丁寧な暮らしに繋がる「気づきが間に合う」という実体験の話|プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんとホームさんからの教え

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



以前、私は「丁寧な暮らし」について、気づきの瞑想の智慧が一助となると言う事を、体験を通してお伝えした事が御座います。

今回は、その「繋がる」という部分についての話です。



このことに気づかせて頂いた機会が、つい最近御座いまして。



少し前に、浦崎雅代さんが、ホームさんというタイでお坊さんの経験もある方へのインタビューツイキャスをアップロードして下さっていて、それを聴聞したという話を致しました。

ツイキャスでは、ホームさんの話や質疑応答など、有り難き良縁となる話を頂いて、聴き入っておったものであります。

現在、浦崎雅代さんがご自身のツイキャスページに、記録をアップロードして下さっていますから、聴聞する事が出来ます。

そして、この記事を投稿しているタイミングの直近で、ホームさんが話して下さった内容に、どんぴしゃりな体験を致しましてね。



今回は、表題にある「丁寧な暮らし」に繋がる、あるいは一助となり得る「気づきが間に合う」という事を体験した話を致します。

内容は「そんな事、当たり前じゃん、改まって言う事じゃない」と思われるかも知れませんが、まあ、改まって言わせて頂ければと存じます。

許可なくても、こうやって勝手に言うわけですがね。

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浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスで頂いた話

私が聴聞させて頂いた、浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスは、現在は浦崎雅代さんのブログから、聴聞しに行く事が出来ます。

こうして記録して公表して下さる御縁、非常に有り難し。



直接リンクを張っておきますから、聴いてみたいという方は、こちらからどうぞ。

その後、また戻ってきて頂ければと存じます。



参照先:「浦崎雅代さんのブログ記事:ツイキャス3連チャン」



はい、お帰りやす。



私が聴聞させて頂いた、浦崎雅代さんとホームさんの話の内容は、主に「プッタタート師」という、タイではもの凄く有名なお坊さんの話です。

ホームさんは、18歳から19歳くらいの頃、お坊さんの修行をされていた時代に、プッタタート師の本と出会われました。



そして、今回の話では、「「楽しい」と「幸せ」は違う」という事を話して下さっています。



このことは、実際にツイキャスを確認しておいて欲しいのですが、「楽しい」は外部の刺激などが必要で、条件付きの事だそうです。

この「楽しい」は、確かに楽しい事は楽しいけれども、刺激が無くなった途端に、言うなれば「リバウンド」的な疲労感がやってくるそうです。



この感覚は、何となくわかるような気がします。

例えば、私が体験した例ならば、以前はビジネス的なセミナーの後、飲んだり食ったりの懇親会に参加して、その場では、まあ、それなりに楽しんではいるけれども、帰り道ですでにどっと疲れを覚えると言う事が、何度かありましたからね。

まあ、ビジネス的なセミナーの懇親会は、名刺合戦とか、「今だけ、金だけ、自分だけ」を隠しながら顔を売る、仕事を取る、人脈を広げる、等々をやる色がありますから、その疲れもありましょう。



「幸せ」は、そのような外部の刺激云々に囚われない感じで、この辺りの感覚・感性については、申し訳ありません、私も上手く言語化出来ておりません。

ただ、なんとなくではありますが、「こんな感じかな?」という、感覚的な事柄は、ふんわりとわかりました。

何とか言語化しますと、「外からの刺激に依拠せず、今、ここで、すでに安らいでいる」という事が、「幸せ」のお味わいであったり、頂き方でありましょうか。



プッタタート師の教えに出会う前のホームさんは、外部からの刺激に囚われたり、煩悩を満たすような、そんな刺激が楽しい事であり、また、幸せであると考えていらっしゃったそうです。

しかし、プッタタート師の「楽しさ」と「幸せ」の教えに出会ってからは、外部からの刺激や、「煩悩の奴隷」になっていないか、という事を考えるようになられました。



それからというもの、例えば寺で在家の人と、外部の刺激有りきで遊んでいた事は、終わった後に疲労を感じることがあって、それは「楽しい」であり、煩悩の奴隷的な事であると気づかれたそうな。

また、更にそこから、「プッタタート師の教えによって、この事に気づいた自分は賢い氏偉い!」と、思っていないだろうか、という、自身を問う事にも気づかれた事を、話して下さっています。

仏教の言葉を用いるならば、「慢」という煩悩に毒される前に、「慢の起こり」に気づくに至った、というわけですね。



私、結構これをやらかす事がありまして、新しい事を知ったり、出来るようになると、「私ってすげえひゃっほい!」と、ついつい有頂天になる場合がありまして。

(有頂天、も、仏教用語で、六道輪廻を知っている人なら、よくご存じかと。)



今回の、浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスにて、「慢」に気づく事の大切さも、教わった次第で御座います。

「気づきが間に合う」というキーワード:プラユキ・ナラテボーさんからも教わった事

今回の、浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスにて、私が非常に大切な教えを頂いた、と思うたところは、「気づきが間に合う」というところです。



この「気づきが間に合う」という事は、プラユキ・ナラテボーさんからも教わっていたことでありましてね。

浦崎雅代さんとホームさんからも、再度教わるという御縁を頂いた事に御座います。



プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会や本、懇親会等でも教わった、「気づきが間に合う」という事柄。

これは、私もプラユキさんから教わった、手動瞑想などの「チャルーン・サティ」を、毎日行っている効果やも知れません。

「やも知れません」と、なんだか頼りない言い回しをしているのは、全ての人に当てはまるとは限らないという可能性を考慮しての事と、因果関係を、ばしっと科学的に解明していないからです。



ただ、私個別の現象としては、瞑想であったり、色々なお坊さんから頂いた智慧や仏法の実践を教わった事にも由来するであろう、とは考えております。

その実感もありますし。



どういう事かと申しますと。



プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「手動瞑想」は、体を使っての瞑想、身体を伴う瞑想です。(身体性・体感覚を伴う)

このことは、「自由に生きる」という、プラユキ・ナラテボーさんの本の268ページに書いてある、身体感覚の話とも関連があります。





この本には、手動瞑想や呼吸の瞑想・アーナパーナサティのやり方も、後ろの方で詳しく書かれています。



手動瞑想では、手を気づきの装置として用いる、という構造です。

「ぱっぱっぱっぱ」と、動いている手に気づき続ける事によって、「気づく事」を、体感覚として修練していくこととなります。

これをしっかりと続けていくと、「気づきの頻度が上がる」という事を、プラユキ・ナラテボーさんのTwitter説法や、瞑想会にて教わりました。



気づきの頻度が上がると言うことは、私も確かに、体感的に覚えつつあります。



実は、これと似たような事は、付箋を使って以前にやったことがあるのですがね。

私、片脚に体重を掛けるという癖に気づいた時、丁度、ためしてガッテンでしたかな、あのようなテレビ番組で、要所要所で「自身の状態に気づく智慧」として、こういう方法が紹介されていました。



「家のあちこちに、付箋を貼る」



私はこれを真似して、パソコンラックのみえやすいところや、冷蔵庫など、そういったところに「姿勢」とか、そういう言葉を書いて貼っておいたのですよ。

そうしたら、冷蔵庫の前に立つときに、嫌でも視界に入りますから、それを観た時に、「あ、今、姿勢どうだろう?」と、強制的に気づく事になります。

付箋はまさに、「気づきが間に合う装置」です。

手動瞑想は、付箋を使わずに、自身の体感覚と共に養う、という構造です。

付箋を使わなくても、「手」が、気づきの装置となってくれます。

ゆえに、付箋に頼らずとも、自らの体が気づきの装置となってくれるわけですから、気づきの頻度も上がりやすくなりましょう。



ここまでが、浦崎雅代さんとホームさん、そしてプラユキ・ナラテボーさんから教わった「気づきが間に合う」という事柄についての前提知識です。

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丁寧な暮らしに繋がる、私が体験して自覚した「気づきが間に合う」体験談

そして、ここからが、私が体験した「気づきが間に合う」という事についてです。

まさに、日常に活かされ、丁寧な暮らしにも繋がるのではないか、という事を考えるに至った体験であります。



私は、リハビリがてらであったり、御法話を聴聞するために、てくてくと歩いて出かける事もありまして。

その通り道に、ブックオフを見付けまして、そこに立ち寄ったら、「和英対照仏教聖典」が200円で置いてあったから、購入して帰ったことがありましてね。



そして帰ってから、机の上に本を置こうとした、その瞬間の出来事。



「あ、本は、投げたりして乱雑に扱わないようにしよう、ぽんぽん物を置かないようにしよう。→きちんと本棚へしまおう。」と思うに至りました。





その後日も、本を持って帰る度に、「物をポンポン置かないように」「今、物をポンポン置こうとしていないか?」と、気づくようになりました。

まさに、「気づきが間に合う」という状態です。



浦崎雅代さんとホームさんのツイキャスを聴聞して、「気づきが間に合う」という言葉を聴いたとき、改めて「ああ、もしかしてあのことか」と、私が体験した事と繋がりました。



以前にプラユキ・ナラテボーさんから「気づきが間に合う」という事を教わっていた事も、ツイキャスで「気づきが間に合う」という話を頂いた時に、聞き逃さなかったキーワードとして、お味わいを頂くに至った土台でありましょう。

気づきが間に合うと、丁寧な暮らしにも繋がる

ここまで来て、やっと表題の話です。

勘の良い人ならば、ピンときたやもしれません。



日常において「気づきが間に合う」という頻度が高まれば、丁寧な暮らしにも繋がります。

私が実感を持つに至る体験からも、おわかり頂けるかと存じます。



あなたには、買い物に行って、家に持って帰って、どさっと乱雑に置いてしまったり、そんな経験はありませんかね。

そりゃ、仕事から疲れて帰って来て、ついでに立ち寄った本屋で雑誌や本を買って帰って来た時、家に入ってほっと一息つきたくなるのは、ごもっともです。

そして、買ってきた物を、ぽんぽんと机の上に置いたり、ぽーんっとソファーの上に投げ置きたくなることもありましょう。



しかし、それは「汚部屋」の原因にもなります。



物を置くという、日常の何気ない動作において、「あ、今、自分がしようとしていることは、物をぽんぽんと粗末に置こうとしていないか?」という気づきが間に合えば、「汚部屋」のリスクも回避出来ようというものです。



ちなみに、「汚部屋」や、疲れていてもなんとか散らからないための工夫や智慧として、そうならないための智慧として、有栖川ひとりっ子さんという方の智慧なる絵が、ヒントになります。





「気づきが間に合う」と、丁寧な暮らしを実現する事に繋がる。

そして、丁寧な暮らしを実現し続ける事を心がける事で、「気づきが間に合う」の後、気づいた次の一歩も、丁寧な暮らしに繋がる一歩となりやすくなる。

暮らしの良き循環になり得る智慧と言えましょう。



と、偉そうに申し上げておる私ではありますが、物をぽんぽんと置くことは減りましたが、綺麗な部屋かというとそうでもなく。

ここまで書いておいて、掃除についてはきちんと実践出来ていないなあ、と言う事に、気づかせて頂きました。

ほんと、ひろさちやさんがご自身について仰る時に、よく言われる「湯ばっかり(言うばっかり)」であるなあ、と、猛省するところで御座います。

また掃除せんとなあ。



尚、今回の話に関連して、丁寧な暮らしと瞑想、日常生活に活かす事等ついては、こちらでもお伝えしております。



参照記事:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」

参照記事2:「手動瞑想を続ける日常生活での実感|「気づきの瞑想」の効果を頂ける日暮らし」

参照記事3:「「実践!!瞑想の学校」読書感想文|仏教の気づきの智慧と日常生活の送り方を考える」



浦崎雅代さんのツイキャスについては、こちらでお伝えしております。



参照記事:「浦崎雅代さんのツイキャスで学んだ事|ブッダの言葉「筏の譬え」」



こうして、タイの仏教に触れる事が出来るという御縁は、本当に有り難し。



タイでは、お経を原文のままであったり、パーリ語で読まれるという話もあり、最近パーリ語にも興味を持っておる今日この頃。

このような状態ですから、本屋であったり、ブックオフで関連の本を見付けたら、購入する事になりそうな予感がしております。



もちろん、買って来たら、ポンポンと本を机に放らずに、本棚へ丁寧に収納しますがね。



合掌、礼拝

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