「100分de名著:維摩経」最終回本放送を視聴しました|二項対立の脱却と「お世話され上手」

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



NHKEテレ「100分de名著:維摩経」も最終回を迎え、最終回の本放送を視聴致しました。


維摩経を、100分で解説するというのは、なかなかに難しいような、そんな気がしておりましたが、そこは流石、釈徹宗さん。

「歎異抄」の時も感じた事ですが、見事に要点をまとめて下さり、改めて学ばせて頂いたなあ、と感じたもので御座います。

もっとも、そのように評価するような事は、傲慢な気が致しますがね、私自身、釈徹宗さんを評価出来るほどの器じゃありませんし。

しかし、そうはいっても、本当に有り難い解説である事は、確かであると私は頂いております。



最終回放送では、維摩経の主人公「維摩居士」の正体が明かされたりと、最後までぶっ飛ぶ内容に御座います。

今回は、100分de名著:維摩経の最終回本放送で、学んだ事や感想文を、綴って参ります。

また、気をつけたい事もあるのですが、それについては長くなりそうですから、別途お伝えする機会を設けようと考えております。

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「100分de名著:維摩経」最終回本放送の大まかな内容と流れ

最終回を迎えた、NHKEテレ「100分de名著:維摩経」の本放送について、まずはいつものように、大まかな内容と流れをお伝えしておきます。



最終回では、第9章「入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん)」から、最終章・第14章の「嘱累品(しょくるいぼん)」までが、解説されています。

最終回では、第9章から第14章までも、決行駆け足で解説されていた感じが致しましたが、そこを上手い事解説して下さったという印象です。



本放送の最初の方では、「二項対立の罠」を学ぶ事となる話がなされています。



不二の法門についての話では、菩薩達が次々と二項対立の例を挙げていき、文殊菩薩が「言葉や認識、言語、問いも応えも、全てから離れる事が不二の法門です。」というところまで仰います。

そして、今度は文殊菩薩が維摩居士に「あなたはどうお考えですか?」と尋ねるのですが。



ここで、維摩経最大の有名所「維摩の一黙、雷の如し」という、あの場面と続きます。



この時の本放送では、笑い飯哲夫さんの、じーっと押し黙った場面が、なかなかに味がありまして。

この「維摩の一黙、雷の如し」を、ラジオ放送でやってみせたり、表現すると、放送事故になりますかね、とか、そんな事を考えて見たり。



続いて、「香積仏品(こうしゃくぶつぼん)」にて、衆香国の菩薩達がやって来ます。

ここでは、香りで教えを説くという仏国の話を用いて、何からでも学べる、どのような事柄からでも仏法を頂けるし、仏法は開かれている、という事が学べます。

私がよく「反面教師」とか「蒟蒻問答」という言葉を用いますが、それもその一つの形です。

我利我利亡者や詐欺師の振る舞いからも、智慧あるものは仏法を見出して、己の糧と出来ると言うわけですな。



その後、「菩薩行品(ぼさつぎょうぼん)」にて、ついに維摩居士の正体が明かされます。

実は維摩居士って、「妙喜国」という仏国土から来た人なんですよ。



ここで補足解説を致しますと、仏国土という仏の世界がありまして、最も有名な仏国土と言えば、阿弥陀仏の「西方極楽浄土」ではありませんかな。

私は浄土宗の檀家であることからも関係しているのでありましょうか、最初に知った仏国土は、阿弥陀仏がおわします西方極楽浄土です。

仏国土から娑婆世界に来ていたとは、そりゃ、菩薩達と互角以上に渡り合えるのも頷けます。



続く「法供養品(ほうくようぼん)」では、「法四依(ほうしえ)」が説かれており、ここは現代社会を活きる私達も、大いに学ぶ事となる内容であります。



100分de名著:維摩経では、島津さんに尋ねられていたから釈徹宗さんも応えられたのでしょうが、釈徹宗さんは、説くに法四依」の一つ目と二つ目は大切では無かろうか、という話をされています。

私は、四つ全てが大切だという感想や頂き方をしておりますが、まずは一つ目からきちんと、という事を伝えたかったのやもしれません。

そして、この「法四依」では、ブッダが涅槃に入る時に、最後に弟子達に伝えた「自灯明・法灯明」にも関わる教えが説かれております。



最後の「嘱累品(ぞくるいぼん)」で、教えが途絶えないように、ブッダ・釈尊が弟子達や菩薩達に仰って、フィナーレとなります。

その後、釈徹宗さんが本の題名にもされた「お世話され上手」の話をして下さり、「100分de名著:維摩経」最終回が終了します。



ここまでが、大まかな内容と番組の流れです。

100分de名著:維摩経での学び|二項対立の罠にはまると・・・

今回の「100分de名著」の題材となりました名著、維摩経。



維摩経では、本編で何度も「二項対立」を解体したり、物事の解体と再構築を促す教えが説かれております。



二項対立や、キッパリと結論に達したり、「決断」というものは、現代社会においては、推奨される事もしばしば御座います。

私のような、ゆらぎや振り幅を大切にしていて、優柔不断でなかなか決断出来ない性格の人にとっては、住み心地が宜しくない場面とも、多く接することであります。

「結論から先に言え」という風潮も、その一端であるのやもしれませんね。



確かに現代社会を生きる上では、「善悪」や「役に立つ・役に立たない」などの二項対立構造は、欠かせない概念です。

これを無視しては、社会生活を営む上では、具合が悪いのも確かです。



しかし、この二項対立が行き過ぎると、原理主義ゆえの問題であったり、争いなどが生じたり、「苦」の原因ともなるのも、また事実です。



「100分de名著:維摩経」では、釈徹宗さんがわかりやすい例をあげて、解説して下さっています。



例えば、娑婆世界で「良い事」とされている例として、「何か貰ったら、お礼を言う」という場面を使って解説するとしましょうか。

これは、何かを差し上げた方としては、「何かを差し上げたら、お礼を言われる」という構造も見えてきます。

そして、ここに執着すると、「何かを差し上げたら、お礼を言われて当然、お礼を言わない奴は許さん」というところまで行き着くこともありましょう。



こういう人は、タイでお坊さんにお布施をすると、ものごっつ怒り狂う可能性があります。



これは、魚川祐司さんのツイキャスや、五木寛之さんの「人間の関係」という本から学んだ事ですが、タイでは托鉢しているお坊さんは、お布施を頂いてもお礼を言わないそうです。

それは、お布施する側にはする側で功徳があり、お坊さんにお礼を言われると、その功徳が少なくなるとか、そういう文化なり思想がある、という話を、魚川祐司さんのツイキャスで教わりました。



また、五木寛之さんの本からは、布施行はあくまで「喜捨」が前提としてありまして、あくまで自分のためにする行為であり、開いてからの感謝という見返りのためにやっているのではない、との事。

そういう事柄やタイの文化・背景を知らずに、「お礼を言われて当たり前原理主義」に身を置いていると、布施をしたのにお礼を言われないと、ムカっと来る事になりかねません。



二項対立が行き過ぎると、対立する側を排除したり、消し去ろうとする怖さが生じます。

この事に自覚的であるかどうか、ここが肝要であると、維摩経から改めて学びました。



ちなみに、この話で思い出すのが、フランク・ザッパさんの言葉だったりします。



あの人、こんな事を言うていたそうでしてね。

「あなたは、女性を馬鹿にしているでしょう」と言われたら、こう返したそうな。

「馬鹿を言うな、俺は男性も平等に馬鹿にしている」だそうですよ。



人を馬鹿にするのは考え物ですが、自覚的ではあるようだなあ、と、頂いたものであります。

これも二項対立の罠から脱した人の姿、と評するのは、やり過ぎでしょうかね。
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物事の「ゆらぎ」や「振り幅」を見逃さない

一方・一辺に振り切れた、いわゆる原理主義的な姿勢が強くなりすぎると、「ゆらぎ」や「振り幅」がなくなってしまいます。

そこに陥らないために、維摩経の智慧であったり、ブッダが説いた「中道(ちゅうどう)」が活きてきます。



私は、物事には「ゆらぎ」であったり、「振り幅・振幅」があるという考え方をしております。

もちろん、ここにも執着せず、「ゆらぎがある、という考え方にも偏らないように」と、いつも自覚するようにしております。

決める時には決めなければならないというのが、娑婆世界にはありますからね。



でも、それでも「ゆらぐ事」を大切にし、しかし「決める時には、えいや、と決める」という事も、見逃さない。

仏教は、なかなか着地させてはくれそうにありません。

そこが仏教のヤバさであり、また、有り難さや尊さでもある、と、私は味わって頂いており、経もゆらゆらとゆらぐ日々で御座います。

100分de名著:維摩経の最後に釈徹宗さんが伝えて下さる「お世話され上手」

100分de名著:維摩経の最終回で、最後に釈徹宗さんが、現代社会を生きる上で大切な事を説いて下さっています。

それは、私も何度かお伝えした事のあります、「お世話され上手」という事柄です。



お世話され上手については、以前も何度か取り上げた事がある言葉と本であります。



参照記事:「世界の宗教を学べる本2選と学ぶなら読んでおくべき1冊|私が選ぶ入門の書」

参照記事2:「「だから仏教は面白い!(魚川祐司さん著)」は面白い。」

参照記事3:「「仏教思想のゼロポイント」は「だから仏教は面白い!」とセットで読むべし」

参照記4事:「仏教を学ぶメリットとデメリット|そもそもこの表題や問い方事態を問うべし」

釈徹宗さんの「お世話され上手」には、仏教の怖さやヤバさについても、最初の辺りで伝えて下さっています。

私としては、「お世話され上手」を読まれるならば、魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」「だから仏教は面白い」「悟らなくたって、いいじゃないか」も、併せて読んでおきたい良書である、と味わっております。



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私の気づき:人生の前半はお世話をされて生かされていた事を忘れがちではあるまいか

私は、「100分de名著:維摩経」の最後に、釈徹宗さんが「お世話され上手」について説いて下さったことが、有り難いなあ、と味わっておりましてね。



維摩経は、在家の仏教者の在り方であったり、世俗をどう生きるかと言う事を学べる名著であります。

そして、「お世話され上手」という話の中に、現代社会・娑婆世界で生きる現代人が「維摩経」を読む意味があろうかとも、頂いております。



現代社会では、「こだわりを持つ事が素晴らしい」だとか、「自分らしく」とか、自分の枠というものを作る事が推奨されるような、そんな教育なり在り方が垣間見えます。

しかし、自分の枠が強くなればなる程、「自分原理主義」的な生き方になり、そこから「自分以外を排除する」という事にも繋がります。

また、自分の枠が強くなりすぎた人になると、自分都合で物事が運ばないと、「俺の都合通りに、思い通りにならないのは俺以外の誰かが、何かが悪いんだ」という、単なるわがままな輩になってしまう怖れもあります。



これを釈徹宗さんは、テキストでは「自分の過剰さ」という言葉で伝えて下さっています。



こうして「自分枠の過剰」が突き進むと、自己責任論者や自己決定主義者になり得て、更にそれを、他者に押しつけるようになってしまったら、周囲はたまったもんじゃありません。

私も何度もやられたことがありましてね、体験から、こういう輩とのお付き合いは、ご勘弁願いたいものでありますよ。



こういう人が、いざお世話される側になった場合、なんでも自分でやると言って聞かなかったり、お世話されることを拒んで、ごちゃごちゃする具合の悪さが生じることもありましょう。

そうなると、「あの人のお世話したくない。そもそも関わりたくない」となって、孤立してしまいます。

こういう姿は、典型的な「お世話されるのが下手な人」の姿と言えましょう。



私は、そもそも人間という存在は、産まれた時からすでに、誰かのお世話がなければ生存できない存在である、と、考えております。

そもそもとして、人間は「生まれる」という事柄自体が、受け身の構造が観て取れます。



あなたは、赤ん坊が母体から産まれた時、どれだけ周囲の人に助けられているか、考えて見たことってありますかね。

私は、「他力」の教えと出会った時、赤ん坊の時の私は、生まれ出でてから放置されていたら、他力の教えと出会うどころか、こうして「今、ここ」で生きている私とも出会わせて頂けなかったなあ、と、考えた事がありまして。



そして、表面的には自活できるくらいまで生きながらえるには、外部からお世話されてという事も、見逃せません。

更に言うならば、「表面的には自活できるくらい」と、こんな言い回しをしている事も、重要なところです。

だって、自活、自炊などにしても、その自炊の材料は、他者があってこそ成り立っているわけですからね。

すでにそこで、なんらかのお世話をされていると、私は考えるに至っておりまして。



人は、人生の前半期は、どうしたって誰かの、周囲の環境のお世話になっているのです。

また、人生の後半期は、また誰かのお世話にもなりましょう。

それは介護になるか、病院で治療を受けているか、それは人それぞれですが。

更に言うなれば、他界した後も、自身の肉体は、お世話されていると観る事も出来ましょうかね。



しかし、なまじ自活できていたり、「自分の力だけで生きているんだ」だとか「自力で稼ぐ」という事が、表面上ではなされていたら、それが見えなくなります。

なんちゃらビジネスのなんちゃらコンサルタントが、「自力で稼ぐ、自力で生きる力を」だとか言っているのを観ると、「ああ、無明やなあ。」と、思うておりましてね。

そう言えるその環境に至るまで、おたくはどれだけお世話されてきたか、見えておらんというところを、無明だと感じるものでありまして。

表面上だけ「自活できている」と見えるだけで、そんな言説はまさに「上っ面だけの事」です。



これを反面教師として、私は改めて「生あるものは、なんらかのお世話をされている自覚」と「お世話され上手」を大切にしたいと、考えるに至りました。



「常に、何らかのお世話をされている」という事が、この世界を生きる上でついて回る事柄である、私はそのような事を、「100分de名著:維摩経」から、改めて学んだ次第で御座います。

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「100分de名著:維摩経」保存版ブックスにならないかなあ、と言う期待は煩悩ですかね

今回は、「100分de名著:維摩経」最終回本放送を視聴し終えて、私が学んだ事や気づいた事と、感想文を綴りました。



維摩経は、物語・読み物としても楽しめる上に、仏教を学べる名著であると、改めて頂いた次第で御座います。

また、現代の娑婆世界に住まう我々が、俗世を生きる上での大切な智慧も学べる本でもあります。



私、個人的に「荘子」であったり、佐々木閑さんの「ブッダ真理のことば」などのように、NHK「100分de名著」ブックスにならないかなあ、と、思うて観たりしておりましてね。

なるかどうかわからん未来に期待するのは、私の煩悩でありましょうか。



尚、100分de名著:維摩経の、過去の放送と、放送前の予習やテキストについては、こちらで綴っております。



参照記事:「100分de名著テキスト「維摩経(釈徹宗さん)」読書感想文|本放送・再放送前の予習をしました」

参照記事2:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」

参照記事3:「100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の復習|得意分野を揺さぶる」

参照記事4:「NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第3回放送の復習と感想文|空の実践・縁起の実践」



釈徹宗さんが指南役となられた「100分de名著」は、歎異抄に続いて、これで2回目です。



次もあるのかなあ、とか、そんな事を思うのも、煩悩であったり、維摩居士にいましめられるところでありましょうかね。

維摩居士は、未来で悟る事が約束されていると言われている、弥勒菩薩にさえも、駄目だししたくらいですから。



合掌、礼拝

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