100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の復習|得意分野を揺さぶる

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



NHKEテレ「100分de名著:維摩経」の、第2回放送が放送されて、今回もばっちりと視聴しております。

100分de名著:維摩経の二回目の放送では、第3章の「弟子品」と第4章の「菩薩品」、そして、文殊菩薩が維摩居士の見舞いに行く場面である第5章「文殊師利問疾品」を、学びました。



今回の放送では、釈徹宗さんの解説と共に、伊集院光さんも非常に有り難き話をして下さり、とても学ぶ事が多かった回でありまして。

放送の中で、釈徹宗さんが伊集院光さんの話を聞いて、「勉強になります」と仰いましたが、私も「おお、なるほど!」と、凄く学ばせて頂いた次第で御座います。



今回の「100分de名著:維摩経」第2回放送で語られた事は、他の御経や仏教の本では、なかなか読む事が無いであろうという話です。

そういう面白さや興味深さと共に、話の構成も内容も、非常に奥深くて学ぶ事も多々ある内容であるなあ、と、観じたもので御座います。

最も、今回の「100分de名著:維摩経」で取り上げる部分を読んで、上っ面だけで維摩居士の真似をしたところで、顰蹙を買う可能性は御座いますがね。

その辺りも注意しながら読まないとなあ、と、改めて観じ、学びを頂いた「100分de名著:維摩経」の第2回放送。



今回も、感想文的な事を綴りつつ、復習して参ります。

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「100分de名著:維摩経」第2回放送の大まかな内容と流れ

今回の、Eテレ「100分de名著:維摩経」第2回放送は、どのような流れで進行したか、大まかな流れと話の内容を、さらりと復習しておきます。



まず、前回の続き、前回は維摩経の第2章まで取り上げたと言う事で、今回は第3章「弟子品(でしぼん)」から話が始まります。

第3章「弟子品」では、維摩居士のところへお見舞いへ行って下さいと、ブッダ(釈尊)が弟子達にお願いしていきます。

が、弟子達は、以前維摩居士に論破されたことがあると言う事で、次々とブッダのお願いを断ります。



次に、第4章「菩薩品(ぶさつぼん)」に進み、菩薩も維摩居士のお見舞いを断る場面が解説されますが、「菩薩品」は、割とあっさりと説明が終わります。

そして、その次の第5章「文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)」で、ようやく文殊菩薩が維摩居士のお見舞いへ行く場面となり、維摩居士の自宅へ赴きます。

この時、娑婆世界でもあるような場面が見受けられまして、突っ込みを入れたくなる人もいらっしゃるかと存じます。



「文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)」では、維摩居士と文殊菩薩の挨拶シーンで、禅問答のような場面が観られ、維摩居士の病気についての話に続きます。

ここで、伊集院光さんの話が、維摩居士の病気について理解する際に、非常に重要な話をして下さいますよ。

再放送を期待している人は、ここを聞き逃さないように、と注目することを提唱致します。

私は復習出来るように、本放送を録画して視聴しているのですが、ここの場面は特に復習しましたからね。



「100分de名著:維摩経」第2回放送は、このような流れで進み、内容は以上の通りです。

「100分de名著:維摩経」・弟子品と菩薩品で得意分野を揺さぶる維摩居士

「100分de名著:維摩経」の、第2回放送での見どころは幾つか御座いますが、その内の一つが「弟子品」です。



「弟子品」では、ブッダが維摩居士へのお見舞いへ行って欲しいと、弟子達にお願いする場面でして、弟子達はブッダのお願いを次々と断ります。

仏陀の弟子と言いますと、智慧第一の舎利弗さんや、神通第一の目蓮さんといった、ブッダの弟子の中でも二大弟子と言われるくらいの方がいることを、ご存じの方もいらっしゃるかと存じます。

彼らを含めて、10人もの名だたるブッダの弟子がいらっしゃるのですが、その10人全員が、ブッダのお願いを断る場面が、「弟子品」です。



弟子達が断る理由は、以前維摩居士に論破された、やり込められたという経験があり、会いたくない、との事。

これ、仏弟子である出家者が、俗的な理由で特定の人物に会うことを嫌がるという場面に見えて、私は「拘りや煩悩を持つ人の姿」を、見出したりするのですがね。

弟子達は、維摩孤児を憎んでいるわけでは無いと推察してはおるのですが、ある種の「怨憎会苦」的な感じもありそうな、そんな気が致します。



でも、心情としては、わからんでもないとは思います。

だって、自分をやり込めたり、恥を掻かせた相手に、自分から会いに行きたいというのは、なかなかに御座らんでしょう。

よほど勉強熱心すぎる人か、打たれ強い人か、打たれて喜ぶ人か、そういう属性・性質を持っている人くらいでしょうし。



この「弟子品」は、釈徹宗さんが解説して下さっているように、「得意分野への揺さぶり」を見いだせる場面でもあります。

仏教の経典や、他の御経さんでは、例えば舎利弗さんでしたら「智慧第一」という事で、その智慧を称えられるような、そんな書き方がされていることがあります。

また、現代の僧侶が書かれる本でも、「ブッダの弟子に何何第一と言う人がいて、それはそれは立派なお弟子さんで」と、そんな解説のされ方もします。



しかし維摩経では、維摩居士がブッダの弟子が最も得意としている事柄、得意分野を揺さぶってきます。

舎利弗ならば智慧や坐禅の仕方について、後ほどお伝えします富桜那さんについては、得意な説法についてだめ出しされて揺さぶられる、と言う具合です。

ここが、出家や仏弟子、仏道を歩む在り方や姿への揺さぶりにも通じていき、ついには大乗仏教の根幹さえも揺さぶる維摩居士の姿が描かれています。

維摩居士という存在は、ある種「仏教の震源地」とでも言いましょうか。



現代社会、娑婆世界においても、この場面は「え!?」と、驚く人もいらっしゃるかと存じます。

現代社会においては、「得意分野こそ伸ばそう!」「得意な事で成功するのだ!」と、得意分野を肯定する風潮が御座います。

維摩居士の存在や維摩経は、そのカウンターになり得る揺さぶりの書として、現代社会でも機能しそうです。

ゆえに、現代で読む意味があるのだろうと、私は思うておったりするのですがね。



維摩経は「得意分野でなまじ成果を上げて、得意になる・有頂天になったりふんぞり返る、偉そうにする」という事を、防いでくれる智慧の書にもなり得ます。
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説法第一の富桜那(ふるな)さんの箇所で指導者・伝導者の在り方と「対機説法」を学ぶ

今の私の感性や頂くタイミングによるとは思いますが、私が最も注目している「弟子品」の場面は、富桜那さんという弟子の場面です。

富桜那さんは「ふるな」と読みまして、現代なら子供の名前に付けている人も、いらっしゃるかなあ、と、考えてみたり。



この富桜那さんというブッダの弟子は、十大弟子の一人であり、説法が非常に上手かったために「説法第一」と呼ばれていました。



ある日、富桜那さんが在家の方々に説法していると、維摩居士がやって来て、このように言います。

「富桜那様、説法をする際には、まず自らの感覚や感情、認識を全てストップさせて、その上で相手の内面を観察した上で説法すべきではありませんかな。」

更に、このような譬え方にて、富桜那さんに説法の仕方を説きます。

「器に合った食物を盛るようにしないと。富桜那様は、この人達の志や器を、しっかりと見抜いてはいらっしゃらないと見受けられます。」



ここで釈徹宗さんは「自己分析と他者観察」について解説して下さっています。



説法をする、何かを教えたり伝導するなら、まずは自己分析・自己解析によって、自分の都合を消し去ります。

私はここに、自身の力量や実力を正確に把握するという事も、自己分析・自己解析の中に入っているのだと、頂いております。

その上で、相手の事をきちんと知る事、何をどのように伝えれば伝わるか、また、受け取れるタイミングであるか、受け取れる器であるか、等もきちんと観察します。(他者観察)



これ、現在のコンサルタントを自称している輩や、後輩を指導している人、あるいは何かの先生などの仕事に就いている人は、きちんと出来ているでしょうかね。

私は、維摩経の富桜那さんと維摩居士の場面と、後ほど話す伊集院さんの話は、毎日朝と晩読むくらいが丁度良いとも観じている事柄で御座います。



私は、この富桜那さんに維摩居士が諭した内容は、まさに「対機説法・応病与薬・卒啄同時」について学ぶところであるというお味わいを頂いております。

(卒は口偏が付きますが、機種依存文字の関係で「卒」と記します。)



ゆえに、コンサルタントを自称する輩や、先生と呼ばれて舞い上がっている者共には、毎日読むくらいが丁度良いと申し上げておる次第で御座います。

100分de名著:維摩経「文殊師利問疾品」・お見舞いへ行くのは文殊菩薩

ブッダのお願い、維摩居士へのお見舞いを行く事を、「弟子品」と「菩薩品」にて、次々と断り続けられます。

そして、維摩経第5章「文殊師利問疾品」にて、智慧の象徴である文殊菩薩が、維摩居士のお見舞いに行くことが決まります。

釈徹宗さんの解説によると、文殊菩薩は仕方なく行く、という事であり、文殊菩薩の心情としては「しゃーないなあ。」という感じだったとか。



そして、ここからが「っておい!」と、突っ込みを入れたくなる場面。



文殊菩薩がお見舞いへ行く事が決まると、断っていた人達も「あの文殊菩薩様と維摩様のやり取りが観られるぞ!」と、付いていく事に。

まあ、早い話が野次馬根性と言ったところでしょうか。

「いや、おたくら揃いも揃って、嫌がってたし、行かないって言ったじゃん。」

こんな突っ込みを入れたくなる場面です。



でも、娑婆世界でも結構ありませんかね、こんな事。

何かをやる際に、自分は断っておいて、他の人が出るとなると、途端に興味が沸いたり、様子を見たくなったり。



出家者に対して、俗っぽさが感じられるような書かれたも、維摩経を書かれた方の、何らかの意図がありそうな気がするところに御座います。

維摩居士へのお見舞いに文殊菩薩が行かれる意味

「文殊師利問疾品」にて、文殊菩薩が維摩居士のところへお見舞いに行かれるわけですが、ここで仏教の大切な事柄が学べます。



文殊菩薩は智慧の象徴であり、維摩居士は慈悲の象徴として、維摩経で描かれております。

このことは、文殊菩薩が維摩居士に、病気について尋ねる場面で観る事が出来ます。



維摩居士は、自分が病気になったのは、「大悲(だいひ)」から起こったものである、と言います。

「大悲」というと、浄土仏教においては、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」という、恩徳讃を思い出します。

維摩居士は、自分の病気の原因は「大悲」である、と文殊菩薩に告げたところから、維摩居士から慈悲を読み取る事が出来ます。



ここで、維摩居士のお見舞い役が、文殊菩薩であると言うところに、大きな意味を見出すことが出来ましょう。

文殊菩薩の智慧、維摩居士の慈悲、つまり、仏教の根幹的な事柄「智慧と慈悲」です。

「智慧だけではなく、慈悲だけでもなく、両方あってこそ」という事です。



これは、私の読み方が誤りかもしれませんが、維摩居士が病気になったのは「慈悲だけあって智慧がないと病気になりますよ」という事を、暗喩しているのではなかろうか、という読み方もしております。



維摩居士は大悲にて病気になった、慈悲にて衆生の苦に寄り添い、チューニングしたために、病気になった。

智慧が備わっていれば、衆生の苦に飲み込まれたり巻き込まれずに、慈悲も実践出来る、という事の暗喩。



このことは、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「智慧と慈悲の実践」の話と、相手に寄り添い共感する智慧を持ちながらも、それに巻き込まれぬ智慧の大切さを、学んだ事による読み方です。



それにしても、釈徹宗さんも仰っているように、智慧の象徴と慈悲の象徴が出会ったという場面、見事な構成でしびれる場面である、というのは、私も感じるところで御座います。

100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の感想文:伊集院光さんの話が有り難し

「100分de名著:維摩経」第2回放送は、非常に学び多き回ですが、その中でも、最後辺りで伊集院光さんが仰った事が、とても深く学ばせて頂いた次第であります。

番組の最後辺りで、維摩居士の病気と慈悲の部分について、伊集院光さんは、このような話をして下さっています。



「衆生は病気で苦しんでいるのに、医者(出家者)は病気じゃないから、病気のことがよく分からない。」

「病気を治して欲しいのに、健康の話、健康の概念しかしてくれない、医学用語ばっかりする。」

「だから、衆生と医者(出家者)は、「いやいや、そうじゃないんだよ」と、すり合わない。」

「維摩居士は、病気の自覚のある病気の人である。」



これは、指導者・伝導者という立ち位置の人は、特に注目すべき話では無かろうかと存じます。



教える側は、知識や立ち位置による格差によって、いわゆるマウンティングを、無自覚にしてしまいがちです。

現在のなんちゃらビジネスコンサルタントは、まさにその典型です。



富桜那さんのところでもお伝えしました通り、まずは相手のことをきちんと観察し、共感共振を試みる事が肝要であります。

しかし、なまじ知識があって立ち位置が上だと錯覚している輩は、ついついマウントポジショントークをしてしまいがちです。

これは、私も戒めないといけない事です。



そうならぬためには、慈悲の心、慈悲の実践が肝要で御座いましょう。



ただ、慈悲の実践をする際、こちらが相手の苦に巻き込まれぬための智慧も大切です。



ゆえに、「智慧と慈悲」は両輪の如く、智慧と慈悲はセットである事が肝要で御座います。

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「100分de名著:維摩経」次回も楽しみ・・・と言うのも煩悩でしょうかな

今回は、NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第2回放送について、感想文を交えながら復習を試みました。



第3回では、大乗仏教において非常に重要な「空(くう)」について、いよいよ迫ることになります。

予告では、釈徹宗さんが「ぶっ飛びますよ」と仰いますが、私は1回目の放送から、すでにぶっ飛んだところでありますがね。

ぶっとんどる修羅観音、と名乗っているから、ぶっ飛んでいるわけではありませんがね。



ちなみにですね、「ぶっとんどる」は、「ぶっ飛んどる」と「仏恩(ぶっとん)」をかけています。



第2回の放送も、ぶっ飛びまくって、学び多き回と相成りました。

ほんと、維摩経は何度も読み返し、一生涯付き合っていく仏教名著と言っても、過言では無かろうかというお味わいです。



尚、第1回放送と、全体の予習については、こちらに記しております。



参照記事:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」

参照記事2:「100分de名著テキスト「維摩経(釈徹宗さん)」読書感想文|本放送・再放送前の予習をしました」



いよいよ、大乗仏教において重要な「空(くう)」の話へ。



来週も楽しみ・・・というのは、維摩居士からすると、煩悩になりましょうかな。

未来を期待するのは、未来への執着という煩悩と思えば、にんともかんとも。



合掌、礼拝

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