御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
前回は、コマメさんこと、森竹ひろこさんが開催して下さった、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会・京都」の前編をお伝えしております。
今回の瞑想会午前の部にて、プラユキ・ナラテボーさんは、「行学二道」という話をして下さっています。
前編では、それについては触れておりませんから、ここでお伝えしておきますと。
この「行学二道」とは、「きちんと学び、きちんと実践する事」という意味です。
今回の京都でのお話しと瞑想会では、午前の部は仏教・仏法を、事前に寄せられた質問に応対しながら座学的に学びながら、午後の部は実践という形でありまして。
この瞑想会そのものが、行学二道の体を為していた、というわけです。
午後の部、食事の瞑想からは、まさに瞑想の実践、仏道を歩む実践の時間と相成りまして。
午後からも、そして懇親会でも、非常に濃密で学び多き事となりました。
Contents
食事瞑想の実践
午前の部にて、仏教の基本的な事や、事前に送られていた質問へプラユキ・ナラテボーさんが仏法を説きながら回答して下さり、それが終わると、昼食へ。昼食は、一同「食事瞑想」をする時間と相成りました。
食事瞑想と言えば、アルボムッレ・スマナサーラ師や小池龍之介さんが、本で伝えられている事でもあります。
今回の食事瞑想では、一挙手毎にラベリングするようなやり方ではなくて、「食との一期一会」を観じて感じるという瞑想です。
この「食との一期一会」をやったことによって、午後のシェアする時間にて、効果を実感したという方もいらっしゃり、とても大切な時間となった方もいらっしゃいまして。
私も、改めて食の大切さであったり、善友がシェアして頂いた事柄から、気づきなり学びを頂けたもので御座います。
食事瞑想に入る前に、まずはスカトー寺でされている食前の言葉を唱えるという事を、プラユキ・ナラテボーさんがみせて下さいました。
私は普段、浄土宗の食前の言葉を発するのですが、食事を大切な場とし、食前の言葉を唱えるのは、共通している事柄のようです。
食前の言葉が終わると、いよいよ食事瞑想。
しばらくの間は、黙々と「食との一期一会」を、しっかりと味わう時間を過ごしたもので御座います。

午後は「手動瞑想」と「歩行瞑想」の実践
食事瞑想が終わると、昼の休憩時間に少しだけプラユキ・ナラテボーさんと歓談して、午後の部へ。午後の部では、瞑想の実践をする時間という事で、まずは室内にて「手動瞑想」を教わりながら実践致しました。
私も、日常の中で手動瞑想をする習慣は調っておりますが、改めて学び直す良ききっかけとなったものです。
今回の瞑想会に参加するように、きちんと学び直す、実践の方向がズレていないかを、きちんと指導出来る方からご指導頂く事の重要性を、改めて頂いたものに御座います。
プラユキ・ナラテボーさんの伝導・誘導のもと、手動瞑想も終わりまして、次は室内で歩行瞑想を実践、その後、外に出て歩行瞑想を各々のペースで行いました。
歩く瞑想で外へ:プラユキ・ナラテボーさんと善友と交流
今回、午後は激しい雷雨となった天候ではありましたが、外での歩行瞑想時には、雨が晴れて歩ける状態になりまして、有り難き事であったものです。歩行瞑想をしている最中、水辺の辺りで休めるところがありまして、そこにプラユキ・ナラテボーさんと善友がいらっしゃり、私も合流致しました。
そして、話を聞いてみると、なんと香川県から今回の「お話しと瞑想の会・京都」に参加されていたという話を疑いまして、「おお。」と思うたもので御座います。
プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会や仏教講座は、確かに東京や名古屋辺り、関西でも最近は「よき縁ネット」の御縁もあり、開催頻度も上がっているそうですが、四国ではまだ開催が観られない、とのこと。
それで、今回の京都での瞑想会は、参加出来る日程となったことから、香川県からはるばると京都へ来られた、とのことです。
しかも、プラユキ・ナラテボーさんのTwitterからの繋がりで、私のこの寺院(ブログ)やTwitterも読んで下さっているという、なんとも有り難い話を頂きまして、有頂天になる私。
仏道を歩む者としては、ここで有頂天にならずに、人間界に戻って仏道修行に励むところではありますが、やはり嬉しいものでありますよ。
なんでしょう、小出遥子さんのTempleに参加した時もそうでしたが、いつの間にか知られておりまして、SNSの情報拡散力は侮れません。
そして、時間まで魚川祐司さんとも接点のある善友と、後ほど懇親会でご一緒して下さる善友とも合流し、時間が来たので瞑想会場へ戻りました。
お茶の瞑想とシェアリング時間
この日の瞑想会では、歩行瞑想が終わった後、一杯のお茶をきちんと頂く「お茶の瞑想」も教えて頂きました。「お茶の瞑想」を教えて下さったのは、プラユキ・ナラテボーさんの今回の瞑想会を開催して下さった、森竹ひろこさんです。
森竹さんは、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想だけではなく、色々な瞑想にも経験なさっている方です。
今回はティク・ナット・ハン師から直接教わったという「お茶の瞑想」を、教えて下さいました。
時間的な課題もありまして、今回は3分程の瞑想時間ではありましたが、私にとっては、仏教と再会した時の事を思い出す話でもありましてね。
ティク・ナット・ハン師と言えば、この瞑想会が開催されているタイミングで、「こころの時代」にて、以前放送されたティク・ナット・ハン師の特集が再放送されていましたから、ご存じの方もいらっしゃるやもしれません。
私もTwitter経由で、ティク・ナット・ハン師の「こころの時代」が放送されていると知る機会がありまして、視聴したものであります。
私は、今のところ第2回しか視聴出来ておりませんがね。
第2回では、歩行瞑想や、ティク・ナット・ハン師の歩行瞑想から直接教わり、それを日本で伝えられている島田啓介さんという方も紹介されています。
島田啓介さんと言えば、森竹ひろこさんも携わった瞑想の本「瞑想の学校」にも登場される方です。
今回の話にも関連しておりますし、瞑想をこれから学ぶ人にとっては、自身と相性の良さそうな瞑想を探す一助となりましょう。
出来れば、私が何度も申し上げている通り、本にて「この瞑想を習いたい」という事柄と出会えたならば、直接伝導賜れる機会を見付けて、一度触れてみられるのが望ましいかと存じます。
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喫茶去と逢茶喫茶逢飯喫飯という禅語との出会いと仏教との再会
私、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想の会・京都」にて、森竹ひろこさんから「お茶の瞑想」を教わり、こうして文章を書きながら、また、帰宅してからも、思うた事が御座います。私は以前、心療内科に通っていた時に、ふと立ち寄った古本屋で、禅の本と出会いましてね。
そこに、「喫茶去」であったり、「逢茶喫茶逢飯喫飯」という禅語と、出会ったもので御座います。
「喫茶去(きっさこ)」とは、「まあ、お茶を飲みなされ」というような意味であり、ある禅僧が、誰が来ても「喫茶去」と言って、お茶を出したそうです。
そして、「逢茶喫茶逢飯喫飯」と併せて、私はこの禅語と出会った後、帰宅してからお茶を飲む「喫茶三昧」をやってみることにしたのです。
愕然としましたね、全然出来ないのですよ。
全く「逢茶喫茶逢飯喫飯」が、当時は出来なかったのです、今も出来ているかと言うと、出来ておらんことに気づかされますが。
これは、上の方でお伝えした「食事瞑想」にも関わる、重要な事柄に御座います。
あなたも、お茶を飲む時って、何か考え事をしていたり、しませんかな。
勤務先で休憩時間に、休憩中も「あれしなきゃこれしなきゃ、帰ったらあれしてこれして・・・」とか、そんな感じで、脳と心・精神は、全く休憩しておらず、手に持っている飲み物に全く意識が向いていないとか、経験は御座いませんかな。
瞑想会では「生き急いでいる事に気づいた」とシェアして下さった善友がいらっしゃったのですが、そういう感じになっていませんかね。
私は、この事を、睡眠障害やうつ病等が酷かった時代、心療内科から帰って、「喫茶去」「逢茶喫茶逢飯喫飯」と出会ってから、それをやろうとして出来なかった事に気がつきました。
その当時、私は食事中もお茶や珈琲を飲んでいる時も、まさに心ここにあらずで、三昧であったり、きちんと食やお茶と一期一会をなしておりませんでした。
珈琲を入れている時、お茶を入れている時から、飲み終わるまで、「メール出さないと」「納期が云々」とか、そんな具合です。
今思えば、これも睡眠障害から始まり、倒れて心療内科でうつ病と診断されるに至った原因でもありましょう。
いつの間にかお茶を入れて、いつの間にかコップを片付けて、と、まあ、お茶ときちんと向き合っていない、お茶ときちんと出会っていなかった事の、いかに多い事か。
私はそこから、仏縁があってか、お念仏を子供の頃から触れる機会があった事が、仏教の素地を作って下さっていたのか、この事柄が仏教との再会となりまして、今では念仏者、在家仏教者という自覚が芽生えるに至ったものです。
プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて、森竹ひろこさんから教わった、ティク・ナット・ハン師のプラムヴィレッジで行われていると言う「お茶の瞑想」を教わった時に、その時のことを思い出したものです。
「ただ、お茶と出会い、ただ、お茶を飲む:お茶を飲むになり切る」
いざやってみると、現代の娑婆世界で忙しなく生き急いでいる人にとっては、難しい事であるやも知れません。
ただ、その事に気づいたら、その気づきを一歩目として、この娑婆世界を生きる上で力となってくれる「気づきの智慧」と、縁結べるかと存じます。
そして、その「気づき・気づく事」を習慣化して、気づきが間に合う体質となっていく二はどうすれば良いのか、その事をプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会で改めて教わった次第で御座います。
繰り返し行事て行く事、その事によって気づきが間に合う体質になっていく。
参照記事:「「自己都合・自己所有の過剰」に気づくプッタタート師の智慧|浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスからの学び」
参照記事2:「「気づきを楽しむ」浦崎雅代さんの連載を読んだ感想文|現代社会に活きる智慧を学ぶ」
私も、手動瞑想と出会ってから、その事を、ふとした時に味わうに至っております。

呼吸瞑想から始まった懇親会:濃密な話を色々と聞けました
お茶の瞑想とシェアリングが終わった後は、各々参加出来る人達で懇親会が催されました。懇親会が始まった時、飲食の注文が一通り終わった後、香川県から来られた方から、呼吸瞑想について知りたいという話があり、急遽、呼吸瞑想のコーナーに。
有り難い事に、ここで私は呼吸瞑想も復習実践する事が出来まして、非常に有り難き御縁となりました。
その後、懇親会では、プライベートと言いますか、私生活が視覚化される程に、かなり踏み込んだ悩みや、そのような話がありまして、日常と仏教というテーマが見える濃密な話を聞く事が出来ました。
内容につきましては、人様のプライベートに踏み込んだ話も御座いまして、プライベートを暴くわけにはいきませんから、詳しくは申せませんがね。
個人情報的な事もありますし。
ただ、私も抱えている、以前に抱えてきたような事とも共通する話も聞けまして、大変有り難き、濃密な懇親会でありました。
日常の具体的な悩みや課題について、仏教・仏法からの解決策や生き方、歩み方を教えて頂けると言う事は、すなわち、仏教は現代社会でも活きるということの証明でありましょう。
ただし注意する事として、以前にお伝えしたように、お念仏をしたら経済苦が解消される、と言う直接的な作用を期待すると、落とし穴に嵌まりかねません。
お念仏をしたら心が安らぎ、それで活力が生まれて経済活動を踏ん張れるようになり、それで経済苦が解消される、という間接的作用はあるでしょうけれどもね。
プラユキさんはこの事を、「タムチット(心で行なう事)」「タムキット(身で行う事)」という言葉を使って、わかりやすく説いて下さっています。
心の開発も大切だけれども、心を開発したり学んだ事をきちんと行じる事、タムキット(身で行う事)も、疎かにしてはいけないし、そこを誤魔化してはならないという教えを説いて下さいます。
懇親会では、このことも改めて教えて下さいました。
この「タムチット・タムキット」について、プラユキ・ナラテボーさんは「仕事に効く!仏教マネジメント」でも説いて下さり、文章から学ぶ事も出来ます。
参照記事:「「仕事に効く!仏教マネジメント」(プラユキ・ナラテボーさん著)はビジネスと人生の妙薬書|一項目だけ紹介します」
「仕事に効く!」とありますが、仕事以外にも効きます。
プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会の懇親会はこれで3度目、魚川祐司さんとの対談後の懇親会もあわせると、これで4回目です。
そのどれもが、非常に学び多き、濃密な時空間でありました。
プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」の御縁、有り難し
前回と今回で、プラユキ・ナラテボーさんの「お話しと瞑想会・京都」について、お伝え致しました。今回のよき縁を頂けた事、非常に有り難し。
前回の話は、こちらにてご覧頂けます。
参照記事:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」前編|参加した体験談と感想文」
また、以前に参加したプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会については、こちらでまとめて御座います。
参照記事:「マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編」
参照記事2:「不安解消に効果があるマインドフルネス瞑想を体験してきました|プラユキ・ナラテボーさんとの善き縁」
プラユキ・ナラテボーさんの本を読みたい方は、こちらからどうぞ。
参照記事:「マインドフルネス瞑想入門にプラユキ・ナラテボーさんの本や講座が良い2つの理由」
参照記事2:「うつ病で休職時に不安だった時に読んだ本|「苦しまなくて、いいんだよ(プラユキ・ナラテボーさん著)に救われた体験談」
参照記事3:「「脳と瞑想」から「意味付けの中継地点」を学ぶ|自己啓発の不十分な点を補うプラユキ・ナラテボーさんと篠浦伸禎さんの良書」
今後は、晩秋辺りに、また京都で瞑想会が開かれる可能性がある、との事です。
関西、近畿圏にお住まいで、一度瞑想をきちんと教わりたい方にとっては、善き縁となろうかと存じます。
その時に出会える事が御座いましたら、大変嬉しゅう御座います。
合掌、礼拝