無執着の暴走|拘り(こだわり)を捨てろ、とは言うけれど

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



仏教を学び実践していると、どこかで「無執着、執着をしない拘らない」という話に出会うかと存じます。


禅系統の仏教を学び実践すると、無執着であったり、拘りを捨てるという教えに出会う可能性は高まるのではなかろうか、と、私の感覚感性では思うところに御座ります。

禅語に「放下着(ほうげじゃく)」というのもありますからね。

執着を捨てる、という事さえも捨てる、という説明のされ方が、幾つかの本で知りました禅語に御座ります。



確かに、執着による苦について、仏教が教え導いて下さる事がありますし、私も、そのように御法話なり教えを頂いてきております。

ただ、執着をしない、無執着の教えなり思想を、それはそれで大切にしながらも、他方で、無執着ゆえの暴走というのも生じるのではないか、という事に思い当たりまして。



そういうわけで、無執着思想が強固になったために起こりうる暴走と、その対応、暴走しないようにする智慧を、色々と考えております。



尚、今回のこの話は、あくまで現段階における、私が勝手に思う「無執着ゆえの暴走と、そこに陥らない智慧とはどのような事柄であるか」に御座ります。

全く詰め切れておりませんでしょうし、突っ込みどころ満載でしょうから、そういう場合は、お智慧を拝借出来ればと存じます。

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自己過剰の現代社会において、自分都合の縮小に向いた無執着の教えや思想は確かに苦を和らげる

現在の娑婆世界は、自己過剰と言いますか物質社会と言いますか、「自分のもの」「自分都合」が肥大化しているような言われ方をします。

かくいう私もそうですし、「これは私のもの」という区分は幾許も持っております。

愛着のあるものだってありますからね。



また、仕事においても、自分都合で事が進まないとなると、ムキー!っと怒り心頭という状態に陥った経験、これを読んで下さるあなたにも、あるのではなかろうかと存じます。



浄土真宗本願寺派僧侶で宗教学者であられる、釈徹宗さんの「100分de名著:維摩経」に書いてある通りであるなあ、と、思う事がある娑婆世界。



この「自分都合・自分過剰」を小さくしていくことで、苦を少なくしていくという事は、私も経験しており、その一つの教えが「執着しない・無執着」であると頂いております。

確かに、事物や物質、自分都合への執着が少なくなっていくと、苦が和らいでいったり少なくなることは、何となく観じて下さる人もいらっしゃるかと存じます。



最近でしたら、物質的な執着を手放す一つの方法として、「断捨離」もありますね。

一時、やたらと断捨離断捨離言うような時代があったような、そんな気が致します。

断捨離指南本も、本屋に行けばさくっと見つかった時もありましたし。



ただ、ピン芸人のヒロシさんのネタではありませんが、断捨離しすぎるあまりに、生活できなくなるという、笑えない状態に陥る事は、なかったのでしょうかね。

これこそ、典型的な「無執着に執着した状態、暴走的無執着」といったところでありましょうか。

無執着に執着して暴走するという怖さ

自分都合に執着しない事で、確かに苦も減っていくという、私も実感している事柄ではありますが。

上述した通り、執着を手放していくことに傾倒しすぎるあまり、何でもかんでも無執着、なんて事になると、笑えない話になりかねません。

場合によっては、人様を巻き込んだりと、そのような自体になる可能性さえあります。



上の断捨離の例では、自身が生活に困ったという事で、また必要な者を買い直して、自身の在り方を問い直す事でなんとかなりましょう。

しかし、人様を巻き込む無執着は、巻き込まれた方はたまったもんじゃありませんがな。



このような暴走の形を、現段階で考えられる暴走の種類と、それらに対する総合的な対策的智慧を、考えてみることに致します。



無執着の暴走その1:無執着を実践している自分は偉いと錯覚して人様を叩き始める

無執着の暴走した状態と思われる一つ目。



「無執着の生き方を実践している自分は偉い、と錯覚して、周囲にまき散らしたり、時には人様に押しつけ始める」



これは、今回の話に限ったことではありませんが、こういう人って、いませんかな。



例えば、「俺、断捨離してるんだ。え、お前さん、まだ断捨離してないの?時代遅れだなあ。」とか、こんな感じ。

また、何か大切にしている物があって、その事について、「それは執着だ、無執着が大切だ。」と、何かを大切にしていることを、やたら否定してきたり。



もし私が言われたら、「ああ、そう。」と返すだけで、その人から離れていく可能性が御座います。

ただ、私もこういうこと、知らぬ間にやってしまっているのではなかろうか、と、この文章を綴りながら顧みてはおるのですがね。

無明なる私は、無明故に気付かぬままに、このような人の傷つけ方をした事も御座います。

本当に、その時に傷つけた方々、本当に申し訳ない。





先日の、プラユキ・ナラテボーさんの新年京都瞑想会での懇親会にて、この事を改めて考えさえて頂ける事が御座いました。



参照先:「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会・新春の瞑想と対話の会@京都|参加体験談」



仏教を学び実践していると、「学び実践している自分は偉い」等という錯覚、慢の煩悩が生じる事がしばしばあります。(私だけかも知れませぬが。)

無執着においても同様に、「物事に執着しない俺様は偉い!」と、そういう自身に執着していることに気付かぬ無明な凡夫っぷりを晒す、まだ可愛いものですが、人様に向け出すと、えらいこっちゃ。

また、無明ゆえに気付かぬから、どんどん暴走してしまう、という事も御座いましょう。



こうならないために、「自分は、執着を手放す修行をしているけれど、そこに執着していないか、それを人様に向けたりしておらんか。」と、己を顧みる事が肝要ではなかろうかと存じます。

自戒を込めて。合掌、礼拝。

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無執着の暴走その2:人様の価値観を否定したり踏みにじる

無執着が暴走してしまって、やってしまう可能性がある事柄の二つ目。

これは、一つ目とも密接に関連する事柄ではありますが。



「人様の価値観を否定したり、踏みにじって傷つける」



これは、私もやられたことがありますし、私がやってしまった事も御座います。



物事に執着しなくなると、物事に対する価値観にも変化が生じるのは、自明の理でありましょう。

方向としては、物事に執着的な価値を感じなくなる、という事で、わかり易い例を挙げると、お金にそれ程重き価値をおかなくなったとか、この辺りでありましょうかね。



人と人、人と物、人と物事という、あらゆる関係には、その人固有の物語が御座います。

これを、「ナラティブ(代替不可能な物語)」とも言います。



確か、奥華子さんの何かの歌の歌詞だったと記憶しておりますが、「誰かにとっては紙切れでも、誰かにとっては大切なお守り」という歌詞がありますが、まさになあ、と思います。

自分にとっては価値があるとは思えなくても、誰かにとっては一生涯を左右する大切な事物というのはありましょう。



しかし、何事にも執着しなくなり、それがどぎつくなって暴走するに至ったら、誰かにとって一生涯に関わる大切な物や事を、「そんなもんに執着しているから云々」と、やってしまいかねません。



これに関連して、私は娑婆世界にある事柄で、物申したい事が一つ御座いまして。

それは、「トリビア」という言葉と概念について。



「トリビア」とは、生きていく上で全く必要の無い知識と解説される言葉・概念です。

ただ、生きていく上で全く必要ないかどうかは、人に由りましょう、と、某テレビ番組を観ていた時代、ふと思うたものです。

例えば、ペンギンの脚は長い、というのは、生物学研究などに従事している人にとっては、必要となる可能性もある知識でしょうからね。



もちろん、某テレビ番組を否定するわけではなく、むしろ、楽しく観ておりましたが。(と、言い訳がましくフォロースルー。)



無執着を暴走させない智慧:「自他の抜苦世楽」や戒・律と共に行じ、自身を定点観測する事

自分都合を小さくしていき、苦を滅尽させていく方法の一つ、「無執着」の智慧。

時には暴走してしまう事も考えられる、禅語としても紹介されますこの話を、暴走させずに行じていくには、どうすればよいのか。



私が現段階で考えておりますのは、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「自他の抜苦世楽」といった道しるべであったり、戒・律と共にあること、という事です。



例えば、自分は本当に物欲が無くなっているような状態で、特定の物を集めているコレクターなる友人がいるとしましょう。

この場合、暴走させると、「物を集めるとは物欲魔神め!物に執着していてけしからん!」とか、物を集める友人に対して、悪口(あっく)を発してしまうやもしれません。



そりゃあね、人様に多大な被害を及ぼすようなコレクションでありましたら、言いたくなることもありましょう、そういうコレクションがあるかどうかは存じませんが。

ただ、その友人が、なぜその物をコレクションしているのか、その友人とコレクションにはナラティブ(代替不可能な物語)があるやもしれません。

そのような人に、いきなり「無執着!無執着!」と、無執着を棍棒にして叩いても、喧嘩になるか、相手を傷つけ悲しませる事になり得ます。



この時、「自分は物欲を手放す行によってかなり減らせたが、それを人様に向けて振るうのは、如何なものであろうか。」と、己に気づく事です。

そうして、もしも一言申す必要がある場合、「自他の抜苦世楽」という方向をもって、己を戒め律する気概がありますれば、伝え方も抜苦世楽となる伝え方にする事も叶いましょう。






自分が執着をしない行、無執着の方向で歩んでいるからと言って、そのことで人を叩かないように、自他の抜苦世楽であったり、戒や律と共に在る事。

そうして、自身が行事ておる事柄を、定点観測するようにする事。



もっとも、今回話してきました事柄は、私もまだまだ全然詰められておらず、思いつきの域を脱しませんし、何よりも、自分もやってしまったことのある暴走も御座います。

忘れないように、備忘録的に、そして、この段階で突っ込みを入れて頂いたりする事で、お互いによき縁となれれば、嬉しゅう御座います。



今回の話は、まさに、自戒なり、自戒なり。



合掌、警策フルスイング千本ノック、礼拝

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