プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会・新春の瞑想と対話の会@京都|参加体験談

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。



2018年になって七日目、平成30年1月7日(日)に、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in京都に参加して参りました。


題して、「新春の瞑想と対話の会@京都」です。



今年も、一日から修正会で菩提寺や知恩院、東西の本願寺へ参りまして、7日にはプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会と、仏縁賜って始まりました2018年。

以前から何度も申し上げておる通り、定期的に瞑想指導を直接伝導して頂く事によって、自身の位置・マッピングが大切であると言うている事もありまして、今回も参加する運びと相成りました。



年明けから、有り難き善友・善知識との有り難き仏縁、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会。

例によって、毎度の事ながら、いつもの注意事項を、最初にお伝えしておきます。



今回の、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in京都でも、懇親会とシェアリングタイム(気づいた事や感じた事、質疑応答等)の時間が御座いました。

その中で、善友なる方々のプライベートな話も耳にする機会があったものです。



それら個別的な話であったり、プライベートな事柄については、守秘義務と言いますか、公開しない方が良いと思われる事もあります。

そのこともありまして、懇親会やシェアリングタイムでの話は、私個人が個別に話した内容までの事柄しか話せません。



それゆえに、懇親会やシェアリングタイムで伺った内容等は、一切ここでは記しません事を、ご了承頂ければと存じます。

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プラユキ・ナラテボーさんの新春の瞑想と対話の会@京都:午前の部

2018年始まってすぐの時期に、善友・善知識が開いて下すった、プラユキ・ナラテボーさんが伝導して下さる「新春の瞑想と対話の会@京都」

ところどころで私が感じた事や気づいたこと、学んだこと等にも触れながら、事務的な話、内容を時系列にお伝え致します。



今回の瞑想会は、梅小路公園内(京都水族館がある敷地内)の施設で、午前10時に開始。

私が到着したのは、10分前くらいの時間でありまして、すでに何人もいらっしゃり、参加された合計人数は25人ほどです。



以前、ニャーナラトー師の通い方瞑想リトリートで顔合わせ叶った善友とも再会し、午前10時に瞑想会が始まりまして。

前半は、プラユキ・ナラテボーさんによる「行学二道」の「学」の部分・仏教講座です。



今回の仏教講座は、「縁」「よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる」について伝導して下さり、特に「よき縁となす」につきまして、深掘りした内容を頂いて参りました。

この部分については、シェアリングタイムで気づきや学びをシェアして下さった方もいらっしゃり、私も今回「よき縁となす」について、更に深掘りした学びを頂きました。



この「よき縁となす」ですが、この次にある「よき縁となる」ための方法も、一つ思い浮かびましてね。

プラユキさんから、この話を聞いた時に、ふと「縁に触れた後に、どのようによき縁となすか」について、一つ例をお伝え致します。



例えば、何か危ない物に触れたと致しましょう。

それで怪我をしたり、怪我をしなくとも不快な目に遭ったとします。

その時、「何か危ない物に触れた」という事実を「よき縁となす」とするには、どうするか。



ここで肝要な事、「よき縁となす」ための方向を定めてくれるのが、プラユキさんがいつも教えて下さる「自他の抜苦与楽」です。



この「自他の抜苦与楽」という方向をもってして「よき縁となす」を、今回の例を用いて実践すると、以下のような道も観えてきます。



自分が、もうその危ない物に触れないという「自身の抜苦与楽」はもちろんの事、他者に危険な目に遭わないで頂くために、きちんと「これは危ない代物ですよ」と、伝えるという事。

危ない物を危なくないように加工したり、人から遠ざけるための工夫をしたり、そいう事を為す。

これは単純過ぎる例ではありましょうが、「自他の抜苦与楽を持ってして、いかに善き縁にできるかどうか」という事が、「よき縁となす」であると、私は頂いております。

これを為していくことで、「よき縁となる」に進んでいけることでありましょう。



このような話をプラユキ・ナラテボーさんの仏教講座で頂き、続いて手動瞑想のレクチャーと実践へ。

午前中は、昼食の時間まで30分ほど、手動瞑想を行じました。



午前の手動瞑想後、昼食は「食事瞑想の時間」と相成りまして、黙々と食事瞑想を。

最近、私はついつい業務の事を考えながら、食ときちんと一期一会仕切れていなかったという事を反省し、有り難き食事瞑想の時間と相成りまして。

やはり、きちんと定期的に「逢飯喫飯逢茶喫茶」を行じないと、ついつい食との一期一会を忘れてしまいます、全く怠け癖のある凡夫なる私です。



そのような事にも気づかせて頂く、肝要なる時空間を過ごし、午後の部へ。

プラユキ・ナラテボーさんの新春の瞑想と対話の会@京都:午後の部

食事瞑想も終わりまして、午後1時・13時から再び瞑想修行の時間と相成りまして。

午後の部では、呼吸瞑想を教わり、ボディスキャンも教わる機会が御座いました。



ボディスキャンというと、臨済宗の書く禅僧・玄侑宗久さんの本で学んだ、喫水線を思い出す内容です。

今回の呼吸瞑想とボディスキャンでは、プラユキ・ナラテボーさんに伝導・誘導して頂きながら、身体をスキャンしていくという要領で進みました。



これについては、ボクシングの経験や、甲野善紀さん本やビデオ、DVDで学んだ古の武術に学ぶ事柄にも通じている感じがしたものです。



ボクシングのパンチは、手や腕だけで放っているわけでは無くて、全身使っていると言いますか、少なくとも手や腕だけで打っているのではありません。

ボクシングでは、ジャブを打つ際、足のつま先まで「ジャブを打つために全身を総動員する」という訓練をしたことがあり、そうなると必然的に全身の声を聞くことになります。
(私はそのように教わっておりました。)

その時に、全身の声を聞くと言いますか、ボディスキャン的に自覚するという訓練も生じます。

呼吸瞑想とボディスキャンを行じて、ふと、その事を思い出したものです。



呼吸瞑想とボディスキャンの後は、室内で歩行瞑想を訓練。

その後、屋外に出て歩行瞑想の時間へ。

私、屋外での歩行瞑想時、ついつい合掌して「なーむあーみだーぶ」とつぶやきながら、という、念仏行脚もやってみたり。

もちろん、きちんと念仏行脚の脚に気づきを伴わせてはおりましたがね。



そうして、瞑想の実践も全て終わり、シェアリングタイムへ。



シェアリングタイムが終わり、この日の瞑想会のプログラムは全て終了。

その後は、懇親会に参加させて頂きました。

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瞑想会の懇親会にて、改めて己を戒める御縁を頂いた話

今回の瞑想会では、仏教講座の時もシェアリングタイムも懇親会も、色々と学ぶ御縁を頂いておりまして。

その中でも、特にこれは伝えておきたい、という事柄に絞って、お伝え致します。

その内の一つは、懇親会での話しです。

冒頭でお伝えしました通り、懇親会で聞いた善友のプライベートな内容は話せませんから、私の発言であったり、気づかせて頂いた内容を、障り無い範囲にとどめての伝導にはなりますが。



懇親会にて、善友のお一人が「瞑想をしている自分は偉い、という、傲慢さが出ないか怖い」という話をして下さった方がいらっしゃいまして。



私は、まさにそのような傲慢さが顔を出すこともしばしばあり、この話を頂いた時に、私の体験をお話し致したのです。

この事については、以前もお伝えしたことがあり、「フリースタイルな僧侶たち」に携わるお坊さん達にも、相談したことがある内容です。



参照記事:「ブッダニア体験記:坐禅にお念仏に僧侶とゆるく話す会等々参加して参りました」

参照記事2:「スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポに参加した感想体験談|お坊さんに導いて頂く」



私は、浄土宗のお坊さんに「お念仏で人を叩く事もある」という話をしたことがあります。

これは別に、木魚を叩くバチで、人を叩くという意味ではなく、「私のお念仏の方が、隣でお念仏している人よりも優れている」というような、思い上がりや傲慢さを感じた事がある、という話です。



私は、別時念仏会(べつじねんぶつえ)にちょくちょく参加させて頂いておるのですが、そこで、上述したような思い上がった事が浮かんでくる時がありましてね。

そして、そういう自身に気づいて「ああ、私は法然上人の「知者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」を、全然出来ておらんではないか。」と、猛省し懺悔(さんげ)するばかりです。



また、これもフリースタイルな僧侶たちのお坊さん達に白状したのですが、「仏法を棍棒にして、仏法で人を殴るよいうな傲慢な振る舞い」も、ついついやりそうになってしまう時があります。

「仏教を学んでいる自分は偉い」と、まあ、そんな風に。



そしてこの後も、また厄介な事がありましてね。



瞑想や坐禅、お念仏、勤行など、仏教のエトス(行為様式)を毎日行じているためか、朧気ながらに気づきが間に合うようになったり、「あ、今傲慢になっているぞ。」と、気づくことは出来つつあります。

ただ、そうなってくると、今度は「気づいている自分は偉い、とか思い上がっていないか、知者の振る舞いになっていないか。」と、またしても法然上人の教えがささやかれ、突き刺さってきます。



今回、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて、そして懇親会にて、善友のおかげで、改めて「瞑想をしている自分は、瞑想をしていない人より偉い」と考えいないか、という事を、自身に問う機会を頂きました。

そして、改めて、だからこそ定期的に善友・善知識というよき縁に触れる事、そうして自身を観る環境・縁に通う事の肝要なる事を、教わった次第で御座います。

定期的に自身を観る機会の大切さ

今回は、2018年の始めに参加させて頂いた、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in京都「新春の瞑想と対話の会@京都」の参加体験談と題しまして、報告申し上げました。



少し前の時期に、瞑想難民になってしまっていた事もあり、そのために、改めてきちんと手動瞑想や歩行瞑想、瞑想について学び直し、プラユキさんから直接教わろうと思うておりました。

そのようなタイミングで、京都で瞑想会を開催して頂けた仏縁、非常に有り難き事に御座ります。

そして、参加したことによって、改めて、きちんと定期的に自身を観るべく直接伝導を頂く事の肝要なる事を、思うたところです。



瞑想会に参加した報告をする度に、お伝えしております通り、瞑想をするならば、一度は直接伝導できる善知識のもとで、きちんと伝導頂く事が望ましいと言えましょう。

そして、出来る事ならば、定期的に通って、方向がおかしくないか等、確認することが望ましいという事を、今回も含めた経験から、お伝えできる事に御座ります。



尚、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会については、以前も参加した内容を報告しておりますから、どんな感じかをより知りたい方は、そちらも参照して頂ければと存じます。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都|善友との善き縁と自己牢獄から一歩脱するヒント」

参照記事2:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」前編|参加した体験談と感想文」

参照記事3:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」後編|食事とお茶の瞑想、後、懇親会」



瞑想会に参加する前に、本で予習したいという方には、プラユキ・ナラテボーさんの幾つかの著書も御座いますから、そちらも参考になりましょう。



参照記事:「「脳と瞑想」から「意味付けの中継地点」を学ぶ|自己啓発の不十分な点を補うプラユキ・ナラテボーさんと篠浦伸禎さんの良書」

参照記事2:「うつ病で休職時に不安だった時に読んだ本|「苦しまなくて、いいんだよ(プラユキ・ナラテボーさん著)に救われた体験談」

参照記事3:「うつ病の症状が和らいだ時に読んでよかった本3選|五木寛之さんとプラユキ・ナラテボーさんの本」





瞑想会に参加することによりて、善友・善知識と出会い、それが「よき縁に触れる」となり得ます。

私も、今回の瞑想会にて、善友・善知識とのよき縁によって、改めて自身に対する戒めを頂けましたからね。

そして、縁あって瞑想会にて、あなたとよき縁に触れあえる事となりましたら、大変嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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