「対応」に繋ぐ「反応しない練習」をする日々|英語で意味を紐解き日常で活かす具体例

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、「対応」と「反応」という言葉について、考えた事があるでしょうか。


私は以前、「対応」も「反応」も、英語で表すならどちらも「response(レスポンス)」で通じるだろうと、気に留めたことすらありませんでした。



それが、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会や本を学び、復習する内に、ふと、プラユキさんは「対応」と「反応」を明確に分けて使われているのではないか、と思い至りまして。

実際に、プラユキ・ナラテボーさんの本を開いてみると、「対応」と「反応」が使い分けられていると観える箇所がありますし。



その過程を経て、私は現在、反応しない練習としての手動瞑想や歩行瞑想を行じ、気づく智慧を磨いて「苦しみを観る人、気づく人」の修行をし続けております。

反応しない練習と言えば、草薙龍瞬さんの本「反応しない練習」と、どんぴしゃりの本もありますね、私も購入して読みました。

草薙龍瞬さんの「反応しない練習」を引っ張り出して復習すると、そこにも「反応」についてかかれており、更に学ぶ事となりまして。



そんなこんなで、「対応」と「反応」という言葉と共に、対応に繋ぐための反応しない練習を続ける私に御座います。

今回は、「対応」と「反応」という言葉の違いを、英語も用いながら学び直し、反応しない練習を経て「対応する智慧」を養う事に繋がる、私の日常での気づきをお伝え致します。

具体的事例と共にお送り致しますから、使えるところは使って頂ければ、大変嬉しゅう御座います。



尚、今回の話は、あくまで私が実体験を経ての、私個別による体験記でありまして、これが全てでは御座いません。

あくまで私の「対応」と「反応」に関する体験を通した一解釈であり、学術的な正しさとは別次元の話ですから、その辺りご了承頂ければと存じます。

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「対応」に繋ぐ「反応しない練習」の話をする前に:きっかけ

今回の話を進める前に、今回の話をするきっかけについて、触れておきます。

この話をしておくことで、仏教に興味を持って下さったり、仏縁結ばれる事もありましょうし。



プラユキ・ナラテボーさんは、「たかが言葉、されど言葉」という話を、現段階における主著とも言える本「自由に生きる」にて、説いて下さっています。

その他の本でしたら、「実践!!瞑想の学校」でも、「対応」「反応」という言葉を、使い分けられている箇所が観られます。

具体的には、58ページにこのようにあります、ちょいと引用致しますね。


(前着)無自覚に反応してしまうのが心の癖の特徴です。

でも、そうしていることに気づけば、しっかりと対応できるようになります。

※「実践!!瞑想の学校」58ページより引用



私はこれら本を読んだり、実際にプラユキさんの瞑想会に参加させて頂く御縁にて御法話を聴聞して、直接その教えも頂いております。



もう一つ、「反応しない練習」という本にも触れましたから、そちらも紐解いて見ますと。

草薙龍瞬さんの「反応しない練習」では、表題・タイトルにもなっているだけあって、2ページから「反応」という言葉に点が付けられていて、伝えられています。

また、プラユキ・ナラテボーさんの本とも共通する事に、「反応」は「無自覚・無明」がセットで解説されています。

このことから、何らかの刺激への無自覚な応答を「反応」という言葉で表されているな、と、私は解釈しております。



私は瞑想会での御法話や、これらの本を読み進めていく内に、「対応」と「反応」という言葉を使い分けられていることに気がつきました。

冒頭で申し上げた通り、それまでは私は「対応」と「反応」について、意味の違い・差異について意識する事すらありませんでした。



しかし、ソシュール氏や言語学を少しかじったり、色々な経験を経てから、プラユキ・ナラテボーさんの言葉の使い分けと出会ってから、ふと問う事に至りましてね。

そして、日常生活の中で具体的事例が私に御座いまして、そこで「そうだったのか!」と、池上彰さんの番組名宜しく的な気づきを頂くに至りました。

「対応」と「反応」の意味を英語で学ぶとわかりやすいかも

ここで、少し言葉のお勉強。

英語を使って「対応」と「反応」を学び直してみましょう。

多言語を用いる事で、より理解が深まると言う事も御座いますからね。



「対応」「反応」は、どちらも「response(レスポンス)」という英語・英単語で通用します。

試しに、私と同じくATOKというソフトウェアを使っていらっしゃる方は、「対応」と「反応」の英語表記まで変換してみて頂くと、おわかり頂けるかと存じます。

「対応」も「反応」も、スペースキーを押していくと、「response」と出ませんかな。



以前の私は、まさにこの変換と同じような感じで、「対応」も「反応」も、区別しておりませんでした。

そして、プラユキ・ナラテボーさんの教えに出会ってから、改めて英語での言い回しや表現を学び直すと、私にとって「これだ」と思える英語表記が見つかりまして。



それが、次の通りです。



「対応」は、私にとっては「correspondence」が、最もしっくりきます。

「correspondence」には、「調和」という意味がありまして、この意味を内包している英語の表現が、後に話しますことに繋がっていきます。

「反応」は、「response」「reaction」辺りかな、というところです。

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「対応」と「反応」の意味:「反応」を私はこう頂く

英語での表現も学んだところで、私が現段階において「対応」と「反応」をどのように頂いているか、どのように解釈をして日常に転用しているか、お伝えしていきましょう。



まず「反応」から。



「反応」は、「response」「reaction」という英語の意味を学んだ通りで、平たく言えば「返す」ということですね。

ただ、私は「反応」とは、「無自覚」な応答という捉え方をしております。

「反応」という語に、私は「反射的な」とか、条件反射だとか、そのような語感・ニュアンスを含んでいると感じておるのです。



人には、何らかの性質なり習慣、癖がある事かと存じます。

「反応」とは、その習慣なり癖に準ずる形で、その癖に無自覚なままに応じる姿・仕方である、というのが、私の解釈です。



例えば、嫌いな人と出会う、怨憎会苦と遭遇した場合に、「うわ、嫌だな。」と思うて、「嫌だ嫌だ嫌だ」と、嫌だという念いが沸き上がるのが、「反応」です。

そして、「何故、嫌なのか。」「この気持ちはなんなのか。」と、問うことすらしない、ということもありましょう。

まさに、「無自覚なるままに反応している」という状態です。



また、この解釈に加えて、言葉遊びのように思われるかもしれませんが、私は次のような解釈なり頂き方をしております。

それは「反応とは、無自覚に「反発」する応じ方」です。



これは、生存欲求や、人に先天的に備わった危機回避能力にも言える事ですから、一概に悪ではありません。

熱い湯に誤って触れたときに、「あち!」と反応出来なければ、火傷してしまいますからね。

ただ、この「無自覚なまま反発する応じ方」を、なんでもかんでもやってしまうのも、娑婆世界を生きる上では具合が悪う御座います。



例えば、明らかに自分が不味い事をした時、「これはいけませんよ。」と注意を促された時、ついつい「うるさい!」と反応した経験をお持ちの人もいらっしゃるかと存じます。

私は今もやってしまう事が御座いますから、偉そうな事を言えないのですがね。



また、「じゃあ、反応しなきゃいいんだね。」と短絡的に考えて無視をする事、これも「反応」です。

「無視するという反応」は、自分の意にそぐわないことに「反発した応じ方」の一つの様式・仕方に過ぎません。



これが、私の現段階における「反応」という言葉の意味と概念に対する解釈です。

「対応」と反応」の意味:「対応」を私はこう頂く

次に、「対応」という言葉の意味について。



「対応」とは、私は「気づく事」によって、出来るようになるものである、と、頂いております。

「反応」は無自覚とセットと頂き解釈すると申しましたが、「対応」は「自覚・自覚的」とセットで、私は考えるに至りまして。

無自覚に反応していた習慣に、気づいて「観る目」を養う事により、自覚的に対応出来るようになる、という事です。



そして、自覚的に対応出来るようになれば、気づいて自身を調えて、他者との和を乱さぬように対応出来るようになる、と、繋がっていくわけです。

英語のところでも学んだ「調和」にも繋がることが、おわかり頂けるでしょうか。



今まで無自覚なままに「反応」していたのが、「あ、今、反応が出て来たぞ」と気づいて自覚できるようになれば、「対応」出来るようになる、というのは、何となく掴んで頂けますかな。

抽象的な話ですから、ちょいとわかりにくいかもしれませんが、私の「反応」と「対応」の解釈を言語化すると、このようになります。

「対応・対応力」を養う「反応しない練習」:気づきの瞑想などは具体的な修練方法

現段階における私の「反応」と「対応」という言葉と概念の解釈は、上述の通りです。



「反応と対応の意味や、差異はわかった。それじゃあ、反応じゃなくて対応に出来るようにするには、どうしたらいいの?」

意味や概念を知ったら、今度はこういう問いを発する方もいらっしゃいましょう。



これについては、「自覚する事」「気づく事」という話を少ししました通りで、気づく訓練をしていくことで、養っていくことが出来ます。

この訓練が、まさに「反応しない練習」という、上で紹介しました本のタイトルにも繋がるわけです。



無自覚な「反応」から、そこに気づきの智慧によって「対応」して次の一歩へ繋げる具体的な方法は、私がこの寺院(ブログ)でもたびたびお伝えしている、気づきの瞑想が御座います。



私は、日常生活に瞑想思考を取り入れたり、手動瞑想と歩行瞑想を行じております。

手動瞑想時には手を気づきの装置として、歩行瞑想時は脚・足を気づきの装置として、ふとした時に、体を媒体として気づいたり、意識を一旦体に戻す、という事を日々訓練しております。



参照記事:「マインドフルネス瞑想の効果|日常で活かされた3つの体験」

参照記事2:「日常生活の中で出来るマインドフルネス瞑想の方法|プラユキ・ナラテボーさんから教わった事」

参照記事3:「手動瞑想を続ける日常生活での実感|「気づきの瞑想」の効果を頂ける日暮らし」

参照記事4:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」



もちろん、まだまだ上手く出来ない事ばかりではありますが、気づいて体に戻る時もちょくちょくと実感してきておるのも、また事実です。



反応しない練習を経て、無自覚な反応をする癖に気づきが間に合うように自身を調え、和となる対応力を養っていく。

「反応」から「対応」へ。

「対応」と「反応」を体感した私の体験:日常で活かす具体例

今回の話を、日常でどのように活かすか。

これについては、私が日常で体感した体験が御座いますから、それを参照して頂けるかと存じます。



少し前、私はせっせと業務を進めておりました。

結構ノリノリで作業をしていたのですが、そこへ突然、頼まれ事が飛び込んできましてね。

こういうことってありませんかな、やっている作業がノリノリになってきた時に、強制的に中断する事となる外界からの刺激など。



以前の私でしたら、即「反応」して、「折角上手く作業にのっていたにムキー!」と、瞋恚(しんに)・怒りの煩悩に飲み込まれて、それによって更なる「反応」をしてしまっていたものです。

場合によっては、「また邪魔ばっかりして!」と、喧嘩腰の反応をして、泥沼に嵌まる始末。

実際にそれで、ものごっつ険悪な感じになったこともありましたからね。



そういう「反応」をしてしもうておった私。



こんな経験がある私ですが、少し前に、また似たような状況と遭遇しました。

この時、私は確かに、以前のような「反応」は、あるにはありました。

「む、のっていたのに作業を中断させられた!」と、「反応」そのものはあったのです。



ただ、その日は以前とは違い、「あ、今、反応しているぞ。」と、気づきが間に合いました。

(「気づきが間に合う」という事については、こちらでお伝えしております。)

参照記事:「丁寧な暮らしに繋がる「気づきが間に合う」という実体験の話|プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんとホームさんからの教え」



この時私は、「今、自分都合を優先させようと「反応」した。」と、「反応」を明確に自覚するに至ったのです。

そして、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「自他の抜苦与楽」を、次の一歩を進む道標として、その上で「対応」するに至りました。



その後、この時の私は、「今の私の作業は、急ぎの事ではないし、今から頼まれる仕事は、急ぎのことで私が動くことによって、抜苦与楽に繋がる可能性がある。」と、冷静に思考する事が出来たのです。



この出来事を経て、私は「ああ、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下すった、「反応」と「対応」の違いって、こういう事だったのであろうか。」と、考えるに至りました。



「反応」から「対応」へ、反応しない練習を

今回は、私が体験を通して気づいた「反応」と「対応」という言葉の意味と違いについて、英語も使いながらお伝え致しました。



尚、今回の話の中でお伝えした本には、反応しない練習の具体的手法についてもかかれております。

「実践!!瞑想の学校」は、こちらです、プラユキ・ナラテボーさんの手動瞑想も学べますし、坐禅やその他の事柄も学べる一冊です。


この寺院(ブログ)で、今回初めてお伝えした本「反応しない練習」は、これです。

読みやすい本に仕上がっていると感じました。




そして、ここで毎度おなじみの注意事項をば。



「反応」から「対応」へ、「苦しむ人」から「苦しみを観る人」となり、反応しないように気づきが間に合うための方法として、瞑想を一つの方法としてお伝えしておりますが。



実際に瞑想を行ずる場合は、毎度毎度お伝えしておりますが、一度は瞑想指導者に直接教わる事が望ましい、という事は、口を酸っぱくして、再度申し上げておきます。



出来る事ならば、私も実際に行っている事ではあるのですが、定期的に瞑想指導を賜る事が望ましい。

誤った方向に進んでしまっていたり、修正が必要になる場合もありましょうからね。



そうして、反応しない練習を日常に取り入れて、ついついやってしまいがちな「反応」に、気づきが間に合って、調和なる「対応」に進まれる一助となりましたら、嬉しゅう御座います。



合掌、礼拝

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