「「気づきの瞑想」を生きる」プラユキ・ナラテボーさんの本に学ぶ:自縄自縛からの解放と「力み無く引き受ける」という事

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私は、プラユキ・ナラテボーさんに直接、幾つかの瞑想法を教わっておりまして、著書・本も何冊か読む御縁を頂いております。


先日、本屋にてプラユキさんの本「気づきの瞑想」を生きる」を購入する御縁がありまして。



「気づきの瞑想」を生きる」は、プラユキ・ナラテボーさんの本としては最初の頃と言ってもよい時期の本でありましょうか、カンポン・トーンブンヌムさんの監訳本の次辺りの本だったと記憶しております。



今回、プラユキ・ナラテボーさんが書かれた「気づきの瞑想」を生きる」を読んでおりましたところ、私も「ああ、この体験、あったなあ。」と、この身の事と頂く話がありましてね。



同時に、同じページに、お寺さんで突然「繋がった」という、身・口・意の三業を貫くような、腑に落ちた事柄とも通ずる話がありました。

今回は、その辺りの話をしてみることと致します。

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「「気づきの瞑想」を生きる」の内容:私も身に覚えのある話

まずは、プラユキ・ナラテボーさんが書かれた「気づきの瞑想」を生きる」という本の内容から、触れて参りましょう。

もちろん、著作権の事もありますから、引用するとしても最低限に留めるなどの注意は怠らずに。



私が、「あ、これは私も体験した事で、私も克服したことと通じる話だ。」と、思うた箇所は、194頁に御座います。



本の中では、プラユキ・ナラテボーさんの元にやってこられた日本人女性が紹介されていて、その方のエピソードが掲載されておりまして。

詳しくは、本を読んで頂く事が望ましいのですが、かいつまんで申し上げますと。



その女性は、他者から酷い扱いを受けて、トラウマを負うという経験をされています。

そのような経験から、詳細な内容は違えど、私も体験した事なのですが、次のような状態になっていたそうです。



「私は昔、こういう目にあったために、こういう事が出来ない。」



これ、本で紹介されている女性や、私だけではなく、存外多くの人が体験している事でもあろうかとは思います。

これを読んで下さっているあなたにも、身に覚えが御座いませんかね。(私のエピソードにつきましては、後ほど。)



プラユキ・ナラテボーさんは、この「私は昔、このような酷い目にあったから、これこれこういう事が出来なくなったのだ。」という話の後、このように続けられています。

大事な部分ですから、ここは正確に引用させて頂きます。


ところが、「私、昔こういう目にあったから○○できないんです」と、今度はその理論がその人の信念にまでなってしまったとき、その人は過去の奴隷となり、自律の可能性を逸してしまう。

※プラユキ・ナラテボーさん著「「気づきの瞑想」を生きる」194頁より引用



この文章を読んだとき、「まさに過去の私が幾つかの項目でやっていた事であり、囚われていたことであり、また、今もある事柄だ。」と、己を省みたものです。



私の体験談:信念にまでなった自縄自縛

ここで、私も幾つか体験した話の中から、わかりやすい事例として、一つ取り上げます。



私は子供の頃、小中学生の頃に、幾つもの酷い扱いによって、球技は見るのもするのも大嫌いになっていた時期がありました。

特に集団スポーツとしての球技は、もうね、アレルギー反応レベルで嫌っておりまして。

今では、そのような事はなくなりましたが、一時は本当に酷かったものです。



何故かと申しますと。



小学生時代、地域のソフトボール大会に3年生から6年生まで、強制的に参加させられましてね。

楽しむためのレクリエーションだったはずのものだったのですが、やたら勝負に拘る輩が何人かはおるわけです。

あなたの周りにもいませんでしたか、そういう輩。

そういう輩をはじめ、年上や同輩から、ちょっと失敗しただけでも時には暴力を振るわれましたし、酷い場合には、機嫌が悪いと八つ当たりをされたという事もありました。



中学時代には、サッカーの授業や球技大会などでは、何故か私はゴールキーパーをやらされて、失敗したら怒られる、の繰り返し。

いや、無理でしょう、サッカーのサの字も知らん素人が、いきなりゴールキーパーは。

動こうにも動けない素人に対し、一度、サッカー部の輩が「真面目にやれ!」と、私を殴りまして。



そういう事が積み重なり、一時はサッカーや野球などの球技そのものを憎むほどに、めちゃくちゃ嫌っておりました。

そして、そういう事に誘われても、「私はこういう過去があるから、もう絶対に出来ん。」と言って、断っていたものです。



当時の私は「球技=悪、団体競技=悪」という風に考えており、そこに囚われおり、「これこそが私だ」と言わんばかりに主張したこともありました。

まさに、自身の信念にまでして、その事によって自身を縛り上げる、「自縄自縛」であったことに、当時の私は気づいてはおりませんでした。

嫌うことを信念とまでして「自縄自縛」していた事からの解放

その後、しばらくはサッカーや野球といった集団スポーツから完全に離れた、離れすぎていたことが幸いしたのか、ある程度「観る人」に、自然となれていたのやもしれません。

その時は、まだ仏教ときちんと再会する前ではあったのですが、自然と、自身を縛り付けていた縄が徐々に緩み、そのことによって、みえてきた事も御座いました。



転機が訪れたのは、私がスキー場で勤務していた時代、私より年が若いルームメイトがサッカー大好きっ子でしてね。



その子は、テレビでサッカー中継を観ており、私も一緒に観る機会がありました。

やるのはその当時も嫌だったけれども、観るのはなんとか我慢できていた時期でありまして。

その試合は、確か欧州選抜と世界選抜のチームが、チャリティ試合だか何かをしていた試合で、ロナウジーニョさんやベッカムさん、中田英寿さんも出場されていたと記憶しております。

試合中、ファールや体当たりなどの激しい事は一切無く、時折、ロナウジーニョさんの凄く綺麗な動きとパスが観られたりと、サッカーが嫌いだったのに「おお。」と、思わず感嘆した事を憶えております。

気がつけば、きちんと最後まで試合を観戦しておりました。



その時、ふと、思うたのですよ。



「あれ、私はあんなにサッカーが嫌いだったのに、きちんとサッカーを楽しんで観戦できたぞ?」と。



この時、過去の嫌な経験を何度も反芻し、それをサッカーや球技に結びつけて、それが信念にまでなって、サッカーの素晴らしいプレイとの縁にも近づかないように自身を縛り付けていたことに気づいたものです。

恐らく私は、サッカーや野球などの球技に関する「自縄自縛」から解放された、解脱への道を歩み出したのでありましょう。

その体験をしてから、今では、サッカーや野球に対しての、昔に感じていた嫌悪感は全くなく、ワールドカップなどの試合を観る程までに回復したものです。



この過程・プロセスについて、プラユキ・ナラテボーさんの言葉を借りるならば、過去の奴隷となり、その奴隷となった自身の足を縛り付けていた足枷に自身で気づき、取り外せた、というところでありましょうか。



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「気づきの瞑想」を生きる」に学ぶ「引き受ける」という事

私が、「気づきの瞑想」を生きる」にて、自分事として頂いた事のもう一つが、195頁にある、プラユキ・ナラテボーさんが紹介された言葉です。



この箇所にて、プラユキさんは次の言葉、ボルテールという人の言葉だそうですが、紹介して下さっています。

そこも大切な箇所ですから、引用致します。


「人は誰でも人生が自分に配ったカードを受け入れなくてはならない。しかし、いったんカードを手にしたら、どのようにそれを使ってゲームに勝つかは、各自がひとりで決めることだ」

※プラユキ・ナラテボーさん著:「気づきの瞑想」を生きる」195頁より引用



これは有名な言葉らしく、恐らく「ボルテール 名言」か、上の文章の一部をコピーペースとして検索して頂ければ、全文を別のサイトでも読むことが出来ましょう。



肝要は、これを字面だけの話ではなく、精神論だけでは無く、身・口・意の三業を貫く形で腑に落ちているかどうか、ではなかろうかと、体験から思うところに御座ります。

腑に落ちたから偉いというのでは無く、どこまで実感できているか、という事と言いましょうか。



私は、プラユキ・ナラテボーさんが伝えて下さるこの言葉につきましては、つい先日、お寺さんで坐禅をしていた時と、その後にプラユキさんから歩行瞑想を指導して頂いて、繋がった事に御座ります。

その時の話は、こちらの瞑想会での出来事を綴った体験談を、ご参照頂ければと存じます。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんの春の関西瞑想会in京都2018に参加して体験談|午前中の仏教講座と繋がった話」



私は、坐禅をしている時、坐っているために動けぬ状態にて、聞こえてくる足音や車の音、電車の音と、自身の足のしびれを、まさに「頂いている」という状態に達しました。

そこで、「聞こえてくる音も、聞こえているこの身に起こっている現象も、足が痺れているというこの身に起こっている現象も、この身で引き受けていくのであるなあ。」と、力み無く、すっと腑に落ちたのです。



ここで肝要な事は、「力み無く腑に落ちる」という事です。



上述した、プラユキ・ナラテボーさんが紹介して下さる言葉を、精神論だけで力んで「こうならねば!」となると、その力みからひずみも生じる可能性が御座います。

プラユキさんが紹介された言葉を、力みありきの精神論で捉えたら、こうなるでしょう。



「配られたカードで何とかしないと、それを受け入れないといけないんだ!受け入れない自分は駄目な奴だ!」



これこそ、雑念悪玉論に支配されて、瞑想中に雑念が起こったら、「雑念が起こる私は煩悩だらけで駄目な奴だ。」と、自身を卑下し、その卑下によって自縄自縛してしまうという悪循環に陥ります。

そうではなく、「ああ、この身に配られたカードは、この身に配られたカードでしかなく、ただただ、引き受けるのであるなあ。」と、そんな感じですっと引き受けて手に取る、という感じです。

(申し訳ありません、この感じ、伝わらなければ、私の伝え方の課題でありまして、自身におこったあの坐禅での体験を、上手く言語化出来ていないというだけの話です。)



また、「自分に配ったカードを受け入れなければならない」で止まったら、確かに絶望的になる人がいてもわからんでもありませんが、こうも続いておりますでしょう。



「どのように使ってゲームに勝つかは、各自がひとりで決めることだ」



前の文と、この「どのように~」の文、セットで読んだときに、まさにプラユキ・ナラテボーさんから教わった歩行瞑想を思い出したものです。



歩行瞑想の時、プラユキ・ナラテボーさんは、「オープンハートで受容する」という事を教えて下さいます。

この「オープンハートで受容する」が、ボルテールさんの言葉の前半部分、「配られたカードを受け入れる」という事に通じると、私は解釈し致しました。



そして、後半に繋がる話を、プラユキ・ナラテボーさんはこのように教えて下さいます。



「気づいて、オープンハートで受容したら、気づいた次の一歩を自分で選択出来る、次の一歩を自らに由りて決めることが出来る。」



カードが配られたことにきちんと気づき、それを受容したら、そのカードをどのように使うかは、自身に由りて決めることが出来ます。



私の場合でしたら、サッカーの例に戻りますと。



サッカーで嫌な事をされたという事を、サッカー中継が目に入った時に思い出したとします。

その時、「あ、今、過去の嫌なことを思い出して、囚われそうになったぞ。」と、気づきます。



もちろん、気づいたからといって、過去に受けた仕打ちは消えませんし、その業は一生涯残ります。

でも、そこで「思い出したら怒りがわいてきた!ムキー!」と、三毒の煩悩を燃やして過去に囚われるか、気づいて「あ、囚われそうになった」と、気づいて戻るかは、気づいたその時に決めることが出来ます。

私は未だに、「ムキー!」になってしまう事はあるのですが、それでも、「あ、十二支縁起が回り始めたぞ」と、気づける事も出てきて参りました。



そして、気づいたら次の一歩を、「まあ、彼はサッカーに対して真剣すぎただけで、真剣に取り組む姿勢は見習う事もあろう、ただし暴力は駄目だから、私は反面教師として私の糧とさせて頂こう」と、過去に配られたカードを自身の糧と昇華する。

このように進めば、過去の奴隷にならず、今ここに自覚的に生きる術となろうかと思うのですが、如何でしょうか。



と、偉そうに申している私ではありますが、未だに気づきが間に合わぬ事多々あり、修行中の身であるため、自身に言い聞かせているという部分がほとんどでありますがね。


「気づきの瞑想」を生きる」ことは、自縄自縛から自身を解放する智慧

今回は、プラユキ・ナラテボーさんの著書「気づきの瞑想」を生きる」から、私が改めて気づき、学び、実践によって頂いた体験を通してお伝え致しました。



過去に嫌なことがあった時、それを色々な事柄と結びつけて、可能性を狭めると言うことは、往々にしてある事だと思います。

私自身、未だにやってしまう事であり、だからこそ、気づきの智慧によりて自身の縄に気づき、自縛している事から解放し続ける事が肝要であるなあ、と、思うところに御座ります。



今回の話は、「気づきの瞑想」を生きる」を元に話をして参りました。

プラユキ・ナラテボーさんの「気づきの瞑想」を生きる」は、紹介しました195頁以降は、浦崎雅代さんも紹介して下さっている、カンポン・トーンブンヌムさんの話も掲載されています。



参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」

参照記事2:「身体を仏法を伝える道具とする事と苦しみを観る人の話|浦崎雅代さんの記事(別冊サンガジャパンvol4)に学ぶ」

参照記事3:「浦崎雅代さんのnoteに学ぶカムキエン師の教え|「苦しむ人」から「苦しみを観る人」になり「苦しみを知る人」へ」



カンポン・トーンブンヌムさんは、今回の話に通ずる「苦しむ人から、苦しみを観る人へ」という、大切なメッセージを残して下さっています。

「「気づきの瞑想」を生きる」を読まれる方は、カンポンさんの本と共に読まれると、より理解が深まり、また、自分事として頂ける機会となるのではないか、そのように思います。



合掌、礼拝

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