「抜苦与楽」はなぜ「苦を抜く」が先なのかを考えた話|うつ病の症状・陰鬱状態から見出した事柄

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



今回、前置きが結構長めです。






ここ最近、特に8月下旬から末は、どんどんと陰鬱とした感じになっていき、うつ病の症状・陰鬱状態が酷くありまして。

一つの要因としては、「あーでもないこーでもない」と、色々と手を出しすぎて、勝手にやることや作業を増やしすぎて、引きこもり気味だったこともありましょう。

ロードワークや筋肉鍛錬はしておりますが、それ以外の時は、「あーでもないこーでもない」という、頭の中がぐるぐるもやもやとした状態でありまして。

それがどんどん酷くなり、しまいにゃ「ああ、駄目だあ・・・。」と、終始陰鬱として、うつ病の症状が酷かった時代の陰鬱とした状態に、陥る状態に。



そこで、善知識の暖かい御言葉を頂いたりして、この状態を脱すべく、言うなれば「抜苦与楽」を行じようと、歩く瞑想をしに、京都の町を練り歩き始めました。



そこで、歩く瞑想なんば歩き編をやりながら、図書館の前を通ったから図書館に入ったとき、いつの間にか陰鬱とした症状、うつ病症状が幾許か和らいでいることに気がつきました。

そして、その時に唐突に、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「抜苦与楽」についての解釈が、ぱっとやって参りまして。



今回は、「抜苦与楽」について、唐突に私が思いついたと言いますか、現段階における時節にて採用することとなった解釈について、お伝え致します。



前置きが長くて申し訳ありません、が、もうちょっとお付き合い下されば嬉しゅう御座います。

これが、あなたの苦を和らげる「抜苦与楽」の一助となる可能性もありますがゆえに。

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歩く瞑想をして、辿り着いた図書館で浮かんだ「抜苦与楽」の解釈

うつ病の症状、陰鬱状態が酷くなり、太陽の光を浴びながらウォーキングをする、と言う事を、「歩く瞑想」にてやり始めた私に御座います。

「歩く瞑想」をして、陰鬱とした状態から、「今、ここで歩いていること、今、ここの足」に気づきながら、思考が浮かんでは動いている足に気づく、を繰り返しまして。



そうこうしているうちに、京都の中心部にある図書館までやって来ました。

こんなところに図書館があったんだ、と、足休めがてら、中に入ってみることにしまして。



その時、「あ、今、歩いている状態になり切っていた時間もあったためか、陰鬱とした状態が和らいでいる気がする。」と、感じたもので御座います。



そして、「自身の抜苦与楽を、歩く瞑想でなんとか出来たのであろうかなあ。」という思考が浮かんだとき、唐突に、「あ!」と、思いましてね。

「抜苦与楽って、「苦を抜く」が先に来ているけれども、もしかしたら、こういう事であったのか!」と、一つの解釈を見出したのです。



それは、「苦を抜くという事が、先に来ているこの順序は、凄く大切な事では無かろうか」という事です。

「抜苦与楽」は、何故「苦を抜く」が先に来ているか:順序に見出す「抜苦与楽」の教えと解釈

プラユキ・ナラテボーさんが、瞑想会で会う毎に教えて下さる「自他の抜苦与楽」

プラユキさんの本でも、「抜苦与楽」の教えは、何度も出て来ます。



この「抜苦与楽」について、大切な教えであるなあ、と頂いてはおりました。

しかし、この言葉の順序までは、きちんと考察したことがありませんでした。



それが今回、唐突に頭の中に浮かんできましてね。

もしかしたら、うつ病の症状・陰鬱状態が和らぎ、私の身心が「抜苦」の過程を経たと言う事も、関係しているやも知れません。

医学的・科学的に確かな事は言えませんが、一要素ではあるように、私には思えます。(だからといって押しつけたりしませんがね。)



何故、「抜苦与楽」は「抜苦与楽」であるか、「苦を抜き楽を与える」と、苦を抜くことが先にあるのか。

それは、私が以前に致しました話とも、関連があります。



参照記事:「「脳と瞑想」から「意味付けの中継地点」を学ぶ|自己啓発の不十分な点を補うプラユキ・ナラテボーさんと篠浦伸禎さんの良書」



例えば、「与楽抜苦」という順序であったと致しましょう。

この場合、確かに先に楽を与えるという事で、それが抜苦に繋がると言う事もあるのは一理あります。



ただ、この場合、もしも与える楽よりも、後ろに控えている苦が大きければ、苦が楽を飲み込んでしまいかねません。

人の世、人の心が、単純に数値化数式化出来るわけではありませんが、数字を使うと、「苦100」に対して、1や10の楽を与えても、効果が期待出来ない、というわけです。

むしろ、「こんなんな物足りない!」と、苦が増大するきっかけになりかねません。



一方、「苦」を先に抜く、苦を滅したり緩和させておく事が先であれば、どうでしょうか。

「苦100」を、先に「苦10」まで和らげておけば、与える楽は10以上でOK、という事になります。



あまりにも単純化し過ぎた解説ではありますが、「抜苦与楽」と「苦を抜く」を先に伝えてくれるこの仏法は、とても理にかなっている教えであるなあ、と、改めて味わったもので御座います。

「抜苦与楽」と、苦を抜くことが先にくる理由をRPGで譬えるならば・・・

「抜苦与楽」について、「苦を抜く」が先に来ている事を、RPGの世界観を用いて解説するならば、次のようになります。



先に断っておきますが、「いや、HP回復してから毒の回復しても間に合うし」とか、そういうゲーム上の話や議論は、ここでは脇へ置いておきます。

そういう話がしたいわけではありませんからね。



あなたは、ドラゴンクエストシリーズや、ファイナルファンタジーシリーズをプレイした事があるでしょうか。



この二つには共通して、「毒」という状態異常が御座います。

この「毒」という状態異常を持つと、移動中は一歩進む毎にダメージを被る、HP・生命力が減っていきます。

こうなると、どんなにHP回復をはかっても、「毒」という状態異常を何とかしないことには、歩く毎にダメージを被ります。

ブッダでなくても、毒の矢を食らって毒の状態異常を持ったら、「さっさと毒を抜きなさいよ」ってなもんです。



そりゃあね、「与楽、与楽」と、HPを回復させれば、延命は出来ましょう。

しかし、HPが減り続けるという状態は、一向に変わりません。

それよりも、「抜苦」、つまり、あると苦しみ続ける事となる苦である「毒」を抜く事が先決です。

こうする事で、「与楽」の後も、HPが減らないでいられる、という事になります。

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「抜苦与楽」から、物事を伝える順序の大切さを改めて教えて頂くお味わい

「抜苦与楽」という仏教の教えについて、「苦を抜き楽を与える」という順序を考えて、改めて、物事を伝える際の順序は大切であるのだなあ、と、頂く事となりました。



そして仏教においては、この事がうまいことなされているものであるなあ、と、改めて思うたもので御座います。



例えば、仏教の基本的な教えについて、「四諦八正道」がありますが、どのように伝えられていくか、その順序をご存じでしょうか。

「四諦八正道」とは、ブッダが悟ってから最初に法を説いた「初転法輪(しょてんほうりん)」にて、説かれた教えと伝えられています。



「人生は苦である。(苦諦)苦には原因がある。(集諦)苦は滅する事が出来る。(滅諦)その方法は八正道である。(道諦)」



これが、大雑把ではありますが「四諦」の概要であり、道諦で「八正道」が説かれます。

「八正道」は、八つの項目全てが有機的に結びついているから、別個のものではないと、「仏教用語の基礎知識」に御座います。



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それを踏まえつつも、私は聞法会館で真宗僧侶から、「まずは正しく観る事から」と、八正道が「正見」から説かれている意味も、教えて頂きました。

「まずは物事を正しく見えていない事には、その後の事も上手く行かない。」と、そのお坊さんは仰いますし、それはそれで「なるほどなあ。」と、思うたもので御座います。



なんとも理路整然としていると言いますか、順序よく説かれているなあ、と、私は観じるところで御座います。

物事を伝える際に「順序」をきちんと考える事は大切であると思う

「抜苦与楽」や、仏教の教えにおいて、伝えられている順序を味わった事から、私は「物事を伝える際、順序を考える事は大切であるなあ。」と、改めて思うたもので御座います。

この辺り、「対機説法(たいきせっぽう)」「応病与薬」の技・テクニックを考える上でも、一つの有用な智慧と言えましょう。



そしてこれは、物事を伝える事が下手な私自身を、改めて浮き彫りにさせ、学ばねばなあ、と、改めて気づいた事に御座います。



よくよく考えて見れば、話が上手な人や、物事を上手に伝えられる人は、話の構成・組み立て方や、物事を伝える順序が、上手い事たてられているように思います。

受け取る側が、きちんと理解出来るように、順序立てて解説して下さる、という人、あなたの周囲にもいらっしゃいませんかな。

文章においても、専門用語が結構使われているのに読みやすいし理解しやすい文章が書ける人は、構成する能力や順序立てて伝える事に長けている人であるという要素もありましょう。



私もブログに投稿する身である以上、そこも学ばねばならんのですがね。

なんとも、自分で言って、自分の至らなさを痛感する、今日この頃に御座います。

あくまで私における「抜苦与楽」の解釈だけど、使えるなら使えって頂ければ是幸いなり

今回は、「抜苦与楽」という仏教の教えについて、「苦を抜く」が先にあるという、順序に注目してお伝え致しました。



苦を誤魔化して楽を上から塗り固めても、根本的な解決になるとは、私には思えません。

それよりも、まずは「苦を抜く:抜苦」を先に行じ、その上で「楽を与える:与楽」に進む、この塩梅が一つの方法としてあろうかと存じます。



何はともあれ、まずは「苦」を滅尽すること。

そうして、楽を受け取れる状態にしてから「楽」を与えること。

この順序は、有用であろうかと思いますが、あなたは如何お考えでしょうか。



尚、今回の話は、あくまで私の「抜苦与楽」という教えについて、私なりの解釈の話であり、一つの解釈です。

これが全てではありませんし、間違っても押しつけたりすることは御座いません。



それを踏まえた上で、今回の話を、あなたにとって有用となりますれば、使って頂ければ幸いに御座います。



合掌、礼拝

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