御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
全開に続きまして、今回もプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀のレポートです。
全開は、「四諦八正道」、特に「四諦(四聖諦)」の話を中心にして、私が陥っていた事柄や、やらかした瞑想の実践について、お伝え致しました。
ほんと、定期的に伝導者に伝導を仰いで、地図の点検をすることの、如何に大切な事であるか。
その事を思い知った瞑想会に御座います。
後編である今回は、前編の「四諦(四聖諦)」の続きとなる話であります。
今回の話は、「心が苦しい時に効くであろう仏陀の智慧」と題しまして、お送り致します。
心が、精神がざわついたり、外部からの刺激によってブツブツザワザワしやすい現代社会において、妙薬として使える方も、中にはいらっしゃる事でありましょう。
また、その際に誤解されやすい事柄についても触れながら、上手な心が苦しい時の対処法なども、探ってみることに致します。
んー、ブッダ。合掌。
Contents
心が苦しい時の仏陀の智慧を学ぶための前提知識:苦を滅する事についての誤解
心が苦しい時に効くであろう仏陀の智慧を、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀にて、学んだわけですが。実は、私も何度か学び、本を読んで実践もしておったのですが、ついつい、誤解側の事をやってしまう事もありましてね。
そこで、まずは「苦滅」についての、ありがちな誤解を知るところからはじめると致します。
もちろん、「誤解側の方法」も、人によっては上手く心が苦しい時を乗り越える力や妙薬となる可能性は否定致しませんがね。
仏教を学び、瞑想をする事で得られる功徳として、言われているのが「苦滅:苦しい時に苦しみから脱出する事」です。
心が苦しい時、苦しまない自分でいられたらなあ、と欲求したことは、多くの人が経験している事ではありませんかな。
それが、仏教を勉強し始めたり、瞑想をやってみようという御縁ともなり得ましょう。
確かに、それは私も経験しておる事し、わからんでもありません。
しかし、そこまでのプロセス・過程で、誤解があると、プラユキ・ナラテボーさんに改めて教わりました。
苦を滅する、心が苦しい時を経験しないでいる方法について解釈される事柄として、「苦しみが完全に沸かないようにする」「苦しみそのものの否定」があります。
しかし、娑婆世界に生きていたら、どうしたって何らかの苦を受ける事が御座います。
この、苦を受ける縁の事を、十二因縁の「触」であったり、そこから続く「受」という言葉と概念を用いて、プラユキさんは解説して下さいました。
「触」とは、物事に触れる事で、「受」は、触れた事によって感じる事、感覚感性と思って頂ければ宜しいかと存じます。
そして、瞑想をする人が連想しやすいことは、「触」や「受」を何とかしよう、あわよくば「これそのものを消してしまおう」という事です。
私は実体験も踏まえて言うなら、これが行きすぎた状態が、「この世から消えれば、触れる事や受ける事の苦しみもなくなるから、いっそ・・・」という到達地です。
これは究極的な到達地点ではありますが、「物事に触れる事によって心が苦しい時を経験するなら、いっそそれそのものがなくなれば」と思ってしまう人がいるのも、わかる気が致します。
実際、私もそうでしたし。
でも、生きている以上、「触」や「受」は逃れられません。
肝要は、「受」の後に続く「渇愛」や「執着」といった場所に向かないことです。
そこで、瞑想などで「受」の段階で、「あ、今、このような事を受けている、受が生じている」と観ずる事で、その後に続く「渇愛」や「執着」とは別の方向へ進める、という事を訓練するのが、瞑想であると習いました。
今、「十二因縁」の話をしましたから、補足的に本の紹介をば。
プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「十二縁起」は、「自由に生きる」の50ページから、詳しく解説して下さっています。
電子書籍版は、こちら。
感覚を麻痺させるのではなく、かといってはまり込むのでもなく
今回のプラユキ・ナラテボーさんの「苦を滅する方法と瞑想の話」を聞いて、改めて学んだ事、気づいた事。瞑想というと、確かに「苦滅」に向かう方法なり道ではありますが、そこに誤解も御座います。
私も、こうして話を書いてはおりますが、どこか誤解したり間違っているという可能性を観ながら、現段階での瞑想についての「暫定的理解」を、まとめておきましょう。
瞑想をすると、確かに「怒りに支配されない」「惑いの感情が無くなる」という結果に行き着く事は、ありましょう。
それが、高僧と呼ばれる人達や、スカトー寺のご住職であったりするのであろうと思われます。
ただ、「怒りに支配されない」という事に至るまでの仕組み・メカニズムの誤解もあるという話を、プラユキさんから教わりまして。
それはどういうことか。
怒りの話をしましたし、怒りを題材にした話はわかりやすいから、怒りによって心が苦しい時の話をしましょうか。
現代社会においては、怒りや怒る事は、煩悩であったり心が苦しい時を生み出しまくる負の感情として片付けられがちです。
「怒りは悪者」という見方です。
それ故に、「怒りを静めるため、怒らなくなるため」に、瞑想を学ぼうという人もいらっしゃいましょう。
きっかけとしては、それはそれで良いと私は思うておりますが、そこからこういう方向に行くと、ちょいと不味い事にもなるのではないか、という仮説を立てております。
それは、「怒らないようにするために、怒りそのものを感じなくなればいいんだ」という方向。
確かに、怒りを感じない人になれば、怒りは生じません。
しかしこれって、どこかの実験で、満腹中枢を取り外せば、いくらでも餌を食べ続けるマウスの話を思い出す話であると、私は観ております。
この話の抽象度を上げると、「苦しい時を経験せずに済むには、苦しいと感じる感覚感性を無くせばいいのだ。」ということになります。
それはつまり、「苦しい」と感じる神経を、全部引っこ抜けば良い、ということでしょうかね。
確かに神経を抜いた部分は、痛みを感じません。
しかしこれでしたら、怒りの感性、苦しみを感じる感覚感性が完全に無くなるから、相手の痛みを想像する力も失うのでは無いか、という危険を、私は見出しております。
そりゃ、楽でしょうよ、そういうやり方による「苦滅」は。
しかし、流石にそこまで極端な事は具合が悪い。
瞑想は、何も「苦しいという事を全く感じなくなるための修行」ではなく、「苦しみを観て、苦しい時を刻まぬ智慧の方向へ進む」という事であると、私は頂いております。
感覚麻痺になれというのが、瞑想にあらず。
感覚麻痺のハイスピードは、HUMMING BIRDの楽曲「DREAM JACK」だけで十分です。
また、かといって、「苦しい時を刻むのが人間だから、仕方ない、はまり込んじゃえ」というのも、考え物です。
貪欲や渇愛、執着といった煩悩は、更なる苦しみを増大させてしまいます。
苦しみが沸いてきたとき、怒りを感じたときに、よくやってしまいなのが「怒りを静めなきゃ、鎮めなきゃ!」と、じたばたして、余計苦しむと言う悪循環が御座います。
じたばたとすれば、余計に怒りなどの苦しみにはまり込み、心が苦しい時が長くなってしまった、なんてこと、私以外にも経験した人は、存外多いのではありませんかな。
感覚麻痺させるのではなく、かといってはまり込むのでもなく。
仏教・仏法が教える瞑想は、この塩梅であるというお味わいを、私は頂いております。
心が苦しい時を刻まなくなる仏陀の智慧:水面の譬え
心が苦しい時に妙薬でなり得る、ブッダの智慧として、私が学んだ事は、怒りの神経や感覚を麻痺させるのではなく、かといってじたばたして余計にはまり込む事でもない、という塩梅です。これを一言で、見事に表現して下さった人に、カンポン・トーンブンヌムさんという方がいらっしゃいます。
カンポンさんは、「苦しむ人から、苦しみを観る人へ」というメッセージを、や動画にて著書にて伝えて下さっています。
カンポンさんについて知りたい方は、次「命の最後の授業」という動画と、以下で示す本を読まれると宜しいかと存じます。
本はこちら。浦崎雅代さんとプラユキ・ナラテボーさんが、翻訳で関わって下さっていますよ。
私は、名著であると頂いております。
カンポンさんが教えて下さる「苦しむ人から苦しみを観る人へ」とは、どういう事なのか。
そして、どういう功徳があるのか。
その事について、「水面の譬え」を使って、お伝え致します。
目の前に、池だか湖があるとしましょう。
そして、風が吹いたりして(外部からの刺激)、水面に波(怒り等の苦に繋がる心のざわめき)が発生します。
その時に、「波を鎮めないと!」と、手で水面をばしゃばしゃとはたいても、余計に波が怒るだけです。
そして、「なんで波が静まらないんだよ!」と、更にばしゃばしゃと身を乗り出して、そのあげく、池や湖に落っこちて溺れてしまいます。
まさに「苦なる感情に溺れる状態」です。
そうなると、最後には窒息してしまう事でありましょう。
窒息状態が表象したのが、「キレる」であったり、心が折れるとかが該当します。
かといって、じゃあ、「そもそも水が無ければいいんだ!」と、水を完全にからしたら、もうそれは池でも湖でもありません。
まあ、何かに使える穴ではあるかもしれませんが、それが表象した状態は、無味乾燥、厭世的な抜け殻になってしまいます。
今生を、特に現代社会を生きる上では、これはこれで具合が悪い。
そこで、そのどちらでもない、心が苦しい時を乗り越える智慧の一つが、「苦しみを観る人」という立ち位置です。
ポジショニング、と言うと、格好良いですかね。
この立ち位置でしたら、苦しみに飲み込まれたり溺れる事もなく、かといって水を枯渇させる事もありません。
確かに、生きている以上、波は立ちますよ。
しかし、波が立ったとき、プラユキさんの教えを元にすれば、「触(外部からの刺激)」によって「受(感じる事)」という波が起こっても、じーっと、水面を観るだけ。
「ああ、波が起こっている」と、ただ、観るだけです。
波に飲み込まれる事も無く、かといってじたばたもしません。
波は、自然に静まることも、じーっと、観ているだけ。
「観る人」という智慧を備えた人になれば、水面に波が生じても、下手に手を出して波を更に荒立てて溺れる事もなく、窒息することもなく、かといって枯れ果てる事もありますまい。

手動瞑想や歩行瞑想など、体の動きを伴う瞑想は理にかなっている
「そうはいっても、どうしても怒りの波が漂っている時や、心が苦しい時ってのはあるし・・・。」という事もありましょう。譬え話の内容を、頭で理解出来たからと言って、完璧に実践出来るかというと、訓練していないと難しい事もありましょうし。
実際、私だって全然出来ておらず、むしろ、明後日の方向を向いて瞑想実践してしまっていましたからね。
それゆえに、瞑想伝導者の元に定期的に通って、地図そのものと、地図の見方を学び直す事を繰り返し学習するわけですが。
ただ、だからこそ見えてきたことも御座いまして、今回のプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会では、その事も味わう事が出来ました。
今回の瞑想会では、プラユキさんから直接、手動瞑想と歩行瞑想を復習させて頂いたわけでありまして。
その時に、体を使った瞑想、手動瞑想なら手の動きに「ぱっぱっぱっぱ」と気づく訓練をするのですが、その効果も、水面の譬えと連動させて理解する事が出来ます。
「水面を観る人・心が苦しい時そのものを観る人」という、観察者の立ち位置を確立出来れば、心が苦しい時の波立ちも、自然と収まるまで待つ事が出来ます。
しかし、観察していると、どうしたって眼に入ってきて、それがそもそも心が苦しい時となる事だってあり得ます。
怒りが原因で波が水面に現れている状態を見続けることによって、怒りを思い続けてしまう状態に陥る、という人もいらっしゃいましょう。
敏感な人・HSPの人でしたら、もしかしたらこういう状態に嵌まりやすいのかもしれません。(私は結構そういう傾向があります。)
そんな時、手動瞑想や歩行瞑想は、「今、ここの肉体、昨日の手や明日の脚ではなく、今、ここにあるこの肉体」を、観る事になります。
そうなると、怒りの原因や、怒っている水面から自ずと離れる事が出来ている、という仕組みを、私は見出しております。
無理に心が苦しい時や、荒波が立っている水面から目を背けるのではなく、「今、ここの肉体」を、ぱっぱっぱっぱっと観察する。
水面の譬え話を使いながら、プラユキさんの手動瞑想と歩行瞑想を行じて、そのような味わいや仕組み・メカニズムを頂いた瞑想会で御座います。

繰り返し学ぶ事で、地図そのものの点検と地図の読み方を修正する
今回は、瞑想をする時に考えやすい誤解であったり、水面の譬えを使って、「苦しい時を観る人・苦しみを観る人」の話を致しました。今回の話は、上述している本、プラユキ・ナラテボーさんの「自由に生きる」と、カンポン・トーンブンヌムさんの本を読まれると、より理解が深まるかと存じます。
本の内容などは、こちらでもお伝えしておりますから、こちらもお読み頂くと宜しいかと存じます。
参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」
参照記事2:「「自由になるトレーニング」から学んだ事と感想文続編|入り口の一冊にとなる仏教入門書」
参照記事3:「マインドフルネス瞑想をするなら読んでおきたい3冊の本」
参照記事4:「マインドフルネス瞑想入門にプラユキ・ナラテボーさんの本や講座が良い2つの理由」
今回、私はプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀に参加して、私が地図を逆さまにして読んでいたという事を、思い知りました。
同じ内容の事でも、定点観測と言いますか、定期的に復習しておくことの大切さを思い知った事に御座います。
この「繰り返し復習することの大切さ」は、前編でも話しておりますし、プラユキさんの瞑想会の様子を文字で知りたい方は、そちらもご覧下されば嬉しゅう御座います。
参照記事:「四諦八正道を繰り返し聴聞す|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀前編」
さて、今日も手動瞑想を行じると致します。
あ、そうそう、この記事を執筆時の日は、恐山の禅僧・南直哉さんの対談本が発売される日だから、本屋まで歩行瞑想をするとしますかな。
合掌、礼拝