プラユキ・ナラテボーさんの春の関西瞑想会in京都2018に参加して体験談|午前中の仏教講座と繋がった話

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2018年4月22日、先日予告しておりました通り、プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想「春の関西瞑想会in京都2018」に参加して参りました。






こういう瞑想会があって行ってきます、とお伝えしました記事は、こちらです。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス気づきの瞑想「2018年春の関西瞑想会in京都」のお知らせ|定期的に行く意味」



この記事でもお伝えしております通り、午前中は近場のお寺さんにて、毎月恒例の仏教講座を受講するため、今回は午後からの参加と相成りました。

午前中に受けた仏教講座では、坐禅をしてから座学に入ったのですがね。



この坐禅中に、ふと気づいたことがありまして、その事が、午後からのプラユキ・ナラテボーさんの春の関西瞑想会in京都で教わった事と、がちっと何かこう、「繋がった」という事が御座いまして。

それも、読んで字の如く、力み無く「腑に落ちた」という感じで、身体レベルで察したと言いますか、「ああ、なんだかこういう事なのであるなあ。」と、観じた事があったのです。



今回は、プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会で頂いた事と、午前中の仏教講座で頂いた事柄が繋がったという話を展開致します。



例によって、ここで注意事項をば。



プラユキ・ナラテボーさんの「春の関西瞑想会in京都2018」では、あくまで私の体験を中心にお伝え致します。

シェアタイムで聞いた話で、超絶個人的な話であったり、そこから個人を特定できそうな話は、一切致しません。

プライベートな内容については、一切明かさないように致しますし、個人情報保護の観点からも、その辺りの内容は一切書き記しませんから、ご了承頂ければと存じます。

了承されなくても、書くべきではないと判断したものは書きませんがね。

スポンサーリンク

プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会「春の関西瞑想会in京都2018」午後からの座学

まずは、プラユキ・ナラテボーさんの京都で行われたマインドフルネス瞑想会、春の関西瞑想会について、事務的な話、タイムテーブル的な話からしておきます。



午前中は、アーナパーナーサティ、呼吸瞑想をされていたようです。



私は今回、午後から参加致しまして、12時40分頃に受付をして頂いて、1時に開始。

1時からは、まず行学二道の学から始まりました。



今回は初めての方も多かったという事もあり、座学の部では仏教の基本的な事を教わりました。

常連さんにとっては、復習にもなる内容です。

ただ、同じ内容でも、方便を変えたりTwitterでの内容を盛り込んだりと、新しい切り口で語られるところが興味深いところでありまして。



今回は、「放逸・不放逸」の話も盛り込まれて、これまた「繋がった」という体験をしたものです。



その他、十二支縁起についてや、因縁の話もありました。

条件の奴隷にならぬ智慧:無理に置かれた場所で咲かなくても宜しかろう

行学二道の学の部にて、色々と復習しながら学んだわけでありますが。



今回は、「放逸・不放逸」という言葉を使い、プラユキ・ナラテボーさんは気づきの智慧について伝えて下さいました。

この「放逸・不放逸」が、坐禅と瞑想で繋がった話の他に、私が「ああ、なるほど」と、頂いた話に御座います。

この事については、別の記事で詳しく述べたいところではあるのですが、ここではざっくりと、瞑想会の座学で気づいたこと、学んだことをお伝えしておきます。



プラユキ・ナラテボーさんは、「放逸・不放逸」について、Twitterで以前から伝えて下さっていますから、前提知識として、まずそちらを読んでおいて頂くと致しましょう。





Twitter説法、辻ッターでは、法句経・ダンマパダの言葉を引用されて、放逸・不放逸について伝えられています。



この「放逸・不放逸」が、条件と原因、縁と因の話で結びつきまして。



例えば、植物の種は、自らの意思によって置かれる場所を選べません。

そりゃあ、人が「このプランターに種を植えるぞ。」と、人の意思が介在することはありましょうが、種そのものの意思では御座いますまい。

もしかしたら、種に催眠誘導されて・・・なんてSF的な事があるかどうかは、定かではありませんがね。



それは今は置いておき。



植物は、置かれる場所、置かれた場所を選ぶことが出来ません。

条件、縁を選ぶことが出来ないわけです。



一方、人は意思によって移動する能力があり、置かれた場所が咲きそうに無ければ、移動する事が出来ます。

しかし、「この土壌ではちょいとまずいぞ。」と、気づく力が無ければ、自らの意思で移動するに至りにくい事でありましょう。

このように、土壌の善し悪しもわからず、全く持って気づかぬ状態が「無明」であり、また、無明のままぼけーっとしている状態を、「放逸」と言えましょう。

忘我と言うてもよいかもしれません。



一方、きちんと「この土壌に縁あってきたけれど、この土壌から去った方が良さそうだ。」と、きちんと気づいて移動するという行為に及ぶ智慧が、「不放逸」と言えるのではないか、私はこのように解釈致しました。



縁あって身を置く場所に気づき、きちんと精査したり検証し、移動すべきかどうかを決め、次の選択を自らに由りて決める。

条件になされるがまま「放逸」にならずに、気づきの知恵を持ってして気づき「不放逸」を為し、理性と知性を総動員して精査・検証して、必要とあらば身の置き場所を変える。

こうする事で、条件の奴隷となるか、条件や縁と上手に向き合い付き合っていくか、必要とあらばその縁から離れるかを自らに由りて決める。



もちろん、置かれた場所で放逸的ではなく、不放逸の在り方にて、「この場は最悪っぽいけれど、苦行体験的にここで咲く努力を幾許かやってみようか。」というのもありましょう。

この場合、ただ条件の奴隷になるのではなく、いよいよになったらきちんと対処する、場所を変える等の事柄を前提として、挑むというのも方法としてはあり得ます。



肝要は、条件の奴隷になって無明なるままに放逸的に置かれた場所で過ごすのではなく、自らに由りて次の一歩をする事。



これが、「放逸・不放逸」の違いであり、智慧ではなかろうか、そのようにプラユキ・ナラテボーさんの伝導を解釈し、お味わいを頂いた事に御座ります。

スポンサーリンク

プラユキ・ナラテボーさんの春の関西瞑想会実践編:手動瞑想・歩行瞑想での気づきと坐禅の気づきが繋がる

こうして、行学二道の学の部が終わり、続いて手動瞑想と歩行瞑想の実践をする事になりまして。

途中、アーナパーナーサティも実践し、午前中に参加できなかった私としては、非常に有り難かった事で御座います。

手動瞑想は、いつものように、ぱっぱっぱっぱっと、今、ここの手に気づいていく訓練をば。



そして、30分ほど手動瞑想の手ほどきと実践を経て、歩行瞑想の時間に。

最初は室内で歩行瞑想の手ほどきを受けて、よく晴れた屋外へ歩行瞑想の実践となりました。



今日は4月としてはとても暑く、京都は確か30度を超えていたかとは思うのですが、歩きに出たのは15時30分ほどで、少し暑さが和らいだ事もあり、そこまで暑さを感じませんでした。

これは、歩行瞑想で一歩一歩気づき、次の一歩を丁寧に選択し続けた結果か、私が鈍感なだけか、定かではありませんがね。



そうして歩行瞑想も終わり、シェアタイムになりまして、私は上述したことや、気づいたことをお伝えしまして。

善友の皆様は、各々に効果を実感されたようで、そのシェアされた内容からも、色々とお味わいを頂いた事に御座ります。

受容は「そのままを観る」、そして「ただただ引き受ける」という事が力み無く出てきた体験

この日、私は午前中に瞑想会の会場に近いお寺さんで、仏教講座を受講して、坐禅も教わっておりました。



その坐禅の時、外から電車の音や車の音、更には子供が元気に走り回っているのであろう元気な足音も耳に入ってきました。

更に、私の足は半跏趺坐であったのですが、だんだんと痺れてきて、足の痺れも感じておった時の事です。

ふと、本当に唐突に、このような事が出てきまして。



「この聞こえている音も、音が聞こえているという事も、足の痺れも、誰も肩代わりは出来ず、ただただ、私が引き受けている。」



言語化すると、「なんだ、当たり前の事ではないか。」と、思われる事でしょう。

そりゃそうです。

私の痛みや感じている事、冷暖自知は、私に起こっている事ですから、程度から何まで、私にしか感知出来ません。



しかしこの時の私は、何かこう、「すっと力み無く腑に落ちる」という事に至りましてね。

「私に現出している現象は、私以外に肩代わりさせること能わず、ただただ、私が引き受ける」という事が、身体レベルと言いますか、言語を超えた部分で腑に落ちた感じがしたのです。



そして、この事は、午後からの歩行瞑想でも繋がりまして。



歩行瞑想の時、いつもプラユキ・ナラテボーさんが仰る「今、ここに気づけば、次の一歩を選択出来るようになる」という教えがあります。

足を上げているその瞬間に気づけば、足をどのように、どこに下ろすかを、自らに由りて選択出来る、という事です。

この時に、ふと、このような事が浮かんで来ましてね。



「自らに由る選択も、その選択した事による果も、ただただ、自らが引き受ける。」



まだ、上手く言語化出来ておりませんが、現段階で何とか言語化してみますと。



プラユキ・ナラテボーさんは、手動瞑想でも歩行瞑想でも、雑念などが浮かんで来たり、刺激に引っ張られたりしても、「オッケー」と受容するように、と伝えて下さっています。

これは「賛成」や「これは良いことだ」と、善悪をつけるのではなく、ただそのまま、在るままという事です。

そして、その浮かんで来た雑念、ふっと沸き上がってきた事、この身に某かの刺激が知覚された時、自身に現出した事柄を、ただただ引き受ける。



この「引き受ける」というところが、私が「見逃せない何かがある」と気づいたところであり、無理矢理言語化するならば、「積極的受容」と言いますか、「能動的な受け身の形」か、そのようなところです。



これは、「傾聴」の在り方にも共通するかな、と、思うところでありまして。



人の話を聞くと言うと、聞いている方は確かに受け身に見えるやもしれません。

しかし、その「聴き方」は、それこそ放逸的でただ耳に入れているだけか、姿形は受け身に見えるけれども、しっかりと相手の話を、機微を察知するくらいまで能動的に聞いているか、の違いに顕れる事柄ではなかろうか、そのように思うた次第で御座います。



どうしようもなく、ただ引き受けるしか無い事柄というのは、生きておれば某かありましょう。

しかし、それを「嫌だなあ。」と三毒に引きずられて放逸的に背負うのか、力み無く引き受けるか。



何かこう、午前中の仏教講座と、午後のプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて、「受け身にならざるを得ない現象や、受け身にならざるを得ない時の在り方」に、光明を見せて頂いた、そのような味わい深い一日となりました。

実践している事を確認するため、定期的に師の元へ行き、行じ続ける事の大切さを改めて確認

今回は、午前中の仏教講座での坐禅と、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会で気づいたこと、頂いた事をお伝え致しました。



私が今回、「ああ、なるほど。」「もしかして、こういう事であろうか。」という事に至ったのは、恐らく実践する事を継続し、定期的に師・善知識の元へ赴いたことも、一つの要因でありましょう。

一朝一夕で、このような事を気づいたりしたわけではありますまい。



今回のことからも、改めて、実践を継続すること、そして、定期的に師・善知識の元で、きちんと確認することの大切さを教わったものであります。



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会は、次にいつ開催されるかは存じませんが、もしも開催されるとして、その時に、時空間を共有できましたら、有り難き御縁と頂く事に御座います。



合掌、礼拝

スポンサーリンク