四諦八正道を繰り返し聴聞す|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀前編

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2017年9月10日(日)、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会が滋賀県大津市の施設で開かれると言う事で、行って参りました。

かねてからこの寺院(ブログ)では、瞑想会や仏法を頂く時には、方向修正や現在地確認のためにも、一度で終わらずに、定期的に通う事が望ましい、と、申し上げております。

このように言うておる手前、私自身がやらんわけにはいかない、という使命感からではありませんが、参加して参りまして。

そして、上述した事が如何に大切であるか、身をもって知る事となる、非常に有り難き御縁となる瞑想会in滋賀で御座いました。



率直に申し上げて、今回のプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会では、私が如何に無明なる凡夫で、全くもって仏教のぶの字もわかっていなかったかを、思い知ることになりましてね。

ちなみに「仏教のぶっ」という本は、実在致します。



今回の、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて、四諦八正道をはじめ、仏教の基本的な事柄を、改めて教わって、己の無明さ、知った気になっていた愚者であったかを思い知ることとなったわけですが。

今回の話は、手動瞑想や歩行瞑想の実践的な内容よりも、行学二道の「学」の部分を、主にお伝え致します。



尚、瞑想会のレポートは、1回では収まり切りませんから、前編後編と、わけてお伝え致しまして、更に個別的な事柄については、別枠でお伝え致します。



また、瞑想会を開催して下さいました、善友・善知識の主催者の方には、篤く御礼申し上げます。

有難う御座います、合掌、礼拝。

スポンサーリンク

プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀:仏教の基礎講座で四諦八正道・特に四聖諦を教わる

滋賀県大津市で開催されました、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会。

今回は、参加者・善友の半数程の方々が、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に初参加という事で、まずは仏教の基礎知識講座から始まりました。



まずは、「行学二道」についてから。



仏教・仏道を歩む上で大切な事は、「行学二道」といって、実践する事と学ぶ事が両輪としてある事に御座います。

「学」だけだと、観念遊びや頭でっかちになるだけですし、「行」だけでしたら、「まあ、こんな感じにはなるけれど、なんぞこれ?」と、意味不明な状態に陥りかねません。

そういう危険に陥らないために、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会では、行学二道の形で進行します。



そして、行学二道の次に教わったのが、「四諦八正道」についてです。



これは、仏教を少々かじったことがある人、ゴータマ・ブッダ(お釈迦様・釈尊)の生涯を学んだ事がある人なら、「ああ、あれか。」と、ピンとくるかと思います。

初転法輪で、ブッダが最初に説いたのが、この四諦八正道と言われておりますね。

この事と共に、仏教の目的と言いますか、方向としては「苦を滅する・苦滅」がある、という事を教わりました。

四諦八正道・四聖諦を現代で学ぶ意味

今回のプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会における「学」の部分では、四諦八正道の、特に「四諦(四聖諦)」について学びました。

八正道につきましては、さらりと正見から正定までの事を教わりましたが、時間の関係で、八正道の掘り下げまでは致しませんでして。



そして、後で話す事に繋がるのですが、私はこの「四諦」を学び直せたことが、有り難き御縁であるなあ、と思うところであったのです。

同時に、現代の娑婆世界で生きる私達が、「四諦(四聖諦)」を学ぶ事の意味を、改めて考えるところがありましてね。



現代社会においては、釈徹宗さんが「100分de名著」にて伝えて下さるように、「自己の過剰」が見受けられます。

もっとわかりやすく言うと、「自分都合の過剰」とでも申しましょうか。

要するに、自分都合で事を運ぼうとする思考や姿勢が、過剰になっている、という事です。



この「自己の過剰:自分都合が過剰になる」という事態は、苦が生じやすくなる事でもあります。

「自分の思い通りにならないと、すぐに怒ったり、嫌な思いに支配されて苦しくなる」などの現象は、まさに自分都合が過剰になっている状態であるからだと、私は考えております。



ここで、「四諦(四聖諦)」の話です。



「四諦(四聖諦)」は、「人生は苦である、という事を悟る事を教えている、とよく誤解されます。」と、プラユキさんが教えて下さいました。

「四諦(四聖諦)」の解説においては、確かに、「人生は苦である」という事を説いている、という話も御座います。

それはそうなのですが、「人生は苦である」で終わってしまうと、「だったら何やっても無意味だ。」と、厭世的な生き方になりかねません。



確かに、「人生は苦である」と、苦なる事柄を知る事は大切ですが、ここはあくまでスタート地点に過ぎないのです。



ブッダの説く「四諦(四聖諦)」は、「人生ってのはね、苦だよ、」で終わってはいません。

その苦を滅する方法もきちんと伝えて下さっています。

それが、「集諦(じったい・じゅったい)」と、「滅諦」と「道諦」に繋がっていることからも読み取れます。



そして、大雑把に・抽象化して申し上げると、苦の原因というのは「自分都合の過剰」であると、私は観ております。



自己の都合通り、思い通りにならないから苦しい。

と言う事は、苦の原因は、これで見えてきます。

「自分の思い通りにしてやろう」という事が過剰にならないように訓練されていけば、苦も減ってきたり、滅する事も出来ましょう。



自己の過剰によって苦しむ機会が増えている現代社会に、「四諦(四聖諦)」を学び、苦の原因をきちんと知る事は、現在の娑婆世界で意味はあると思いますが、如何でしょうか。

私がやらかしてしまった「四諦(四聖諦)」の教えや瞑想の仕方とは真逆の事

ここで、私の実体験と言いますか、私がつい最近にやらかしてしまっていた、瞑想難民になりかねない瞑想の仕方を、お伝えしておきます。

はっきりいって、仏法を頂きながら、分かった気になってその実は分かっておらず、無明な凡夫であるという事を好評する事にはなりますが。



私、実は先月の終わりくらいから、また陰鬱とした症状が出て来ましてね。

また、業務の上でも、「あーでもないこーでもない」と、あれやこれや、あれもこれもと、まあ、動きすぎていた事が御座いまして。

しかも、そのどれも上手く出来んものかという精神状態と思考状態でありまして、正直、坐禅も手動瞑想も、上の空的な感じになってしまっておりました。



今、こうしてその時点の話を出来ておりますが、その当時は、その事にすら気づいていない、まさに無明なる状態全開な私。



「苦を滅する」どころか、苦が増える原因となる「自己の過剰:自己都合の過剰」をやらかしておりまして。

苦を減らしていく仏道の歩みが、逆に、過剰が先に来てしまっておった状態だったわけですよ。

「瞑想や仏道修行に、俗物的な効果を期待してやるものじゃない」と、申しておきながら、このていたらく。



そんな無明な私が、その時期も、なんとか坐禅や瞑想を続けてはおったのですが。

もの凄くわかりやすく、当時の私の状態を申し上げると、下の画像のような感じですがな。


いや、ほんと、瞑想によりて、仏道修行によりて苦を滅するどころか、苦を増やしてどうすんだって話です。

プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀にて、このことに気づかせて頂けた事は、私にとっては非常に大きく、有り難し。

まさに、無明なる私に、光を照らして地図を手渡して頂いた、というお味わいに御座います。合掌、礼拝。

スポンサーリンク

繰り返し学ぶ事の意味

プラユキ・ナラテボーさんからは、過去に何度か直接「四諦(四聖諦)」について、学んでおる私です。

しかし、同じ内容であるにも関わらず、己の無明を思い知ることになりました。

どうして、今回の瞑想会にて、このような事を体験するに至ったのか。



それは、上述したような「学んだ事を実践して、体験を経た上で、繰り返し学んだから」です。

体験したからこそ、体験を経たからこそ、同じ事柄を繰り返し学んだときに、「あの時は、ああだったけれど、今はこういう視点やこういう感じで理解出来る」という事が起こります。



私は常々、「お念仏や瞑想をしたからといって、金持ちになったり欲しい者が手に入るわけでは無い」と、申し上げております。

しかし、今回の話をしている時期における直近の私は、あろう事か、「瞑想をして業務を上手い事やるんだ、集中力を付けるんだ」という思いや効果効能を期待してつかみ取る思いで、やっておりました。

苦を滅するどころか、苦の原因にも気づかないという、まさに無明の状態です。



今回の、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて、何度も学んでいる「四諦(四聖諦)」を、繰り返しになる形で学び直した事によって、その状態が照らし出された事に御座います。

そして、繰り返し学んだ時に、新しき気づきや智慧と出会えたり、無明が照らし出された事の因・縁は、私が無明なるままに瞑想をしていたという体験があってこそ。



怪我の功名と言えば、聞こえは良いのですがね、単なる私の修行が足りない凡夫ゆえの過ちです。



ただ、こういう体験をしたからこそ、やっと見えた事や、「四諦(四聖諦)」の理解を一歩進める事が出来た事は、確かな体感・経験の上での手応えとして御座います。

繰り返し学ぶ事で、「分かったつもり」で智者の振る舞いをしてしまう事を防げる

繰り返し学ぶ事の意味について、お伝え致しましたから、もう一つ、繰り返し学ぶ事の功徳をば。



繰り返し学ぶ事によって、私の様に「学んで分かった気になっている状態」や、「分かったつもり」で終わらせずに、きちんと修正したり、点検する事にもなります。



私もやりがちですが、何かの事柄を新しく学んだとき、「あ、もう分かった」となると、なかなか学び直さないものです。

そして、「分かったつもり」になって、内実は分かっていなくててんやわんやしたり、間違ったことを流布したりすると、酷い事になってしまいます。



本当は、よく分かっていない事、理解が追いついていないことを、ドヤ顔で人様に言いふらすのは、まさに「知者の振るまい」でありましょう。

智者の振る舞いをする愚者とは、このことです。

そして、私もやってしもうている事を、今、ここでも反省する事に御座います。



仏教の方向は、「苦滅」であるのに、苦を増やす使い方をしてしまった私。

今回、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀にて、繰り返し教わったからこそ、そこに気づく事が出来ました。

繰り返し学び、地図を点検する事の大切さを、改めて、身をもって思い知った次第で御座います。

「四諦(四聖諦)」について:復習出来るように本の紹介

今回は「四諦(四聖諦)」を繰り返し学んだからこそ、自身が如何に無明であったかを、照らして頂けたという話を致しました。



プラユキ・ナラテボーさんの仏教講座は、この後も続くのですが、長くなりましたから、一旦ここで区切ります。



尚、今回話しました「四諦(四聖諦)」については、復習して頂くと共に、その他の仏教の本を読まれると、より理解が深まります。

そこで、「四諦(四聖諦)」を学ぶ上で力となって下さる本を、幾つか紹介しておきましょう。



「四諦(四聖諦)」についてまとめられていて、仏教思想を学ぶ上で外せないのが、魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」です。


「仏教思想のゼロポイント」の58ページに、「四諦(四聖諦)」ついてまとめられておりますから、まずはここから読まれると宜しかろうと存じます。



他には、「仏教要語の基礎知識」も、読んでおきたいところであります。


「仏教要語の基礎知識」では、191ページの「第六章:四諦説」で、詳しく要語解説がなされています。

「要語」とある通り、仏教にとって「四諦」は外せない要語であると言う事が、この段階で読み取れます。



プラユキ・ナラテボーさんも学ばれた、パユットー師の本「仏法」にも、四諦について説かれております。


電子書籍版はこちらです、電子書籍版の方が、半額近くの価格で手に入れやすいでしょう。






また、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会については、過去に何度か参加しておりまして、レポートもこの寺院(ブログ)にて掲載しております。



参照記事:「マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編」

参照記事2:「気づきが間に合う利益(りやく)や効果|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会で頂いた例え話の補足」

参照記事3:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」前編|参加した体験談と感想文」

参照記事4:「プラユキ・ナラテボーさん「お話と瞑想の会・京都」後編|食事とお茶の瞑想、後、懇親会」



瞑想会の詳しい日程・予定については、こちらの「よき縁ネット」にて。



参照先:「プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」」



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会は、最近では関西方面での開催も、ちょくちょくと増えているとの事です。

2017年の10月には、鳥取県米子市でも開催されるそうですからね。



また、東京では連続瞑想会・瞑想講座として、「アーナーパーナサティ(呼吸による気づき)瞑想会」も開催予定との事。

ただ、東京での直近の開催は、2017年9月30日(土)でして、私はその日から次の日まで、只管お念仏申し上げておりますから参加致しませんがね。

興味がある方は、行かれると宜しいかと存じます。



それでは、後編もお付き合い頂けましたら、大変嬉しゅう御座います。



:追記:



後編記事:「苦しい時のブッダの智慧|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀後編」



後編と共にお楽しみ頂けましたら、嬉しゅう御座いまする。



合掌、礼拝

スポンサーリンク