100分de名著:維摩経で学んだ事と注意したい落とし穴|人にぶつけるものではない

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



NHKEテレで放送されていた、「100分de名著:維摩経」も最終回放送を終えて、一通り学び直しました。


改めて、釈徹宗さんの維摩経解説本「なりきる、すてる、ととのえる」を引っ張り出したり、NHK100分de名著:維摩経のテキストを買ってきて何度か読む等と、しております。

釈徹宗さんが100分de名著にて、指南役を務めて下さった二冊目の名著、維摩経。

「歎異抄」の時も感じたように、1生涯付き合うレベルの仏教書を、100分で要点を見事に教えて頂けた、そんなお味わいを頂いております。

これから先の事を言えば、それこそ維摩居士が弥勒菩薩に諭した事を諭されそうですが、この先の人生においても、たびたび維摩経を開くこともありましょう。



今回、「100分de名著:維摩経」を機会に読み返していた最中、丁度どんぴしゃりの話を、真宗大谷派の僧侶から、私自身の自戒ともなる話や、注意する事を教わりました。

その僧侶、お坊さんから頂いた注意や戒めの話から学び、また、改めて維摩経を読み返し、100分de名著を視聴した事から、申し上げておきたい注意点や落とし穴について、お伝え致します。



100分de名著だけで、あるいは解説書だけで分かった気になる事になっていないか、そういった事にも気づく機会となりましょう。

スポンサーリンク

維摩経は学び多き名著ではあるが、高威力と言いますか破壊力があると言いますか

「100分de名著:維摩経」で、100分で要点を学ぶ事が出来た、今回の有り難き御縁。



私は原書ではなく、釈徹宗さんの解説書を2冊購入し、今回の機会に改めて読み返し、読む度に学ばせて頂ける名著あるというお味わいを頂いております。

それと同時に、維摩経の破壊力と言いますか、改めて仏教のヤバさであったり、高威力の破壊力と言いますか、そのような部分も垣間見た次第で御座います。



維摩経は、確かに己の在り方を顧みたり、脱構築や再構築をする、娑婆世界・俗世で生きる智慧を学べます。

しかし、冒頭で真宗僧侶から教わったと伝えた通り、一歩間違えると、その高威力によって相手を傷つけてしまったり、破壊しかねないヤバさや怖さもあると言う事にも気づきました。



例えば、維摩経では「空(くう)」について、文殊菩薩とのやり取りで語られていますが、「空」について、理解出来ましたかね。

100分de名著では、伊集院光さんが、「その時は分かったつもりになっていても、また暫くすると分からなくなる」という趣旨の話をして下さっています。

私は、分かったつもりどころか、いつまでたっても「では、空とはなんぞや?」と、なかなか着地出来ないでおります。



そして、怖い事が、「空」を勝手に結論づけて分かった気になって、何かある度に「それは空である!」とか、相手にぶつけてしまうという懸念が御座いまして。



こういう事をはじめとして、「智者の振る舞い」の如く「維摩居士気取りの振る舞い」で、相手にぶつけてしまうという事は、しないでいたいものである、と、自戒を込めて考えるに至りました。

維摩経の落とし穴・前半部分:得意分野を揺さぶる、という事

維摩経から学んだ事で、実社会・娑婆世界の在り方に落とし込んだ時に、陥る落とし穴や罠は色々と御座います。

今回は、その中でも、こういう事例があるのではないかな、という事に絞って、お伝えしていきます。



まずは、維摩経前半部分からです。



「100分de名著:維摩経」にて、弟子品から、維摩居士に諭される仏弟子や菩薩達の話が登場します。

日本ではかなり有名な弥勒菩薩さえも、維摩居士にやり込められるという事から、維摩居士の実力や、その人となりが窺えるというのも、維摩経の物語性の面白さと言ったところでしょうか。



この「出家者が在家者に諭される場面」は、出家者と在家者の関係であったり、出家と在家の概念を考えさせられる教えとも捉える事が出来ます。

一見すると、出家者批判にも捉えられそうですが、維摩居士は仏国土からやって来たという正体でありますから、そこまで読むと、単純な出家批判と結論づけるのも如何なものか、と、考えさせられるのですがね。



私は、この弟子品や菩薩品で、仏弟子や菩薩達の得意分野を揺さぶる場面では、見逃しては不味いかな、と思う所がありましてね、あくまでの私の読み方ではありますが。



それは、「維摩居士が諭している相手は誰か?どのような人達か?」という事です。



維摩居士が諭しているのは、直接、ブッダから教えを受けている出家者・仏弟子であったり、菩薩達です。

この諭された出家者達は、維摩居士に諭されたら、ハッと気づく智慧がきちんと備わっている人達ばかりです。

また、維摩居士に諭されている姿を観た周囲の衆生や初学レベルの学僧達は、そのやり取りから学んだという場面もありましたね。

木蓮尊者と富桜那さんのところで、その事が顕著に読み取れます。



私は、この「維摩居士が諭している相手が、出家者・仏弟子や菩薩と言った仏教においてはハイレベルクラスにいる方々である」というところに、注目しております。



諭せばきちんと受け取ってくれる、得意分野を揺さぶっても、きちんと受け取って脱構築・再構築出来る力のある人達に、維摩居士は諭している、という読み方をしておりましてね。

つまり維摩居士は、きちんと自分の言っている事を受け取れるレベルであると言う事を、きちんと見抜いた上で、更に受け取れる形で諭しを渡している、という見方を致しました。



間違っても、意地悪であったり、相手に自分の考えを押しつける形ではなく、「対機説法」による得意分野の揺さぶり・脱構築と再構築の促しである、という見方です。

そもそも相手が観えていますか?

私は、この「維摩居士が仏弟子や菩薩達の得意分野を揺さぶる」という場面を観た時、一つの懸念が浮かび上がりましてね。



それは、維摩居士が相手の得意分野を揺さぶるという場面を読んだからといって、それを上っ面だけ真似してしまう愚行をやらかす輩が出てこないか、という懸念です。



維摩居士が諭した相手は、名だたる出家者・菩薩達です。

この関係を言語化するならば、「一流の先生・指導者に、超一流の先生・指導者の智慧と慈悲を持つ人が教えている」という構造でしょうか。

要するに、「先生に対して、先生の先生が教えている」と、そんな感じです。



そういった事を考えずに、例えばなんちゃってコンサルタント、内実は詐欺師な我利我利亡者である自称コンサルタントや先生気取り、指導者気取りのコーチング馬鹿は、こんな事をやらかしかねません。

実際、そういう事をやっちゃっている憐れな無明なり我利我利亡者な詐欺師も、実際に観てきました。

相手の事を観る事なく、ただ単に上っ面だけ厳しくすれば良いとか、勘違いしていたり、その上で、相手の得意分野や、一所懸命やっている事を否定して、悪い方向へ揺さぶるとか、ね。



誰でも彼でも、なんでもかんでも、相手の得意分野を揺さぶれば良いという話ではありません。



更に、ここからが重要ですが、鬱状態から脱しかけている人に、これをやらかすと、大げさでも何でも無く、最悪の場合、命に関わります。



大切な事だから、再度申し上げます。



うつ病であったり、鬱状態が酷い人に対して、維摩居士気取りの振る舞いにて、相手を揺さぶる行為は、最悪の場合、命に関わります。



私も実際にやられて、大切な財産を奪われた上に、危険なところにも行きかけました。



我利我利亡者や詐欺師共が、維摩居士気取りの振る舞いにて、人々を傷つけない事を、切に思うばかりであります。

そして、自身もそのような事をしでかさないように、戒めるところで御座います。
スポンサーリンク

維摩経を読んでやっちゃいそうな事:「維摩の一黙」を上っ面だけ真似る

維摩経を読んで、上っ面だけ真似をするという事をやってしまいそうな場面と言えば、「維摩の一黙」の場面でありましょうか。



これは、意味や文脈は違うでしょうが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン氏の「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」を、「沈黙しなければならない」だけをやってしまうというのと、似ているかも知れません。

沈黙だけで格好がつくのは、今のところ私が知っているのは、スティーブン・セガール氏の沈黙シリーズくらいです。



それはさておき。



この場面、確かに維摩居士の沈黙によって、周囲の人達は悟るに至るという場面ではありますが、その前段階があることが重要なところであると、頂いております。

維摩居士が、沈黙にて語る場面の前に、30人ほどの菩薩立ちが、次々と二項対立の事柄について語り、最後に文殊菩薩が考えを語ります。

この、沈黙の前段階まで、言語に挑み続けている場面を、私は見逃したくない、そのようなお味わいを頂いておりましてね。



維摩居士が沈黙に至るまでに、文殊菩薩の言説までの語りがあるからこそ、「維摩の一黙、雷の如し」となる、そのようなお味わい方をしております。



間違っても、ただだんまりを決め込めば良いというものではありません。



この辺りを、上っ面だけで「そうか、黙ればいいのか。」と、言語を尽くす事なく黙るだけという事をやらかすのは、具合が悪いであろう、私はそのように考えております。

間違っても、その事を正当化して、「あなたのために私は黙っているのだよ。」とかやらかす輩は、相手のためを思っているのか、甚だ疑わしい。



「維摩の一黙、雷の如し」か、ただの逃げであったり怠慢による黙りか、気をつけて見極めたいものであり、自身もやらかさぬように戒めたいもので御座います。

維摩経を分かった気にならないように注意して読み続けたい:自戒を込めて

今回は、維摩居士を読んだ事によって、やらかしてしまいそうな事柄であったり、罠や落とし穴について、私なりに考えている事を述べて参りました。



維摩経は、読み物としても面白いと思いますし、仏教を学ぶ上でも名著であると、頂いております。

また、仏弟子や菩薩の名前も出て来ますから、そこから仏教の経典や仏教書に登場する人物達に触れる機会にもなります。



ただ、だからといって、維摩居士の上っ面だけ真似て、反感を買うとか、娑婆世界での生き方があらぬ方向へ行ってしまうと言うことは、避けたいものです。



上っ面だけ真似してしまう、痛々しい輩にならぬために、今回「100分de名著:維摩経」で学んだ事を復習し、再度読み返す事が望ましいかな、と考えておる次第で御座います。



参照記事:「100分de名著テキスト「維摩経(釈徹宗さん)」読書感想文|本放送・再放送前の予習をしました」

参照記事2:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」

参照記事3:「100分de名著:維摩経(釈徹宗さん解説)第2回放送の復習|得意分野を揺さぶる」

参照記事4:「NHKEテレ「100分de名著:維摩経」第3回放送の復習と感想文|空の実践・縁起の実践」

参照記事5:「「100分de名著:維摩経」最終回本放送を視聴しました|二項対立の脱却と「お世話され上手」」



維摩経は、なかなかに着地させてくれない、だからこそ深みとヤバさがあるような、そんな気が致します。



今後も、維摩経とは長く付き合っていくことになるであろう、そんな予感がしている今日この頃に御座います。



合掌、礼拝

スポンサーリンク