無宗教でも宗教を学んでおいた方が良い3つの理由|宗教教育について

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。

あなたは、「宗とする教え」、つまり、特定の宗教に対して信仰があったり、門徒さんでありますでしょうか。
別に、私が浄土宗の檀家だからといって、浄土宗を勧めるために、このような話をしているわけではありませんからね。



日本では、クリスマスも大晦日の除夜の鐘も初詣も行くということで、宗教的に拙僧が無いと言う意見も御座います。

これだけ宗教的なエトス(行為様式)が根付いていながら、「私は無宗教です」という人も多いと言うのは、有名な話です。

無宗教であったり、特定の宗教・宗派に属していないという人が多いと言う事は、1996年に発刊された本「日本人はなぜ無宗教なのか」で、すでにあった概念です。



このような、昨今の無宗教という言葉と概念ですが、私は無宗教と自称する人でも、宗教史的に宗教をある程度は学んでおいた方が良い、と思うております。

私が、例え「私は無宗教です」という人でも、宗教を学んでおいた方が良いという理由は色々ありますが、今回は3つにしぼってお伝え致します。

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無宗教でも宗教を学んでおいた方が良い理由1:相手の宗教的領域を尊重し合うため

無宗教でも、宗教を学んでおいた方が良いと思う理由の一つ目は、
:自分と相手の宗教、相手の宗教的領域を尊重して踏み込みすぎないため
です。



これは、食事の場面を観ればわかりやすい事でありましょう。



例えば、恐らくあなたも豚肉を食べないというエトス(行為様式)を重んじて実践している宗教があることを、ご存じかと思います。

イスラム教では、豚肉はタブーとされているという事を、聞いた事がある人も多いかと存じます。



実は、イスラム教だけでは無く、ユダヤ教にも「豚肉を食べない」という食規範があります。

ユダヤ教では、蹄が割れていて、かつ反芻する動物しか食べられないから、馬も食べられません。

ユダヤ教の信仰熱い人に、馬刺しを出してはいけませんってことです。



この辺り、釈徹宗さんの「早わかり世界の六大宗教」で、学ぶ事が出来ますよ。



仏教にも、このような食規範はあります。

私も実際に目の当たりにしましたが、上座部仏教のお坊さんは、大変多くの戒律を守って暮らしていらっしゃり、食規範も戒律に則っています。

私は、プラユキ・ナラテボーさんとの懇親会に2度参加させて頂きましたが、そのどちらも夜でした。

上座部仏教のお坊さんは、夜は固形物を食べず、飲食はアルコールが入っていない飲み物しか口にされません。

プラユキ・ナラテボーさんも、水などアルコールが入っていない飲み物だけで過ごされていたことから、食規範を目の当たりにしたものです。



宗教には、社会通念からすると不合理かも知れませんが、このような戒律なり規範に則ったエトス(行為様式)が御座います。

無宗教で宗教に疎い人でも、きちんと宗教を学んでおくと言う事は、これらの行為様式を、少なくとも知識として知っておくと言う事になります。

そうすると、相手の食事規範についてもきちんと把握する事が出来て、相手の宗教心や信仰を妨げない配慮も出来るようになることに繋がります。



これは、お互いを尊重し合うお付き合いが出来る大きな要素です。



例えば、何か飲みに行こうと言う場合、お酒を飲まない宗教に属している人に、無理にアルコール飲料を勧めないでしょうし、飲む場所も珈琲か紅茶の店にしよう、という配慮も出来ます。



きちんと宗教を知っていれば、例え無宗教と言う人でも、相手の信仰心や宗教心を傷つける事なく、宗教的領域に土足で踏み込まないから、いらぬ衝突も避けられます。



もっとも、宗教を知っているからこそ、悪用された事があったという悲しい歴史がありましたがね。

この辺りについては、釈徹宗さんと大平光代さんの対談本「この世を仏教で生きる:今から始める他力の暮らし」の59ページに書かれています。

浄土真宗の話が多々出て来ますが、教育に関する対談は、宗教教育であったり、ここで私が話していることに繋がる大切な話をされていますから、無宗教自称者であっても、一読しておいて欲しいと思う本です。

宗教を知識として学んだ後、どうするか、という歩み方のヒントや智慧となりましょう。

無宗教でも宗教を学んでおいた方が良い理由2:常識や社会通念とは違う価値体系を持てる

無宗教を自称しちても、宗教を知識としては学んでおいた方が良いと思う理由の二つ目は、
:常識や社会通念とは、全く別の価値体系を持つ事が出来る
ということです。



よく、巷では「常識を打ち破れ」とか「常識に囚われるな」なんて言い方があります。

私は、ああいう言説は「常識を知った上で、きちんと打ち破ること」という解釈をしております。

常識知らずで世間知らずの状態で、勝手気ままわがままに振る舞ったり突っ走るのは、常識を打ち破っているといえばそうですが、単なる常識知らずの無礼者というケースもありますからね。

「型破り」と「形無し」の違いという、型破り論にも相当する話でです。



ただ、社会の中で生きていると、何が常識かと言う事も分からなくなるときがありますし、常識や社会通念に染まっている状態で、それを打ち破れと言われても、なかなか難しい事も御座いましょう。

そこで、一気に価値転換、価値観の転換が起こるような価格反応を起こす場合に、実は宗教の領域が力や知恵を貸してくれる事が御座います。



これは釈徹宗さんの講義で教わった事ですが、そもそもとして、常識や社会通念は合理的であり、宗教や文化は、社会通念から観たら不合理な事も御座います。

効率化や合理性が求められる傾向が強い現代社会においては、社会通念や常識が培ってきた考え方というのは、とても大切です。

ただ、そればかりでは立ちゆかなくなる事は、この娑婆世界で起こり得る現象です。

そのような時に、全く違う視点や価値体系からの視点があれば、現状を打破出来ると言う事も御座います。



例えば、移動すると言う事を考えた場合、現代社会でしたら、自動車を使う方が圧倒的に効率的ですし合理的です。

一方で、アーミッシュと呼ばれる人達は、電気やガス、車などは使いません、現在も馬車が現役です。

現代の日本社会から見た場合であったり、効率化だけを観れば、アーミッシュの生活様式は不便に思えることも御座いましょう。

しかし一方で、効率化だけしか見えていなかったところに、ポンっとこのような生活様式や文化の価値体系が入ってきた場合、思わぬ解決策が出て来たりすることも、歴史を紐解いたら見つかることも御座いましょう。



また、ごりごりな効率化であったり合理性重視の社会にどっぷりつかり、そこについて行けなくなって、しまいにゃ私のように睡眠障害やうつ病等の症状を持つ事になる人もいます。

合理性重視であるならば、生産性を失った私は、即刻排除ということになったり、また私自身が体験しましたが、「こんな私はダメなんだ」と、自分で自分にとどめを刺しかねない状況に陥ります。



そのような中で、私の場合は浄土宗のお坊さんや仏教にお救い頂いたという経緯が御座います。

社会通念や合理性、常識だけの世界観しか持てなかったら、どうなっていたかわかりません。

プラユキ・ナラテボーさんの仏説と瞑想によって救われたうつ病の人もいらっしゃることからも、その感覚が何となく理解出来ます。



このように、社会通念だけでは立ちゆかなくなった場合、全く別の価値体系として智慧から現状を改善出来ると言う力が、宗教にはあります。



もちろん、インチキ宗教や危険な宗教団体に引っかからないという注意は必要ですけれどもね。

それが、無宗教でも宗教を学んでおいた方が良い理由の3つ目の話に続いて行きます。
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無宗教でも宗教を学んでおいた方が良い理由3:宗教的な暴走をしない安全装置となる

自分は無宗教だとしても、宗教を学んでおいた方が良い理由の三つ目は、
:インチキ宗教に引っかかったり、宗教的な暴走をしないため
です。



某宗教団体の反社会的な事件がまだ記憶に新しく、その事例によって「宗教は危険だ」「宗教は何となく怪しい」といった情緒を持っていらっしゃる人も多いかと存じます。



「私は無宗教です」という場合、「私は、危険ではありませんよ」「怪しい宗教とは無縁ですよ」と、声なき声があるから、という部分も私は見出しております。

確かに、そういうインチキ宗教じみた宗教団体の事例もありますし、「宗教は怪しい」と言われる事については、否定致しません。

玄侑宗久さんと五木寛之さんは、対談で「怪しかったり胡散臭いのが宗教の命」と表現されています。

宗教って、社会通念や社会的価値体系からすれば、不合理な部分が多々ありますし、確かに胡散臭さであったり、怪しい部分があるのは、ごもっとも、と私も思います。



ただ、だからといって学ばなくて良いと極端に避けるのは危険だと、私は思うております。



某宗教団体で盲信していた人達の中には、高学歴で社会的な頭の良さを持っていた人達が多かった、という事に衝撃が走ったと言う事も、覚えていらっしゃる方も御座いましょう。

恐らく彼らは、宗教教育を全く受けてこなかった、宗教に対して無頓着すぎた、免疫がなさ過ぎたと言う事が、要因の一つであったのだろうと観ております。

もちろん、それだけが原因ではなかったでしょうが、宗教に対する免疫や知識がなさ過ぎて、無防備であったのはありましょう。



例え無宗教であっても、宗教をきちんと学んでおくと言う事は、こういった事柄に巻き込まれないための安全装置を身につけ、自衛すると言う事にも直結致します。



最近もまだまだ盛況な、宗教じみた自己啓発セミナーや、「この財布を買ったら、頭痛が治りました」などといった霊感商法の構造の理解までいけたら、そういった詐欺にも引っかからなくなります。

自己啓発セミナーや、最近流行のプロダクトローンチとかセールスレターの類いも、宗教サイドの視点からすれば、霊感商法的な部分を見抜けるようになりますからね。



無宗教であっても、いや、無宗教と自称し自認しているからこそ、きちんと宗教を学んでおくことは、自衛する智慧を育む一助となるのです。

知識として知っておく、信仰を押しつけない総合宗教史的な宗教教育も大切だと思う

宗教教育については、私立の宗教系の学校ではなく、公立の学校では、今も議論がされております。

世界を見渡しても、公立の学校では宗教的エトス(行為様式)について、是非の議論がありますね。

例えば、着ていく服をどうするか、など。



日本においても、宗教教育については憲法と教育基本法に定められており、信教の自由の話もありまして、特定の宗教を布教するような教育が出来ないシステムです。

公立の学校において、特定の宗教に肩入れするような宗教教育は、確かに私はバランスを欠く事だと考えております。

おりますが、それにしたって、ちょっと宗教教育をしなさすぎていないか、という懸念も、私の学生時代を通しても思うところが御座います。



学校で宗教に触れる授業や活動と言えば、京都や奈良に修学旅行で清水寺や八坂神社に行くか、歴史の授業でちょっと触れるだけというのが、現状でありましょう。

このような感じで、宗教に全く触れる機会、学ぶ機会がなさ過ぎると、後々宗教的な暴走をしてしまったり、反社会的な宗教団体や霊感商法をふんだんに盛り込んだ自己啓発の類いに人生を奪われかねません。



そうならないためにも、無宗教を自認して自称するのは結構ですが、知識として学んでおくことは、大切であろうと考えております。

日本の高校教育では、倫理の授業で哲学者や思想について学びます。

それと似たような感じで、総合歴史的な宗教の授業も持っては儲けては堂だろうかというのが、私の勝手な提言であります。



もちろん、宗教を教えられる先生側の課題もありますから、すんなりとはいかんでしょうがね。

その辺りは、宗教を中立的な立ち位置から教えてくれる先生をお招きするという方法があります。

最近では、「宗教文化士」という資格も設置されておりますし、外部委託する際の参考もこうしてあるわけですからね。

また、釈徹宗さんが専門とされている、比較宗教学も学ぶ事が出来ますし、それらをきちんと学び終えた人をお招きする、という方法だってあるわけです。



特定の宗教に偏らず、信仰を押しつけないという注意をしながら、まずは知識として世界にどのような宗教があるか、どのようなエトス(行為様式)や信仰があるのかを、歴史から学ぶと言う事は、意義ある事でありましょう。

無宗教であっても、無頓着でなく宗教的情緒を育む事は出来るはずです。

お互いを尊重し合うための教育にも繋がる、私はそう思うておるところで御座います。



合掌、礼拝

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