無力(むりき)と無力感(むりょくかん)の意味|五木寛之さんの本と小出遥子さんの話に学ぶ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、「無力」や「無力感」という言葉の意味や、概念を考えた事がありませんか。
私は、現代社会において、やたらと「何何力」と言われている事に、なんとなく居心地の悪さと言いますか、こう「なんか私の感性と合致しないなあ。」という、もやもやが御座います。

本屋に行けば「他動力」や「稼ぐ力」だとか、自己啓発系の本は、力んでいるような気が致しますし。

最近でしたら、インターネット上のなんちゃらビジネスにおいては、「発信力」が、注目されていると言いますか、流行っておるような気が致します。

まあ、そのうち廃れさせ屋に廃れさせられるのかなあ、とか思うてみたり。



また、御朱印ブームか何かようわかりませんが、パワースポット巡りも人気だとか。

パワースポット巡りそのものに関しては、神仏や宗教に触れて、一度は考えて見る御縁ともなりましょうから、私は否定しませんし、むしろ応援する節も御座います。



ただ、「パワーを頂けるパワースポット」というのが、どうも腑に落ちませんでしたね、子供の頃から。



私は、この力んでいるように感じる現代社会と、パワースポットの概念が、どうも腑に落ちなかったのですが、仏教・仏法と再会してから、「まさに私が感じていたことだ」と、頂けた話がありまして。

そして、つい先日、その事を改めて頂いた話が御座います。



今回は、力んでいる現代社会の妙薬となり得る、「無力(むりき)」について、また、無力感(むりょくかん)という表現などに使われる「無力(むりょく)」との違いを、私なりに頂いて居る事をお伝え致します。

力まずに、無力(むりき)にてお楽しみ頂けましたら、嬉しゅう御座います。

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無力感などの無力(むりょく)と、無力(むりき)

「無力」と書くと、娑婆世界では「むりょく」と読まれる事が多く、あなたも「無力(むりょく)とか、無力感の話でもはじめるのかな。」と、思われたかも知れません。

私は、もちろん「無力感」などに使われる「無力(むりょく)」という読み方もしますが、現在は「無力(むりき)」と、使い分けております。

「無力(むりき)?修羅観音は漢字読めないの?」と、思われたかも知れません。

実際問題、私は漢字の読み間違いや、読めない漢字は沢山御座います、それは否定致しませんが、今回はその話は、脇へ置いて頂くと嬉しゅう御座います。



「むりき」とは、一体何か。



私は、以前にパワースポットの話をしましたが、恐山院代と勤めていらっしゃる禅僧の南直哉さんが仰る「パワーレススポット」という方が、しっくりくるという話を致しております。



参照記事:「京都のパワースポットの属性や相性とか違和感ありまくり」



私、「空」「無」という教えを大切にしている仏教において、関連する仏教寺院は、無属性でいいんじゃないかって勝手に思うておるのですがね。

まあ、池水火風についての話もありますから、現状の属性付与について否定も出来ませんが。



それはさておき。



この、パワーレスになる事や、良い感じに脱力したり、力みが無い状態の事を、パワーレス以外に何か言いようがないかな、と、更なる引っかかりに到達しておりまして。

そんな中、偶然に、五木寛之さんの本を読み漁る時期が御座いまして、その最中に、ある一冊の本と出会い、その本に「ああ、同じ事考えていた人がいらっしゃった」と、思うたものです。

私が言語化出来なかったもやもやを、すでに言語化して伝えて下さっていた五木寛之さんの本。



それが、「無力(むりき)」です。

MURIKIです。


無力(むりき)や無力感(むりょくかん)などについて考えるきっかけとなる話

この「無力」と私の出会いを踏まえて、今回の話をするきっかけとなった出来事をお伝えしておきましょう。



私は、Templeや各方面への取材とレポートにて世に知らせて下さる仕事をなさっている、小出遥子さんの情報に、アンテナを建てております。

そして、先日、小出遥子さんが、Twitterにてこのような事を仰っていました。





「無力感(むりょくかん)」と、出ております。

また、このつぶやきに関する話は、こちらで読む事が出来ます。



参照先:「小出遥子さんの情報発信サイト」



私は、一度Templeに参加させて頂く御縁が御座いまして、参照先に書いてある事から、参加させて頂いた時の、小出遥子さんの佇まいを思い出してみました。

小出さんは、恐らく謙遜から「自分には無力感が」という話をされていると、私は頂いておりまして。

小出遥子さんは、恐らく「いやいや、本当に無力で、無力感ハンパ無いですから」と、仰るだろうと、妄想しつつ。



ただ、私はここで、小出遥子さんの日々の発信や、Templeでの佇まいから、「無力感(むりょくかん)・無力(むりょく)」とは、何か違うな、と、感じてはおったのです。

そして、「ああ、これはあれだ、「無力(むりき)」だ。」と、合点がいく瞬間が御座いましてね。

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無力感などの「無力(むりょく)」の意味と「無力(むりき)」の意味、その違い

私は、「無力感」といった言葉に使われる「無力(むりょく)」と、「無力(むりき)」の意味と概念を、明確に使い分けるようになりました。



あなたは、「無力感」という言葉に、どのような意味をつけ、どのような印象を持たれているでしょうか。

大体が、「ああ、なんか無力感半端ねえなあ。」とか「自分は無力だ・・・」と、どうも宜しくない意味で使われる事が、多いのでは無いかと存じます。

私も、「私は無力で無能だなあ。」と、己の凡夫である性質(さが)と、突きつけられる事がしばしば御座います。

無力感などの「無力(むりょく)」は、どうもネガティブイメージ・負の印象のようです、娑婆世界においては。



一方、「無力(むりき)」の意味や概念は、どうなのか。

私の場合、「無力(むりき)」は、五木寛之さんや、パワーレススポットという意味と概念を参考に、意味や概念を頂いておりまして。



それを踏まえた上で。



「無力(むりき)」とは、「力みが無い」という意味と概念として、私は解釈し、そのように頂いております。



「無力感(むりょくかん)」や、「自分の無力さ」というと、どうも、絶望感や不満がセットになっている、と、私は観じております。

絶望感とセットですから、ネガティブですな。



一方の「無力(むりき)」は、あくまで「力みが無い事・力みが無い状態」という、ただそれだけの事であり、そこに絶望感などの負の事柄はくっついてきません。

わかりやすく言えば、ニュートラルに近い状態と言えましょうか。

でも、だからといって流されるのでもなく、「無力になるための力みも無い」という、中道的な意味や在り方として、この「無力(むりき)」という言葉を頂いております。



私が、小出遥子さんのTempleで観た佇まいは、まさに「力みが無い状態」で、そこにいて下さる事が肝要である、という、まさに「無力(むりき)の体現であるなあ。」と、思うたものに御座ります。

何何力と、力みすぎな現代社会に効くであろう妙薬「無力(むりき)」

現代社会は、本屋に行けば「何何力」という表題の本が、沢山御座います。

ほんと、色々御座いますな、他動力、雑談力、発信力、等々。



もちろん、何かの力を体得しようと、邁進することは否定しませんし、自他の発展のためには、「何何力」も大切な事であることは、私も理解しておりますし、観じております。

それはそれで、各々が体得したい力を付けるために、それらの本も活用されると宜しいかと存じます。



ただ、最近は、何でもかんでも「何何力」と、力力言い過ぎ、なんだか力みすぎな気がするのです。



そのうち、力んで執着している事柄を解体したり、力強く握っている手を放す行を伝える事が多い仏教・仏法も、「仏教力」「仏法力」と言われ始めるのですかねえ。

まあ、偉そうに言うておる私も、ついつい「何何力がねえ」と、言ってしまうこともあるのですがね。



そして、力んで力んで、力んだ後に「やっぱり出来なかった。」となったら、次の段階で襲ってくるのが「無力感」や「自身の無力さ加減に嫌気が差す」という状態ではないかと存じます。

私もそういう事を何度も体験しております。



力みすぎて事に当たって、何事か上手く行かなかったら、「自分は無力だ、無能だ・・・」と、無力感から絶望してしまう。

力みすぎからの無力感への転落。



また逆に、力んで力んで、それで事が上手く行った場合、「俺様が力を付けたから、俺様の実力だ」と、有力感から増上慢に流されてしまう、という事も御座いましょう。



この事について、五木寛之さんが「無力」という本の中で、このように伝えて下さっています。


無力(むりき)のちからというものを意識しないかぎり、社会全体が底なしの無力感(むりょくかん)にとらわれてしまうか、ヒステリックな有力感に走ろうとするか、そういう二分法の選択になっていく気がしてしかたがないのです。

※五木寛之さん著「無力」171ページより引用





「無力(むりき):力みが無い状態という在り方」は、この両極に走って振り切れてしまって、消耗したり苦しみに対する妙薬となり得るのでは無いか、私はそのように考えるようになり、このような味わいを頂いております。

無力(むりき)とは中道的に揺らぐ在り方

今回は、小出遥子さんのつぶやきや投稿、力みの無い佇まいから、五木寛之さんの「無力(むりき)」を改めて考察し、私の「無力(むりき)」の解釈をお伝え致しました。



無力感などの「無力(むりょく)」と「無力(むりき)」の意味や概念の違いについて、あれこれ長くお伝えしてきましたが。



「無力(むりょく)」とは、絶望とセットであったり、立ち止まった状態の姿勢・在り方で、静的です。

「無力(むりき)」は、力み無く中道的に揺らぐ在り方で、動的です。



このことは、五木寛之さんが「無力」の中で、最後辺りでまとめて下さっています。

無力(むりょく)とは、(中略)動きの止まった、後ろを向くばかりの姿勢です。

(中略)

無力(むりき)とは、(中略)前向きで、自在な姿勢です。

※五木寛之さん著「無力」179ページより引用





流れ・自然(じねん)に力んで逆らったりせず、力むこと無く他力にお任せし、そこに感謝申し上げる。

しかし、だからといって「どうせ流されるしかない」と絶望するのではなく、自力を流れに沿って力み無く応用する。



このような塩梅が、力んでいる娑婆世界・現代社会を生きる智慧であったり、妙薬となるのではなかろうか、そのように私は思うております。



最も、私もまだまだ力みまくっていて、道半ばではありますがね。

無力(むりき)にも力まず、揺らいで仏道修行を歩む事に御座います。



合掌、礼拝

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