御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
NHKEテレで放送されている「100分de名著:維摩経」も、3回目の放送が終わりました。
「100分de名著:維摩経」の第3回放送では、仏教において外せない事柄である「空(くう)」と「縁起(えんぎ)」について、釈徹宗さんが解説して下さっています。
空と言えば、般若心経で「色即是空空即是色」と出て来ますね。
また、維摩経の解説第3回放送においては、舎利弗さんがフルボッコ気味にやられる展開も御座います。
阿弥陀経では、舎利弗さんは何度も読まれる仏弟子筆頭とも言えるお弟子さんなのですがね、なんともえらいこっちゃな役回りですこと。
その他、なかなかスッキリせず、着地させてくれない言い回しもありながらも、娑婆世界を生きる上での智慧にもなる話が出て参ります。
このことは、島津有理子さんと伊集院光さんの、見事な譬え話が、とても素晴らしくてわかりやすく、学ばせて頂いた事に御座います。
今回は、「100分de名著:維摩経」の、第3回放送を復習しながら、そういった智慧を学んだ事や、感想文を綴ります。
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「100分de名著:維摩経」第3回放送の大まかな流れを復習
「100分de名著:維摩経」第3回放送について、大まかな流れも最初に復習しておきましょう。第3回放送では、前回からの続きと言う事で、「文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)」の続きから始まります。
ここでは、文殊菩薩が維魔居士のご自宅に、誰もいないし、家具などの物も置いていないことに気がつきます。
文殊菩薩が、「なぜ何も無いのですか?」と尋ねると、維魔居士は「それは「空(くう)」だからです。空だから空っぽなのです。」と応えます。
維魔居士は、この「空(くう)」を伝えるために、部屋を空っぽにしたというわけですね。
空とは「無分別」、つまりはからいを全て捨てた状態の事であり、ここで「無我」や「無常」、また、全ては連続性と関係性にの中に存在しているという「縁起」について、語られています。
「無我」「無常」「縁起」とは、仏教において重要なキーワードが出て来ました。
維摩経では、この「無分別」に達しておらず、分別や執着があるという事で、後ほど舎利弗さんがフルボッコにされます。
舎利弗さん、さんざんですがな。
このように空の話が続き、文殊菩薩が「空へは何を手立てにすれば行き着くのでしょう?」と尋ねると、維魔居士はこう答えます。
「それは、六十二見から求めるべきでしょう。」
この「六十二見」とは、仏教以外の見解、ここでは「間違った見解」とか「邪説」の事であり、本来は学ぶべきでは無い、とされていた説の事です。
この邪説を学ぶ事によって、仏教の本質にたどり着けるんだ、と維魔居士は言います。
次に文殊菩薩が「では、六十二件は何を手立てとして求める事が出来ましょう?」と尋ねると、今度は「それは仏の悟りの中から求めれば宜しかろう」と、維魔居士が応えます。
今度は、仏教を学ぶ事を言うています。
更に「では、その仏の悟りは、何を手立てに」と文殊菩薩が尋ねて、維魔居士が「それは世の人々の心の働きに求めるのです」と応えます。
ここは私が好きなところであり、また、娑婆世界を生きる上でも非常に学ぶ事がある、智慧を頂ける箇所であると、味わっております。
なんともスッキリしない、行ったり来たりという内容ではあるのですが、とても大切な事が説かれているのですよ。
この後は、仏教者の在り方や菩薩の在り方、また、病人としての在り方が説かれる場面へと移ります。
ここで、出家至上主義へのカウンター的な言説があり、世俗の中で生きてこそ、仏教者は俗世で生きる事だ、等と説かれます。
仏教者や修行者というと、世俗を離れて隠者的な暮らしをしながら、修行しているというイメージを持っている人も、いらっしゃるかと存じます。
維魔居士は、そうではなくて、世俗の中にいて、人と関わりながら社会の中で生きる事を説いています。
世俗の中にいながら、色々な誘惑が渦巻く世界に身を置いていても、仏教者はそんなものをものともせずに、執着や分別せずにいられるであろう、という話です。
この在り方が説かれている維摩経が、日本に仏教が伝わった時に柱となる仏教経典としたために、現在の日本仏教の姿が見られる、と、釈徹宗さんの解説が入ります。
確かに、日本の仏教は、もう「日本仏教」と言っても良いような、独特の歩みがあったのは確かでありましょう。
ゆえに、「日本の仏教は本物の仏教ではない!」とか、揶揄される事もありますが、ここで「本物の仏教論争」をしても、私は不毛な感じがするのですがね。
もちろん、後の話にも続く「己の立ち位置を知るため」に、比較や議論をする余地はあるでしょうが、争うために議論するのは、如何なものかと言うのが、私の立ち位置です。
この辺りは、魚川祐司さんも「仏教思想のゼロポイント」や「だから仏教は面白い!」でも指摘されていて、私も共感するところに御座います。
そうして、維摩経の解説は続いて行き、「不思議品(ふしぎぼん)」と「観衆生品(かんしゅじょうぼん)」へと続きますが、ここで舎利弗さんがフルボッコ気味の展開に。
維魔居士からも天女からも、論破されるという展開になり、そのお陰で学びなり気づきを頂く舎利弗さん、という展開へ続きます。
「100分de名著:維摩経」第3回放送の最後は、「仏道品(ぶつどうぼん)」が解説されて、「煩悩なくして悟りもない」という、二項対立を揺さぶる話が続きます。
維摩経は、二項対立や分別、執着といった事柄を、悉く揺さぶってくることが、ここでも読み取れます。
ここで、蓮の華の譬えが出て来まして、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
また、テキストでは金子みすゞさんの詩が紹介されていますから、一読されると宜しいかと存じます。
金子みすゞさんは熱心な仏教徒の家にお生まれになった方でありまして、宗教的情緒、仏教的な味わいのある詩を残されています。
「みんな違って、みんないい」も、金子みすゞさんの詩にあります。
長くなりましたが、NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第3回放送の、放送内容の復習は、こんなところです。

「縁起」について:プラユキ・ナラテボーさんから頂いた話
「100分de名著:維摩経」第3回放送では、最初の方で釈徹宗さんが「空」と「縁起」について、解説して下さっています。この話は、この娑婆世界を生きる上でも大きなヒントとなりまして、放送の最後辺りで「空の実践」「縁起の実践」という話をされますが、そこに繋がって行きます。
ここで、「縁起(えんぎ)」について、少しばかり解説をば。
ちょいと仏教用語の勉強と、私の頂き方を紹介しておきましょう。
「縁起」というと、昨今では「縁起が悪い」だとか、そんな言われ方をします。
「墓地でこけたら縁起が悪くて寿命が縮む」とか、そんな話を聞いた事がありませんかね、私の子供の頃は、そんな事を教わったものですが。
もっとも、こういう言説は、プッタタート師に言わせれば「アホな考えですよ」と言われそうですし、仏教では「そんな事に惑わされてる場合じゃありませんよ。」と諭されるでしょう。
良い悪いという意味付けがされるまでにさすらった、この「縁起」ですが、仏教用語としての縁起は、「全ての物事は「連続」と「関係」によって存在している」というです。
維摩経のテキストや放送では、「すべては連続性と関係性の中に存在している」という解説がなされています。
「連続性と関係性と縁起?なんのこっちゃ?」と、思われたかも知れません。
私も、最初はなんのこっちゃでしたが、プラユキ・ナラテボーさんから、縁起について「時間と空間」の概念を使って、丁寧にわかりやすく解説して頂いた事がありましてね。
「連続性」「連続」の部分は、時間軸の事です。
縦軸、と言い換えても良いでしょう。
例えば、「父と母がいるから、自分が生まれた。」と言う事は、おわかり頂けるかと存じます。
これは、「先に父と母という因があって、その後に自分という果となった。」と言い換えれば、わかりやすいでしょうかね。
時間軸、時間という概念を持ってすると、まさに「因果」「因縁果」について、理解しやすいことが読み取って頂けるでしょうか。
そして、次に「関係性」「関係」の縁起について。
「関係性」「関係」の部分は、空間軸の事です。
時間軸を縦軸と言い換えるなら、空間は横軸です。
例えば、私は今キーボードを打って、この文章を書いておりますが、これがなされるための因は、様々にある事が観えてきます。
例えば、キーボードを作ってくれた人や、ディスプレイを作ってくれた人、ディスプレイの部品を作ってくれた人や、そのタメの素材を用意してくれた人、等々。
それらの要素が重なり合って、今、こうしてこの文章を投稿する事が出来ている、というわけです。
「100分de名著:維摩経」第3回放送では、釈徹宗さんが、「この「100分de名著:維摩経の放送が出来るのも、たまたま3人がここにいて、スタッフさん達がいて」という話で、解説して下さっています。
こうしたことを、プラユキ・ナラテボーさんから教わって、時間と空間を分けて縁起を考えるのでは無く、切り離せないものとして頂き、次のように味わい、頂いております。
「縁起は、時空間を持ってして頂く」
是はまさに、維摩経のテキストにある縁起の解説「全ては連続性、関係性の中に存在しているととらえる」と言う事であります。
「100分de名著:維摩経」第3回放送で学んだ事柄と感想文:ここに注目した私
維摩経は、どこも学びの宝庫でありますが、「100分de名著:維摩経」第3回放送においては、私は特にここに注目しております。それは、「六十二見と仏の悟り(仏教)を行ったり来たり」の部分です。
この部分を、島津有理子さんと伊集院光さんが、見事にわかりやすい例えで解説して下さいました。
前回もそうだったのですが、このお二方は例えや補足解説が上手くて、凡夫なる私は非常に有り難く感じております。
「六十二見と仏の悟り」のくだりでは、「邪説を、他の話を学べ」と言われたと思いきや、今度は「仏の悟りが大切だ、仏法を学べ」という事を言われています。
結局どっちやねん、とか、回りくどい事言わずに最初に学ぶべき事をサクッと言って頂戴よ、と、突っ込みたくなるような右往左往する話です。
しかし、実はここが重要なところでありまして、この事を島津有理子さんと伊集院光さんは、このような例え話で解説して下さいました。
よく、「日本を知るためには、海外へ行かないと駄目だ」なんて言い方をされる事って、ありませんかね。
私も「日本にいては駄目だ、海外へ行け」と、言われた事があります。
その是非はともかくとして、確かに「海外へ行ったら、日本のことがよくわかるようになった」と仰る人がいるから、そういう現象は確かに起こり得る事なのでありましょう。
私の家族も海外旅行が好きな時代があって、ちょくちょくと行っておったのですが、帰ってくる度に、そんな趣旨の話をしてくれたものです。
そして、そこで終わりかと思いきや、今度はその経験を踏まえて、「日本のことを学ぶのだ」という話に進みます。
ここで肝要な事は、日本のこと「だけ」を学ぶのではなく、一旦別の事も学んでいる、という回り道を経ていることです。
以前、360度回って新しいという趣旨の話をしましたが、島津有理子さんと伊集院光さんの例え話を聞いて、「ああ、なるほど!」と、改めて気づかせて頂いた事に御座います。
参照記事:「「勉強の哲学」(千葉雅也さんの本)の読書感想文|言語そのものと学習者が辿る過程が考察された良書」
参照記事2:「魚川祐司さん(ニー仏さん)の「聖なる瞑想と特別な芸術」|龍岸寺での話の感想文」
釈徹宗さんも、お二方の例え話について、わかりやすくて勉強になると仰っていましたが、私も「まさに!」と、相槌を打ったものです。

自身の立ち位置を知るために比較対象となる事柄を学ぶ
仏教と言えば、維摩経でも二項対立を脱構築したり、分別して比較しないという教えが説かれています。ただ、娑婆世界ではどうしたって、それを全てとして生きる事は難しい事でありましょう。
その上で、私は二項対立の脱構築や、それを揺さぶる事を念頭に置きながらも、「上手な比較」を実践して生きる事は出来るであろう、と思うております。
比較や二項対立は、「対立」とあるように、論争したり正しさの押し付け合いに発展する怖さがあります。
仏教でも、その事を戒める教えがありますし、何となく比較する事に否定的な教えであったり宗教というイメージを持っている人がいるのも、わからんでもありません。
一方、私は論争なり争うための比較では無く、「自己の定点観測」としての比較は、娑婆世界を生きる上でも役立つ智慧ではなかろうか、そのような味わい方をしております。
以前お伝えしました「勉強の哲学」でも、その事を学んでおりまして。
これを踏まえた上で肝要な事は、「自身の立ち位置を知るため、自身の位置を定点観測・点検するための比較対象を学ぶ事」です。
間違っても、比較対象を攻撃するために学ぶのではありません。
あくまでも、「今、自分はこういう状態で、自身はこういう立ち位置にいるんだな。」という事を知るためです。
仏教は、しばしば海原に出たときの地図に譬えられますが、その精度を上げる、というと、より理解して頂けるでしょうか。
例えば、私は念仏者であると自身の立ち位置について思うております。
その上で、フリースタイルな在家仏教者を勝手に名乗りつつ、「ありとあらゆる言説の聞き手・仏法の聞き手」として、念仏以外の宗派にも顔を出しております。
プラユキ・ナラテボーさんから瞑想を直接習うのも、その一環です。
もっと近くてわかりやすい例を挙げるならば、そうですね、プログラミングの話も入れましょうか。
私は現在、RubyとRuby on Railsを学んで実践しております。
その一方で、そろそろ別の言語も観て回ろうかな、と言う事を考えております。
このことについては、以前もプロエンジニアについてお伝えする時にも、解説しております。
参照記事:「ProEngineer(プロエンジニア)のプログラマカレッジ|3つのメリットと注意点なる条件について仏教者の視点から」
参照記事2:「ProEngineer(プロエンジニア)のプログラマカレッジ情報総集編|無料プログラミングスクールは本当に有り難い」
私はRubyをProgateで学びましたが、有料課金の期限内に、他の言語にも触れてみたことがありましてね。
そこで、共通する部分と共に違う書き方も学び、そこから改めてRubyについて学ぶ事となりました。
Rubyでは、引数を書く時に括弧を省略して書く事が出来る、等々、そういう事を知っては射ましたが、他の言語に触れる事で、改めて肌感覚として知るに至りました。
自分が学んでいる事や携わる世界を学ぶ際、別の世界を学ぶと言う事は、このような発見であったり、改めて気づく事、また、より深く自身が関わる世界を理解する一助となります。
この話は、回りくどいし、回り道で無駄に感じるかも知れません。
しかし、だからこそ観える事がある、と言う事を、維摩経の「六十二見と仏の悟り」の話から、私はお味わいを頂いたもので御座います。
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「100分de名著:維摩経」第4回、最終回も学びます
今回は、NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第3回放送を視聴して、復習しながら学んだ事や感想文を綴りました。第3回の放送も終わりまして、自戒はいよいよ第4回、維摩経の最終回です。
維摩経の最終回では、テキストにも書かれていますが、有名な言葉が紹介されることでありましょう。
そして、これは誤解した解釈をして、酷い使われ方もするのだろうなあ、と、勝手に考えているところでもあります。
このことは、第4回・最終回を視聴した後の復習でお伝えする事柄ではありますが。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン氏の「語り得ぬ事は沈黙しなければならない」を、格好付けて使ってしまっている輩にも通じるかも知れません。
4週にわたって伝えられた、「100分de名著:維摩経」。
尚、これまでの話の復習は、こちらでしております。
参照記事:「100分de名著テキスト「維摩経(釈徹宗さん)」読書感想文|本放送・再放送前の予習をしました」
参照記事2:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」
参照記事3:「100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の復習|得意分野を揺さぶる」
参照記事4:「維摩経に学ぶコンサルタントやコーチ・指導者の在り方と注意事項|落とし穴に嵌まらぬためには」
最後まで「100分de名著:維摩経」を視聴し終えたら、一度全ての復習記事に個別に飛べるまとめページ、総集編的な記事をこしらえようかと考えております。
維摩経、改めて思う事は、学び多き名著なり。
合掌、礼拝