プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画から学ぶ|自己啓発で消耗している場合ではない

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。

タイのスカトー寺で副住職をされている、プラユキ・ナラテボーさんは、対談をされるときが御座います。
現在、YouTubeの動画に上がっている対談に、ヒビノケイコさんという方との対談動画があります。

ヒビノケイコさんは、以前にイケダハヤトさんとプラユキ・ナラテボーさんと3人で対談された事があり、その本の表紙に描かれる絵を担当されている方です。

私も、ちょくちょくとヒビノケイコさんのブログを拝見して、丸っこくて可愛らしい感じがする漫画や絵に、ほこほこしておったりいたします。



今回紹介致します、プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画は、「自分探し」だとか、そういう自己啓発的な世界に囚われすぎている人の執着から脱する事が出来る動画だという味わいを頂いております。

「自分らしさ」だの、そういった事柄に思い悩み囚われている人にとっては、良き智慧となるかと存じます。

「人を変える前に自分を変えろ」というような自己啓発で消耗している人は、必見の対談動画でありましょう。

また、プラユキ・ナラテボーさんが説かれる、言うなれば「プラユキ仏法」にも触れる事が出来る動画に仕上がっておりますよ。

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プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画の学び1:自我悪玉論への執着からの脱却

プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画では、色々と学ぶ事が出来ますが、その中から特に要点を絞って、お伝えしていくことと致しましょう。

あまり長すぎたり、分量を増やしすぎても、消化不良になって混乱しかねませんからね。



プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画にて、学べる事の一つ目。



それは「自我を無理に無くさない、自我悪玉論に囚われない」ということです。



これは本当に、生真面目な人であったり、禅仏教から入った人は、囚われやすいのではないかと、私には思えるのです。



例えば、本などで独学で坐禅や瞑想を学んだり、仏教に触れた人は、こんな考え方に陥ってはいませんかね。

「我を無くすのが正しい、無我の境地を目指すのだ!」

私も、そういうところに陥る事もしばしば御座いましたから、自我悪玉論的な考えを持ってしまう事に、やむを得ない事情があることも承知しております。



しかし、動画でプラユキ・ナラテボーさんがヒビノケイコさんに伝えられているように、釈尊は自我そのものを否定しているわけでは御座いません。



動画ではプラユキ・ナラテボーさんは、「我具足(がぐそく)」という言葉を用いて、自我を極端に嫌ったり、自我を無くす事への執着を戒めて下さっています。

あくまで、「煩悩まみれの我執」に囚われない事が肝要であり、自我そのものを悪者扱いしているわけではありません。

その辺りを錯覚したり勘違いして、「自我は悪だ、自我を無くすために瞑想や坐禅をするんだ」と意気込むと、プラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんが警鐘を鳴らして下さる「瞑想難民」になりかねないのです。

プラユキ・ナラテボーさんが対談動画で話された「我具足」の補足

自我を無くす事への執着に対する戒めについて、動画を学んだ上での補足として、釈尊が涅槃の際にお弟子さんに話された話からも、伺うことが出来ます。



釈尊(ゴータマ・ブッダ)は、涅槃に入られる前に、「自灯明・法灯明」という話をされていると伝えられています。

原文では、「灯」ではなく「島」だという事ですが、まあ、そこは置いておくとして。



「自灯明・法灯明」とは、「法を拠とし、自らを拠とする」という意味で解説されたり、解釈される言葉です。

私はこれを、「法を拠とし、法によって調えられた自己を拠とする」という頂き方をしております。



「自灯明」と言うと、単細胞的な短絡思考をすると、「自己を拠にする」という意味を、もの凄く自分都合で解釈してしまう人もいます。

「自分を拠とするんだろ?つまり、我が道を行くのだ!」と、こんな勘違いってありがちではありませんかね。

これは「自灯明」ではなく、単なる我執まみれのわがまま、自分勝手というだけの事です。



そうではなく、「法灯明」が共にある・セットになっている事から、「法によって調えられた自己」を前提としていると、私は頂いております。

「自灯明」だけだと、後の話に繋がりますが、自己中心的になる解釈をして、暴走しかねません。

ゆえに、私は「法灯明」がセットになって説かれているところが、肝要であるという味わいを頂いておるのです。



プラユキ・ナラテボーさんの「我具足」も、我を具足することが大切だ、という事から、暴走した受け取り方をすると、具足してはいけない我を具足する事になってしまいます。

「我具足」と共に、「自灯明・法灯明」も学んでおくことは、肝要ではないかと補足としてお伝えしておきます。
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プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画の学び2:今に気づく事と次の一歩

プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの、素敵な対談動画で学ばせて頂いた二つ目のこと。



それは、「今、ここに気づく事で、次の一歩を選択出来る」ということです。



これは、プラユキ・ナラテボーさんから直接教わった歩行瞑想と、その後の懇親会で深く教えて頂いた事柄に御座います。



これね、もの凄く大切な教えなのですよ。

ほんと、よくぞプラユキ・ナラテボーさんから聞き出して、動画にして下さいましたヒビノケイコさん有難う御座います、と、改めてお礼申し上げたい。



昔「今を生きる」という映画がありましたが、現在は過去と未来に囚われないための「今、ここに気づいて生きる」と言う事が、結構言われている風潮を感じます。

これはこれで、確かに分かる事ですし、私も「今、ここ」を大切に生きる事については、共感しております。

共感してはおりますが、これもまた仏教が戒めるところで御座いまして、「今、ここ」に執着してしまうことも、気をつけなければなりません。



「今、ここ」も、確かに大切ですよ、「未来は今の積み重ね」という、薄っぺらい自己啓発セミナーや自己啓発本が言うのも、無下には否定致しません。

しかしですね、特に自己啓発セミナー講師や自己啓発本の言説は「今、ここ」に囚われすぎです。



「今、ここ」を大切にしながらも、次の一歩の歩み、未来もきちんと視野に入れているしなやかな自己の在り方、これを説いて下さるのが、プラユキ・ナラテボーさんの「次の一歩を選択出来る」ということなのです。

この話の少し前に「とらわれず、かといって流されず、しなやかに自己を生きる」という話をして下さっているのが、流石お二人の対談だなあ、と思うたもので御座います。



「今、ここ」に執着しすぎていると、次の一歩が疎かになります。

かといって未来にばかり目を向けすぎていると、今度は「今、ここ」が疎かになってしまいます。

この辺り、程よい塩梅・バランスであろうとする智慧が、この「今、ここに気づく事で、次の一歩を選択出来る」という話になるのです。



プラユキ・ナラテボーさんの歩行瞑想や手動瞑想では、その事を体感覚として頂く事が出来る行に御座います。


プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画からの学び3:自己中心的でもなく自己犠牲でもなく

プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんによる、対談動画から学ばせて頂いた事柄の、三つ目。



「自己中心的でもなく、自己犠牲でもない自己」



これは、プラユキ・ナラテボーさんが大切に説き続けて下さる「自他の抜苦与楽(じたのばっくよらく)」に直結する話です。

対談動画を通して、自他の抜苦与楽に関わる話ではありますが、この「自己中心的でも自己犠牲でもない」という部分は、特に深く関わっている部分です。



これ、実は私も陥っている事であり、私の生来的な性質・性格でもあるために、有り難く尊い教えであります。

私は、自己犠牲タイプと言いますか、気が弱くて自己主張が下手という事も大いに関係しておりますが、勝ちを譲ることであったり、相手を優先しすぎる事がしばしば御座います。

そこが、「君は詐欺に遭いやすい」と、よく言われる所以でありましょう。

だからこそ、私は詐欺師や我利我利亡者を、最早人と違う別の存在と位置づけて、その上できゃつらを地獄からすくい上げる修羅となって生きる事を選んだのですがね。



生真面目で、私のような気が弱い人であったり、他人を優先させる傾向が強い人は、しばしば自己犠牲なる業に陥ります。



それはそれで、常不軽菩薩的な生き方でもありますし、尊重される部分も御座いましょう。

しかし、自分が苦しいのに相手のことばかり気に掛けていることは、果たして「自他の抜苦与楽」でありましょうか。

他の抜苦与楽のために、自身が自身に抜楽与苦を与え続けると、しまいにはうつ病等の状態になってしまいかねません。

私がそうでしたから。



また、それとは逆に、自己中心的の度合いが強すぎるにも考え物です。

これについては、特に現代社会においては、陥りやすい状態と言えましょう。

特に、インターネットビジネスだのと言って、人々から金銭を詐欺的に奪い回っている我利我利亡者や詐欺師、多財餓鬼などは、その典型です。



自己中心的な部分が肥大化してしまうと、「今、ここ」の話とも関連しますが、「今、ここで味わえる快楽」しか、見えなくなってしまいます。



その典型的な例を、見事に言い表した言葉が、「今だけ、金だけ、自分だけ」です。

ほんとこれ、上手いこと言ってくれたものですよ。



「今だけ、金だけ、自分だけ」は、まさに現代社会における自己中心的な我利我利亡者であったり、多財餓鬼や詐欺師の姿そのままではありませんか。

しかし、それに気がつかないからますます地獄の深みにはまっていく始末です。

ゆえに、私は気づいて欲しいから、この寺院(ブログ)で、修羅面を前面に出して、気づくような言説を発しておるわけですがね。



自己犠牲も具合が悪い、かといって自己中心的であると社会的にも人に対しても害悪極まり無い。

「フラットな自分」というプラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画で学べる教えは、凄く大切にしたい教えであります。







私は、真宗・浄土真宗の御法話にて、このような教えを頂いております。



「仏法は、毛穴に染みこむように、何度も御法話を聴聞させて頂くべし」



動画を一回観ただけでは、理解出来なかったり、咀嚼しきれない、自身の体感覚として落とし込めないことも御座いましょう。

ゆえに、このプラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画を、何度も観られると宜しいかと存じます。



補足として、こちらの本もお二人が登場しておりますから、合わせてお伝えしておきます。





下手な自己啓発セミナーに通ったり、自己啓発本で消耗しているくらいなら、動画をきちんと学んだ方が宜しいかと存じます。

通信費くらいしかかかりませんし、高額なバックエンド商品も押しつけられたりしませんからね。



いや、むしろ、自己啓発系ビジネス(という名の詐欺師)や、ネットビジネス系我利我利亡者や多財餓鬼こそ、お二方の対談動画を10回以上咀嚼しながら視聴して学び、自己中心性を顧みなさい、と申し上げたい。

プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画と本に関連する私の煩悩

今回は、「自分らしさ」で迷ったり囚われている人達への智慧として、プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画を紹介させて頂いております。

そして、私なりの味わい方や頂き方、解釈と共に、補足的な話を展開して参りました。



最後に、これは私の色眼鏡であり、煩悩を少々。



私は、「苦しまなくて、いいんだよ」という本は、Kindle・電子書籍で読ませて頂いております。





私は、本は紙媒体で読みたがるアナログな者ですが、紙媒体では本屋で手に入れる事が出来ませんでしたのでね。

上で紹介させて頂いた、「自由になるトレーニング」は、今のところ電子書籍版しかありませんから、Kindle・電子書籍で読むことにはなります。



そして、電子書籍版の、プラユキ・ナラテボーさんの本で、ヒビノケイコさんによる表紙の絵、可愛らしくて好きだったりします。

この「可愛らしい」と感じる私の感性は、私の色眼鏡でありましょうし、煩悩の一種であろうとは思いますがね。



ほんと、丸っこくて笑っているプラユキ・ナラテボーさんの絵が、ものごっつ可愛らしい。



はい、ただ「表紙デザイン・イラスト可愛らしい」と、言いたかっただけです、すみません。



尚、今回の話と関連する、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想や本についての話もお読み頂くと、よりヒビノケイコさんとの対談動画を学ぶ上で、智慧となるかと存じます。

参照記事:「不安解消に効果があるマインドフルネス瞑想を体験してきました」

参照記事2:「マインドフルネス瞑想入門にプラユキ・ナラテボーさんの本や講座が良い2つの理由」

参照記事3:「うつ病で休職時に不安だった時に読んだ本|「苦しまなくて、いいんだよ(プラユキ・ナラテボーさん著)に救われた体験談」

参照記事4:「プラユキ・ナラテボーさんの「自他の抜苦与楽」はブログの作り方と運営に大切な事」



現在、「自分らしさ」や「自分探し」という、つかみ所の無い概念に振り回されて、地に足が付いていなかったり、思い悩んでいる人にこそ、この対談動画をお伝えしたいところに御座います。

特に就職活動中で自己分析を必至にされている方には、光明になるのではないかと存じます。



合掌、礼拝

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