プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」前編|参加した体験談と感想文

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2017年7月9日(日)、私はプラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想会in京都」に、参加する御縁を賜りました。

以前からお伝えしております通り、私は瞑想なりマインドフルネスを実践するならば、伝導者に伝導して頂く事が望ましい、と申し上げております。

そして、出来れば方向修正であったり、自身の立ち位置なり地図を見るために、定期的に瞑想会や坐禅会等に参加して定点観測する機会を設ける事が望ましい、とも言うて参りました。

そのように申し上げておきながら、口ばっかりでは如何という戒めもあり、また、私自身の瞑想が明後日の方向に向いていないかの確認や、新たな学びのために、今回の瞑想会に参加した次第で御座います。



今回は、よき縁ネットの管理人でもあられる、森竹ひろこさん、Twitterではコマメさんという名前でも活動されている仏教実践者が主宰である瞑想会です。

朝から懇親会まで、長い時間の御縁を賜る事が出来て、とても有り難く、濃密な時空間を共に過ごさせて頂いたもので御座います。



篤く御礼申し上げると共に、その体験談と感想文を、前半と後半に分けて、ここに記します。

前半のレポート・瞑想会体験談と感想文は、午前の部について、座学的な仏教講座にて学んだ事や気づいた事、そこから考えた事を中心にお伝え致します。

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プラユキ・ナラテボーさんの「お話と瞑想の会・京都」:大まかな流れ

プラユキ・ナラテボーさんに伝道して頂ける、「お話しと瞑想の会・京都」について、まずは当日の大まかな流れ、どのような事が行われたか、を、お伝えしておきましょう。



私は、少し早めに到着して、ちゃっかりと受付をさせて頂いたりとありまして。



プラユキ・ナラテボーさんが少し早めに到着された時には、挨拶を交わして、いよいよ開始。

午前10時30分に始まりまして、そこから仏教の基本的な事柄であったり、事前に募集したときに送られた質問への応答が、午前の部に行われました。



午前の部が終わると、昼食時は「食事の瞑想」という事で、食事瞑想を致しました。

行住坐臥全てが仏道修行、食事も瞑想の修行の場という事で、みんなで黙々と、食との一期一会を過ごしまして。

後のお話しの会にて、食事瞑想実践による効果や体験もシェアされて、私も多きに気づきを頂けたもので御座います。



午後からは、手動瞑想をしてから、外に出て歩く瞑想をしたのですが、歩く瞑想の時には、丁度雨が上がるという、有り難き自然(じねん)の御縁を感じたものです。

歩く瞑想が終わってからは、「お茶の瞑想」をしてから、自己紹介と本日の気づきや体験をシェアする時間へ。



その後は、喫茶店で懇親会という流れで、この日の濃密なプラユキ・ナラテボーさんのお話しと瞑想会in京都を終えました。

「受容」の誤解を解く:「受容」は「賛成」や「従順」ではない

プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会in京都」、午前中の部では、仏教の基本的な事柄と共に、瞑想の時に大切なキーワード「受容」について、解説が御座いました。



この「受容」についてですが、私も以前に、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想を「オッケー瞑想」と、勝手に命名したという話もしておりましたね。

ただ、この「受容」についてですが、オッケーという言葉と共に解説しているが故に、生じてしまう誤解も御座います。

この辺り、私もブログにて、説明不足であったかも知れません、申し訳御座いません。



「受容」や「オッケー」は、この場合、「あるがままをあるがままに、ないがままはないがままに」という意味です。

要するに、「受容であって、従順であったり、賛成をしているわけではない」という事です。



「受容」と言うと、もしかしたら「賛成する事」や「従順に、従う事」という意味で捉えられているかも知れません。

ここでいう「受容」とは、そうではなくて、「あ、ある。」「あ、ない。」「あ、今、ここに沸き上がっている。」とか、そういう感じの事です。

その事に、賛成だの付き従うだの、ましてや、つかみ取って放さない・執着する、という事ではありません。



一言で言うならば、「あるがままの認知」です。



例えば、瞑想中に雑念が沸き起こったとしましょう。

その雑念の内容は、「あの時の事は、あいつが悪いんだ。」という雑念だったとします。



この時、よくあるのが「瞑想の時に沸いた雑念の否定」というパターンですね。

これが行き過ぎると、「瞑想中に雑念が湧く自分も否定する」という事に陥りかねません。



では、これを受容するとはどういう事かと言うと、「あ、雑念が湧いた、オッケー」と、ただ、これだけです。

「雑念が湧いた、という事を認知するだけ」で、後は手放します。



ここで肝要な事は、「雑念が沸いたという現象を認知するだけ」で、「雑念の内容に賛成しているわけでは無い」ということです。

ここを間違えると、話がこじれます。

今回の例で言いますと、「あの時の事は、あいつが悪いんだ。」という事に賛成するという事は、「あいつが悪い→そうだそうだ」と、雑念の内容を肯定・賛成するということです。



実はこの事の構造を観察すると、こういう構造が見えてきませんかな。



「雑念に善し悪しを勝手に決めると言う事、雑念に二念・三念を継いでいる」「雑念を掴んで執着している」



手動瞑想では、雑念の想起を認知したら、それに気づいて手放して、手の動きに戻ります。

気づきの瞑想で行う事は、雑念が湧いても、その現象そのものは「オッケー」と受容するだけで、賛成という念を継ぐ事ではありません。



「認知したら手放す、その時に賛成だとか価値判断したり念を継いだりしない」



これが「受容」であり、瞑想で行ずる事です。

「受容」は二項対立を超える智慧にもなり得る

私は、今回のお話しと瞑想会in京都にて、プラユキ・ナラテボーさんからこの話を聞いた時に、「維摩経」でも教わった事とリンク致しました。

丁度、「100分de名著:維摩経」を、学び続けてきた事も、大きな御縁であったことでありましょう。



参照記事:「「100分de名著:維摩経」総集編|まとめページ」



上座部仏教圏の仏教・仏法と、維摩経という大乗仏教経典の教えは、もしかしたら違うかも知れません。

これは、あくまでも私が今回プラユキ・ナラテボーさんから教わった事と、学んで来た仏教・仏法がリンクした、という理解で、捉えて頂ければと存じます。



維摩経では、何度も二項対立の罠に陥らない教えが出て来ます。

現代社会では、特に二項対立構造の罠に陥り易い傾向があると言うのが言われておりますから、このことは戒めとして知っておきたいところで御座います。

維摩経を現代で読む意味は、この辺りに大きくありそうな気が致します。



それを踏まえて、話を進めます。



プラユキ・ナラテボーさんは瞑想会にて、「受容」と「従順」や「賛成」との違いについて、丁寧に解説して下さいました。



「従順」や「賛成」は、一見良いように思えます。

しかし、実はそこには、「賛成」があるがゆえに、構造としては「否定」も存在させることになります。



そして、例えば湧いた雑念の内容に「賛成している状態」というのは、すなわち「賛成しているという状態」にて、執着している、念を継いでいるという構造も見えてきます。

雑念を認知したら、受容するという形で手放す「捨(しゃ)」があるわけですが、それが為されていないという状態ですね。

雑念の内容に「賛成している状態」は、実は「二項対立構造に居着いている」という見方も出来ます。



「受容」は、この二項対立構造を超える智慧ではなかろうか、と、プラユキ・ナラテボーさんの御法話を聞いたときに、ふと思い至りました。

仏教学的、学術的には確かな事は言えませんが、「受容」「オッケー」には、二項対立構造に囚われない智慧であるような、そんな予感がしております。

私にとって、これは大変大きな気づきであり、現段階における「オッケー瞑想、瞑想における受容」の仮説に御座います。
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「未自我」から「自我」へ、そして「脱自我」へ

今回の、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会in京都」では、「自我」についても解説がありました。

自我というと、仏教を学んでいると、遅かれ早かれ学ぶ事になる事柄で御座いましょうか。



今回、私も新しく学んだ事に「未自我」「自我」「脱自我」という段階について、が御座います。

この話は、上でお伝え致しました「受容と従順の違い」とも、関連がある事でありまして。



「未自我」というのは、未だ自我が確立されていない、自我が未発達の状態という事であり、この状態は「従順の状態」と言えましょう。

誰かから意見を言われると、ほいほいと無自覚に従うという状態の事です。



もしも、ブッダであったり、善知識と言えるような人からの意見や教えであるならば、上手く事が運ぶことも御座いましょう。

このことを名前で表したのが、プッタタート師であり、プッタタート師は「ブッダダーサ師」とも呼ばれている人でありまして、意味は「ブッダに従順な人」という意味だと、プラユキ・ナラテボーさんから教わりました。

ブッダの教えに対する覚悟と言いますか、生き様と言いますか、その事を表した名前なのであると、私はお味わいを頂いております。



しかし、娑婆世界においては、誰しもがブッダになる可能性があると言われても、現時点でブッダレベルであるかというと、そうでもなく。

ましてや、仏教的にも娑婆的にも悪なる者、我利我利亡者や詐欺師辺りに、未自我のまま関わってしまうと、そやつらに従順になってしまい、大切な人生を奪われかねません。

未自我であり続けるのは、なんとも具合が悪う御座います。



その具合の悪さで居続けないための、次の段階として、「自我の確立・我具足」が御座います。



仏教では、よく「自我を捨てろ」とか、そういう言われ方もされますけれども、プラユキ・ナラテボーさん曰く「ブッダは自我そのものを否定してはいない」と教えて下さいます。

このことは、ヒビノケイコさんとの対談でも、説いて下さっています。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画から学ぶ|自己啓発で消耗している場合ではない」



もちろん、自我を大切にするとは言っても、それは「調えられし自我」であり、我利我利した自我ではありません。



未自我のまま、自分の意見も無く、また、自分の意見が合っても、それを抑圧して従順になり苦しむ、という事から脱するには、まずは調えられし自我を育む事です。



そして、その調えられし自我を育みつつも、その自我に囚われないである智慧が、「受容の段階:脱自我」です。

「脱自我」の段階まで来ると、しなやかで、柔軟に日常も生きる事が出来る、と、プラユキ・ナラテボーさんから教わりました。



私自身は、まだこの「脱自我」の段階には達してはいないであろうと、自己解析しております。

気づきの瞑想、手動瞑想や歩行瞑想を繰り返す事により、気づきが習慣化して、気づきが間に合うようになっていけば、「脱自我」の段階にいけるやもしれません。

その未来に執着する事無く、でも、その可能性も否定する事無く、私は気づきの瞑想、仏道を歩むという日々におる次第で御座います。

自我の段階、意見を言える段階に来た時の注意:こんな落とし穴があります

「自我を育み、意見をきちんと言える状態」や、「我具足:調えられし自我を育む」という段階で、注意したい事が御座います。



プラユキ・ナラテボーさんは、未自我のままで従順であるが故の苦から脱する智慧として、意見を言えるようになる「自我」を育む段階の大切さを、教えて下さいました。

それと共に、その段階における注意についても、きちんと解説して下さっています。

この辺り、流石は「サバイ(タイ語で「快適」)仏教」と「ヤバい仏教」を知り、そのヤバさを誤魔化さない比丘であるプラユキ・ナラテボーさんの御教えに御座います。



自分の意見を言えるという事は、現代社会では特に大切であるという言われ方がなされます。

よく「自分の意見のない奴は嫌いだ!」とか「自分が無い人は嫌い」とか、そういう事を言う人もいらっしゃいます。



しかし、ここが落とし穴であり、罠が潜んでいるところです。



確かに、自分の意見をきちんと言える事は、娑婆世界を生きる上でも、時には大切な事も御座いましょう。

しかし、ここに固執してしまう、自分の意見に執着してしまうと、今度はその意見への執着による「苦」が起こってしまいます。



これは、釣りを譬えにするとわかりやすかと存じます。

釣りを譬えにしますけれども、釣りを悪者にしているわけではありませんからね。

私も学生時代に少しだけ釣りをした事がありまして、悪者扱いしておりませんし、漁師の方々に敬意の念を持っておるくらいですし。



釣りを譬えにした場合、自分が投げた意見は釣り針であり、その意見の反応を知るために竿を持っているとしましょう。

この釣り針に、相手が「がしっ」とひっつかんだりしてかかったとしましょう。

そして、相手はその釣り針(意見)をひっつかみ、反論や批判などの形で、思いっきり暴れ回ったとします。



この時、竿を持っているあなたは、竿を持ち続けている限り、相手の振り回す力に付き合う事になります。



そして、自分の意見を絶対に手放さないとした場合、もしも相手が自分よりも遥に強い力である場合、海に引きずり込まれます。

もしかしたら、岩に叩きつけられるかも知れません。

それでも、自分の意見に固執・執着しているとどうなるか、想像してみて頂ければと存じます。



このような落とし穴に嵌まらない智慧が「受容」であったり、「伝え方を提案調にしてみる」というような智慧です。



「智慧と慈悲の実践」という事で、慈悲を持って相手の意見をよく聞いた上で、智慧ある提案の仕方という形で意見を伝える。

「意見の強制」ではなく「意見の提案」とする。



私も、ついつい自分の意見を相手にぶつけるような、そんなやり方になってしまう事があったために、このプラユキ・ナラテボーさんの御教えは、己の戒めとして、大変有り難き智慧の教えで御座います。



未自我から、いきなり「受容・脱自我」が難しいから、まずは「自我を調える:我具足」の段階を踏む。

その時に、「意見の強制をしたり、意見の執着をしない」という、受容への訓練も意識する。



このような辺りが、丁度良い塩梅ではなかろうかと存じます。

プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会・京都」後編へ続きます

今回は、森竹ひろこさん(コマメさん)が開催して下さいました、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想会・京都」の、午前の部についてお伝え致しました。



非常に濃密で、学び多き一日となりまして、一回だけで全てまとめるのは、消化不良にもなり得ましょうから、今回は前編という事で、一旦ここで区切ります。

食事瞑想以降、午後の部や「お茶の瞑想」等については、後編でお伝え致します。



尚、今回の瞑想会以外の、プラユキ・ナラテボーさんから直接瞑想を教わった瞑想会については、こちらでお伝えしております。



参照記事:「不安解消に効果があるマインドフルネス瞑想を体験してきました|プラユキ・ナラテボーさんとの善き縁」

参照記事2:「マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編」



以前の話と、今回の前後編の話とが、あなたにとって「善き縁」となり、あなたと善友・法友になれましたら、大変嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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