著・維摩経:第一回放送で最も印象に残ったことについて復習も兼ねての感想文

100分de名著・維摩経は、歎異抄の時も感じたのですが、釈徹宗さんのわかりやすい解説と、司会者とのやり取りにより、更に読みやすく視聴しやすいと感じたのが、率直な感想です。



そのように進んで行った「100分de名著・維摩経」ですが、第一回放送で最も印象に残り、改めて観じたこと、考えた事は、釈徹宗さんが仏教をこのように読まれたという、おの一言です。



「仏教は、脱構築装置内蔵宗教」



これ、本当に見事な表現であり、仏教の特徴を見事に捉えた御言葉であると、味わい、頂いたもので御座います。



仏教には、釈徹宗さんが解説されている通り、仏教自体に脱構築の要素、仏教に執着しないための智慧なる装置が御座います。



例えば、100分de名著・維摩経では、「筏の譬え」にて、その事を解説されていました。

仏教の「筏の譬え」については、100分de名著を以前から視聴されている人ならば、佐々木閑が指南役であった「ブッダ 真理のことば」でも、学ばれたかと存じます。

「ブッダ 真理のことば」の第3回放送にて、「執着を捨てる」という表題で解説されていましたね。



ブッダは、自身が説いた教えさえも捨てる、脱構築の要素となる教えを説いています。

その事を譬えた筏の話は、次のようなものです。



「私の教えは、川を渡るための筏のようなものです。向こう岸に渡ったら、筏を捨てて行けばよい。」



伊集院光さんは、ここで「これはすごい」と仰いましたが、私も「これはすごい」と思います。

だって、自分の教えを人に説く人って、大抵「俺の教えに従え!」と、執着させるような教え方をする事がしばしば御座いますし、ついついそうやってしまいがちなのが、人の性質(さが)でありましょう。

私だって、ついつい私が伝えた事を、「きちんと実行して欲しいなあ、有り難い話としていつまでも持っていて欲しいなあ。」と、煩悩燃えさかる事があります。



ちなみに、ネットビジネス系でよくあるのが、「他のメルマガを破棄しろ、俺の教えだけを受け取れ、そして従えウェイ!」とやっちゃう事です。

依存させたり、執着させてどうすんのって話です。



ブッダは、それらとは逆で、自身の教えについて、川を渡りきったら筏を担いで歩く事はない、捨てて行くと宜しかろう、と説いています。

ここに、仏教自体に脱構築の要素が備わっている事が読み取れます。



この「筏の譬え」は、中阿含経の中の「阿梨咤経」に書かれています。

また、和英対照仏教聖典でしたら、「おしえ:第2章の3、真実のすがた」に、書かれております。

仏教聖典には、筏の譬えの後に、こう記されています。

正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。

※和英対照仏教聖典107ページより引用



日本仏教でも、執着を戒める教えが御座いまして、「放下着(ほうげじゃく)」という禅語が御座います。

「放下着」は、「捨てる事さえ捨てる」という、「執着を捨てる、という事を捨てる、という事を捨てる・・・」と、無限ループしそうな教えです。



この辺りを色々と観て行くと、仏教それ自体に、脱構築装置が内蔵されていると言う事を、垣間見ることが出来ましょう。

「仏教が仏教に揺さぶりを掛ける」という構造です。



「100分de名著・歎異抄」で、伊集院光さんが「なかなか着地させてくれない」と仰った事を、維摩経でも改めて感じる事に御座います。



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100分de名著・維摩経の次回予告:今後も視聴し、ここで復習していきます

今回は「100分de名著・維摩経」の、第一回放送を終えて、復習しながら感想文的な事も綴りました。



これから4回目・最終回まで、100分de名著・維摩経の内容を復習しながら、感じた事を感想文として記していきます。

視聴されている方は、復習用に使って頂ければと存じます。

最も、予習復習するならば、テキストを購入して、独自に進めて頂くのが宜しいとは思いますがね。



尚、今回の話と共に、予習した内容も併せて学んで頂くことで、より理解が深まるかと存じます。



参照記事:「100分de名著テキスト「維摩経(釈徹宗さん)」読書感想文|本放送・再放送前の予習をしました」



以前も話した通り、維摩経は仏教の経典としても学べる事が多々あり、現代社会に通用する話が御座います。

また、堅苦しい仏教の教え云々ではなく、読み物として、物語を楽しむという小説を読む感覚でも読める名著でもあります。

以前も申し上げました様に、この辺り、ジャータカなどに通じる面白さを感じるところに御座います。



100分de名著・維摩経をつがいとして、仏縁結ばれ、現代社会を生き抜く智慧も頂けたら、嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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